2012年12月23日日曜日

長和5年(1016)2月 後一条天皇即位式 道長の本邸である土御門邸全焼

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林 2012-12-14
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長和5年(1016)
2月7日
・敦成親王が即位(後一条天皇)。

後一条天皇即位式における摂関と母后の登壇
道長は他の公卿たちとは異なる存在であることを明らかにし、権力集中を実行してゆきながら、天皇に極めて近い地位を築いて行く。
この摂関の王権への接近を象徴的に示すのが、「即位式における摂関と母后の登壇」である。
後一条天皇即位時の皇太后藤原彰子は、母后が幼帝の即位式において高御座(たかみくら)に登る史料的初例である(『小右記』長和5年2月7日条)。
その時摂政左大臣道長は、大極殿の「北庇東幔内(きたびさしのまんのうち)」に伺候(しこう)していたという。この「北庇東幔内」は本来皇后の座であり、この座の配置は母后との関係で成立したものと考えられる。

一方、関白の座が明確になるのは、後朱雀天皇即位時からで、時の関白頼通は「北庇東幔内」に座を占めたと推測される。
のちの院政期には、摂政は即位式において母后とともに大極殿の高御座に登り、関白は高御座の下に座を占めるようになる。

即位式では、他の公卿は朝庭から大極殿を見上げる位置に並んでいたことと比較すると、その立場の違いは歴然としている。
道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、母后である娘彰子と共に御簾の内にいる姿が頻出する。
つまり、道長は拝礼を受ける側に回ったことになる。
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2月13日
・三条天皇、太上天皇の尊号を得て上皇となる。
翌年5月9日、42歳で没。3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が辞退。
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3月16日
・源経頼『左経記』には、道長が摂政となったため、一上の仕事を他の公卿へ譲ることになり、その後任者を決める定(さだめ、会議)が皇太后宮で摂政道長同座のもとで行われた。
右大臣顕光と内大臣公季が老齢なので、大納言以上なら誰でも務めてよいと定めている(長和5年3月16日条)。皇太后宮で公卿たちの定が行われているのは天皇の御前定(ごぜんのさだめ)に准じたものである。
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6月10日
・摂政道長と室倫子に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准じる)の待遇、年官・年爵を与え、封戸を益(ま)し、道長に随身と帯刀資人(たちはきのとねり、刀を帯びた従者)与える勅書が下された。
『小右記』『左経記』によると、「母后令旨」によって命じられた。
『小右記』『左経記』によると、母后の前にいた左大将頼通が、摂政道長と北方倫子を三宮に准ぜよという「母后令旨」を蔵人頭資平を召して伝えた。資平は陣に出てその旨を上卿中納言源俊賢に命じた。
『小右記』によれば、三宮に准ずる勅書は大内記藤原義忠が作成して内々に草案を道長に見せ、その後、蔵人頭資平が奏上した。
奏聞の手順は、まず摂政道長へ見せ、次に奏聞したのだが、「只母后の御格子(みこうし)外に於いて案内(あない)を申すと云々」とある(奏聞と言っても、母后御所の御格子の外で申し上げただけであった)。
幼少の天皇へ奏聞したわけではなく、母后が天皇に代わって聞いている。
母后は摂政よりさらに天皇に近い立場で天皇の代理を務めている。

このような「母后」の立場は、天皇が行幸する時は天皇と同輿(どうよ、同じ輿に乗ること)し、即位の儀において天皇とともに高御座(たかみくら)に登るという行為に象徴されている。天皇と一心同体である。
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7月10日
・この日、摂政道長が皇太后彰子に啓上した後、後院司(三条上皇の院司)を定めた(『御堂関白記』)。
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7月20日
・この日、近江守藤原惟憲宅から出火し、火は土御門南、京極西、万里小路東、二条北に至る地域に及んで、あわせて「五百余家」(『御堂関白記』)が焼失した。

この日深夜、道長の本邸である土御門邸(上東門邸ともいいう)が全焼
公卿や、諸国の受領たちも、その報を聞いて次々と上京して道長を見舞った。
道長は直ちに土御門邸再建の手はずを定め、家司を総監督として、8月19日には普請を開始。
11月には寝殿をはじめ、対局など5、6の殿舎が立ち始める。

道長は、寝殿の造営には、新旧受領たちの中の腕の立つ者に、柱間一間ずつの造営を割り当てた。
実資はこれを前代未聞のこととして憤慨している。
世人一般の感覚としては、土御門邸は道長の私邸であるものの、前摂政太政大臣の本邸であり、何かの折には里内裏として用いらる邸であるし、随時三后や東宮の御所となるものなので、選ばれた受領たちは単なる私邸の造営とは思わなかった。
また、受領たちはこれを名誉とし、直接道長の覚えをめでたくする絶好の機会と考えて、ここぞとばかりサービスを惜しまなかった。
寛仁2年(1018)6月27日、盛大な新築移転の式が挙行される。
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8月
・尾張国の郡司・百姓が入京し、国守橘経国のことを愁訴する。道長はその訴状を受理し、会議にかけることを命じる。
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11月
・大嘗会が行われる。
・道長の娘寛子(明子腹)が女御代となり、『栄花物語』「たまのむらぎく」では、「これはなにはのことも改めさせたまへり」と、さらにいっそう華やかな御禊行列の様をくわしく記している。
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