2012年12月21日金曜日

昭和17年(1942)12月26日 「興行町もさほどに騒しからず世の中追々眞底より疲勞し行くが如し。芝口に飯し月を踏んでかへる。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

江戸城(皇居)二の丸雑木林 2012年12月
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昭和17年(1942)
12月16日
十二月十六日。池田君遺族より大伍戯曲選集一巻を贈らる。夜金兵衛に飰す。凌霜子より焼海苔食麵麭を貰ふ。
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12月17日
十二月十七日。晴。金兵衛にて夜諸子と共に豚肉を食す。
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12月18日
十二月十八日。朝。初雪すこし降りて歇む。晡下土州橋に至る。夜雨ふる。
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12月19日
十二月十九日。晴れて風さむし。頃日諸方より新年の句を請はる。左の拙吟は唯責をふさぐに過きず。
朝寐して拝む初日や床の山
初霞引くや春着の裾模様
酔ふまゝに羽織の裏を筆始
初富士は朝寐の夢に拝みけり
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12月20日
十二月二十日 日曜日 晴。夜金兵衛にて清潭子に逢ふ。
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12月21日
・十二月廿一日。晴。寒月皎々。昏暮寺嶋町漫歩。
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12月22日
十二月廿二日。晴。晡下病歯治療。森先生遺女小堀杏奴來書。
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12月23日
十二月廿三日。陰。午後小堀杏奴其良人小堀四郎氏相携へて來り訪はる。其近著回想一巻及青森林檎一盆を贈らる。夜寒雨霏々。
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12月24日
十二月廿四日。陰。台湾森於菟氏鴎外の母(硯山院峰雲谿水大姉三十三回忌紀念)一巻を郵迭せらる。返書を裁す。昏黒金兵衛に至りて飰す。始て頼新氏に逢ふ。山陽の後裔なり。渋谷青葉町に住すと云ふ。歸途風暖にして月おぼろなり。春夜の如し。
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12月25日
十二月廿五日。陰。
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12月26日
十二月廿六日。陰。當月初よりガス風呂は医者の診断書なければ禁止の由に付き昏暮土州橋の病院に至り歸途金兵衛に立寄り夕飯を喫す。此日寒気漸く凛冽となる。空晴れて月明なり。
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12月27日
・十二月廿七日 日曜日 朝早く起出る時は炭を費す事少からざるを以て晝近き日影の窓にさし込むころ寐床を出で米をとぎて炊ぐ。冬寒くなりてより毎日かくの如し。四時頃家を出で淺草に行きて見しが買はむと思ふ食料品を得ずあたりを散歩す。東武鐡道停車場には日曜日にかぎり近県の温泉遊山場行の切符を賣らぬ為にや人甚しく雑沓せず。興行町もさほどに騒しからず世の中追々眞底より疲勞し行くが如し。芝口に飯し月を踏んでかへる。
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12月28日
十二月廿八日。晴。歯の治療漸く終る。金兵衛のかみさんより砂糖を貰ふ。砂糖闇相場一貫目十七八圓の由。××子小星より煮豆を貰ふ。
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12月29日
十二月廿九日。朝蓐中に福地櫻痴の作朝鮮宮中物語張嬪を讀む。櫻痴居士の名は今日全く忘却せられ其著述の如き殆ど棄てられて顧みるものさへ無きが如し。されど明治時代の政治文藝を研究するもの一應は櫻痴居士の小説戯曲雑著の類は之を一讀すべき必要あり。過日一讀したる練絹新三郎の一篇の如き幕末の世相を目撃せし人にして始めて筆にすることを得るもの。張嬪の作も亦然り。櫻痴居士の伝記の世に在るや否やも今日になりては知るを得ず。淺草公園に石碑立ちてあれど其撰文は頗杜撰にして盡さゞる所あり。余は居士が筆にせしものを蒐集し徐に之を梢讀せむと欲するなり。夜金兵衛に行きて夕飯を喫す。居合す人の語るをきくに新橋上野其他の停車場にては年末の旅行者を制限し切符を賣らず之がため地方より出京し居たる者供年内には家に歸ることを得ず困却しつゝありと云。
〔欄外朱書〕福地先生ノ伝ハ野崎左文著私ノ見夕明治ノ文壇ニ詳ナリ天保十二年三月廿三日生明治卅九年一月四日歿享年六十六
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12月30日
十二月三十日。晝の中より靄かゝりて四時過にはあたり既に薄暗く街燈の火影もおぼろなり。熱海の知る人よりよこせし手紙の末に同地に在りし英国公使アルコック愛犬の墓はこの程同地青年団のため取壊されしといへり。生麦久里濱などに在る紀念碑もその中破却せらるゝに至るぺし。小堀杏奴再び書あり。
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