2012年12月22日土曜日

元亀3年(1572)5月~6月 越中はほぼ信玄・一揆方の手に落ちる。  [信長39歳]

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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元亀3年(1572)
5月
・一向一揆勢3万、北陸道東へ。上杉方日宮城(射水郡)包囲。新庄城よりの援軍到着前に陥落、援軍も伏兵に大敗。
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・武田信玄、美濃の安養寺を通じて郡上八幡の遠藤氏調略を進める。
8月頃から、下伊奈衆・木曾衆による美濃・飛騨侵攻。
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5月1日
・エリザベス女王を排斥したローマ教皇ピウス5世(68)、没(位1566~1572)。
13日、教皇グレゴリウス13世、即位(位1572~1585)。
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5月2日
・信長、小早川隆景へ書簡。
大友義鎮が上洛を望んでいるが、信長・毛利氏の和親関係を考慮し毛利氏と敵対している大友義鎮上洛に対して未だ返答していない。「天下之儀」は信長が「加異見刻」であり、遠国の人物の上洛は「為京都」・「為信長」に最善の事であるので、毛利氏の賛同が得られてから大友義鎮の少人数の上洛を通達する予定である。詳細は朝山日乗・武井夕庵(「夕庵」)に伝達させる。(「小早川家文書」1)。
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5月2日
・大和興福寺、信長より織田軍到来の通達を受ける。
3日、奈良中では「道具ヲ隠」す。
4日、「以之外物騒」な状態。(「多聞院日記」2)
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5月2日
・朝倉義景が三好義継に発した密使、信長方に捕らえられ一条戻橋で焼き殺される。
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5月5日
・織田軍先発隊、西の京着。7日、織田勢、西の京着。
9日、織田方筒順慶、東大寺南大門着陣。織田軍、多聞山城の北側まで包囲。午刻、多聞山城攻撃。
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5月7日
・将軍義昭側近一色藤長の六角承禎宛て書状によると、京都では「東国(信玄)出馬」の風聞が流れる。
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5月8日
・足利義昭、三井寺の光浄院暹慶(後に還俗し山岡景友)を上山城半国守護に補任(「兼見卿記」同日条)。
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5月10日
・下間正秀、江北十ヶ寺に宛て、「信方(信長方)与ハ、尽未来不可被仰通」といい、さらに「其方儀、毎度、一揆衆計魁被申付之由、御迷惑尤候、先日、既浅備(浅井備前守長政)へ一両度被仰遣候、・・・坊主衆与武辺衆、替々可然之由、懇ニ被仰遣候」(「誓願寺文書」)と書き送る。

本願寺自らを「一揆衆・坊主衆」とし、戦国大名軍を「武辺衆」として峻別する意識を形成している。
江北十ヶ寺は、浅井滅亡後の天正年中に至っても尚、石山本願寺とは独自に主体的な連判をなし、「信長一味之衆」とは、たとえ「彼衆死去之時」といえども、かたく絶交をとぐべきことを誓約しあう(「誓願寺文書」)。
「武辺衆」(戦国大名浅井軍)の壊滅によっても、織田軍に対する「坊主衆三ヶ年牢寵」といわれた、「一揆衆」の主体的な抵抗は瓦解せず。
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5月11日
・フランス、シャルル9世、コンスタンチノープルの大使に国中の港に軍艦を配備した旨、スルタンに連絡指示
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5月12日
・足利義昭、美濃安養寺へ見舞いを謝す。更に上杉謙信からの注進を通知。詳細は細川藤孝・和田惟政が伝達。
20日、武田信玄、美濃安養寺へ、美濃国辺の調略に関しての石山本願寺との謀議について通知。(「安養寺文書」)
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5月13日
・足利義昭、武田信玄に御内書。
信玄が忠節を誓ったことに喜びを表し、「天下静謐の馳走油断あるべからずの事専一に候」と述べる。
義昭を盟主とする、本願寺・浅井長政・朝倉義景・延暦寺・伊勢畠山氏・松永久秀らの畿内周辺の反信長勢力と信玄との連携戦略実現。
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5月19日
・信長、京都発、岐阜へ。
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5月19日
・大和興福寺はじめ奈良中の寺々のいくつかが、筒井順慶に金銀を上納(「多聞院日記」2)。
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5月28日
・毛利輝元、弥権大夫に防府の宮市魚物役の徴収権を安堵。
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5月末
・フランス、ラ・ヌーのユグノー軍とルイ、ヴァランシエンヌ(ベルギー国境近く)を奇襲、一戦も交えず占領。
フランス王シャルル9世、フリシンゲン占領をアルバ公に戦いを仕掛けるチャンスと考え、「対ネーデルラント攻勢」の考えに飛びつく。
母カトリーヌには知らせず全権をオラニエ公弟ルートヴィヒ(ルイ)・フォン・ナッサウに与える。
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6月
・神保覚広らが守る火宮城、一揆勢により落城。城将ら石動山に逃れる。後詰の上杉勢、五福山・神通川舟渡場で一揆勢に敗北。富山城、一揆の手に落ちる。

5月、加賀一向一揆4万、越中に侵攻。火宮城守備の上杉方神保覚広・小嶋職鎮・水越職勝・安藤職張らは新庄城将の鰺坂長実に援軍を求める。
6月、一揆勢、火宮城を包囲。鰺坂長実率いる上杉勢は五福山に布陣し火宮城後詰に向かう。火宮城は既に落城。上杉勢は一揆勢に攻められ、五福山・神通川舟渡場の戦いで大敗。
火宮城には神保長国が入り、一揆勢は勢いを駆って富山城を落とす。
その後、小嶋の牛耳る神保家は武田信玄の仲介で一向一揆と和睦し、反上杉の立場を取る。
越中はほぼ信玄・一揆方の手に落ちる。
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・ナヴァール王(アンリ・ド・ベアルン)、王妹マルグリットとの結婚のため南フランスよりパリに向う。
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6月1日
・奈良で巳刻終頃に2度の「大地震」。
多聞院英俊はこの月に発生した「地震」により「天下人民多死、五穀不熟」したという風聞に接す(「多聞院日記」2)。
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6月8日
・フランス、パリ、ナヴァール王(後、アンリ4世)母ジャンヌ・ダンプレ、毒殺。
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6月15日
・上杉謙信の武将鯵坂長実(あじさかながざね)・山本寺定長ら、加賀・越中一向一揆と戦い、敗れる。
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6月23日
・信長、京都紫野大徳寺へ賀茂境内買得分を安堵。詳細は松井友閑が伝達。(「大徳寺文書」)
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6月27日
・信長、近江沖島惣中へ、江北出撃に際し「早船」による敵地の放火、また、「早船」3艘に沖島惣中指導者自身が乗船して林与二左衛門尉と堅田衆に相談し作戦遂行するよう命令。詳細は中川重政に伝達させる。(「島村沖島共有文書」)
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6月27日
・秀吉、尾上から松原までの沿岸に放火(沖島文書)。
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6月30日
・顕如、浅井長政に鉄砲薬を送る(石山本願寺文書)。
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