2012年12月7日金曜日

昭和17年(1942)10月28日 辻参謀は、「生れて四十年幾度か戦場に立ち(ガダルカナルの)此度程の辛苦はなかった」と、・・・(宮崎手配)

東京 北の丸公園 2012-12-05
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昭和17年(1942)
10月28日
・米英ソ中、重慶で東亜作戦会議を開催。
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10月28日
・吉田茂、近衛の画策により、自宅で宇垣と真崎を会わせる。
宇垣はこの構想に乗らず、「近衛一派は自己の描いた型に近いものを作らせようとしているのだ」とし、「余は断じて他の拘束下に組閣など成さんとする意思はない」(12月26日日記)とする。
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・日本・タイ文化協定調印
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10月28日
・英空軍、エル・アラメイン南方のドイツ軍戦車隊を撃破
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10月29日
・蛍石配給統制規則
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10月30日
・ガダルカナル、作戦会議において、第38師団のコリ岬上陸中止決定。

29日午前4時、宮崎参謀長、大前参謀、堺吉嗣大佐(後、広安大佐後任として第16連隊長)は飛行艇でラバウル発、7時ショートランド着、7時30分駆逐艦「時雨」で出港、午後9時ガダルカナル着。
30日朝、軍戦闘司令所で作戦会議。出席者は宮崎参謀長、大前参謀、小沼、杉田、越次、平岡、山内各参謀。
宮崎参謀長は、海軍主力は内地帰還して整備の必要あり、海軍は当分弱化し、海上輸送は困難となる。従って、第38師団のコリ岬上陸は困難で、今後の攻撃主目標はルンガ西正面としなければならない、コリ方面の作戦は輸送・補給の面からみて甚だ不確実という。
しかし、高級参謀以下他の参謀は、第38師団のコリ方面揚陸を主張し、参謀長案に反対。
午前9時頃、辻参謀が第1線から帰還、第2師団の状況を報告、「生れて四十年幾度か戦場に立ち此度程の辛苦はなかった」と、その顔色相貌は苦難を物語る(宮崎手配)。コリ問題については、「極めて簡単率直に」(コリ揚陸を)変更する方がいいと答える。
第1線の状況に一番明るい辻参謀の意見で、事は決す。
第38師団主力のコリ岬上陸は中止、コリ支隊の山砲兵中隊(砲2門)、無線1分隊、歩兵第230連隊歩兵1中隊(糧秣2千人10日分)、弾薬を、海軍艦艇により、11月1日夜コリ付近に揚陸し、歩兵第230連隊長指揮下に入れると発令。
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10月31日
・台湾に司法保護事業法公布
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10月31日
・拓務省廃止
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10月下旬
ビルマ戦線。
イギリス軍、アキャブで反撃攻勢、連日連夜、アキャブ空襲。
アキャブ~ブーティーダウン・マウンドオ(ブチドン・モンドオ)防御線が日本軍側の作戦計画に乗る。

日本軍のビルマ侵入時、ビルマの英軍・中国軍は大打撃をうけて敗走、中国軍はサルウィーン河を越えて雲南省に、英軍はアラカン山系を越えてィンドのチタゴンやインパールに後退。
しかし、間もなく英軍はビルマ奪回を計画、反攻準備に入る。
日本軍は主力部隊をシャン州の高原の避暑地に集め、保健と訓練の名目で休養。
7月中旬、第33師団長桜井省三中将はアキャブの重要性に注目し、第213連隊長宮脇幸助大佐に、アキャブ確保とビルマ・インド国境付近の要地占領、情報収集を命令。
宮脇大佐は歩兵1個大隊・山砲1個大隊を以て宮脇支隊とし、アキャブに移動、前から警備にあたっている隷下の第2大隊と合一し、一部をプーティーダウン・マウンドオ(プチドン・モンドウ)の線に出し敵情捜索に努め、この2地点を結ぶ防衛線が作戦計画に浮び上がる。

英空軍は連日連夜アキャブを空襲。日本軍の自動車、舟艇、人ひとりでも、昼間の行動はできないほど。
この頃、東部インドに集結した米英空軍機は250機で、日本軍航空兵カは第5飛行師団の3個飛行団210機。
しかし、米英空軍機の来襲は、10月300機、11月600機、12月1200機に及び、勢力の均衡は破れ、ビルマの制空権は間もなく連合軍に奪われる。
12月、第5飛行師団の百式司令部偵察機は、インドのチタゴン港に英軍輸送船団60隻集結を偵察。
続いて、第14英印師団(英国人将校指揮のインド兵部隊)がアキャブ北方に迫って来る。
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