2013年1月30日水曜日

1764年(明和元)10月~閏12月 上州・武州農民蜂起(伝馬騒動) 【モーツアルト8歳】

江戸城(皇居)梅林坂 2013-01-30
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1764年(明和元)
10月8日
・尾張藩第7代藩主の徳川宗春(69)、没。
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10月20日
・尼崎藩、浜田・西難波両村から争論中の浜田川へ大勢が出て騒動になり、浜田村は西難波村の百姓2人を捕える。
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10月22日
・富本節を完成させた初代富本豊前太夫(49)没。
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10月22日
・イギリス東インド会社軍、ベンガルとアウド太守及びムガル皇帝連合軍をブクサールで破る。
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10月25日
・イギリス国王戴冠4周年記念日。
モーツアルト、午後6時~10時、3度目のバッキンガム宮殿伺候(4月24日、5月19日)。
国王ジョージ3世、皇后ソフィ-・シャーロットなどの前で、ヴァーゲンザイル、クリスティアン・バッハ、アーべル、ヘンデルの諸作品を初見で演奏したり、皇后のアリアに伴奏をする。
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11月21日
・将軍、琉球中山王の派遣した慶賀使と会う。
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11月26日
・フランス、ルイ15世(54)、イエズス会を解散。
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11月30日
・宝鏡寺第23世臨済宗尼僧、中御門天皇第4皇女、逸巌理秀(40)、没。
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11月30日
・高橋至時、誕生。天文学者
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12月
・12月か翌年1月、産業革命を迎えつつある豊かな都会ロンドンで活躍するクリスチャン・バッハやアーベルたちの公開演奏会に刺激を受け、 病気のためピアノを弾くことを許されていなかったヴォルフガングはあらゆる楽器の作曲を試み、 最初の「交響曲(第1番)(K.16)変ホ長調」を作る。
翌年2月21日の演奏会で発表。ロンドンでは、この(第1番)を含め5つの交響曲を作る。

年末、モーツァルトは、名カストラート歌手ジョヴァンニ・マンツオーリ(1725~80?)から無料でレッスンをしてもらう。
この経験は最初のアリア『行け、怒りにかられて』(K21=19c)の表現にも活かされている。
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・ルソー、 『音楽辞典』序文を書く。
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12月7日
・フランス、クロード・ヴィクトール・ペラン(後、ナポレオンの元帥)、ヴォージュ県ラマルシュで誕生。公証人の息子。
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12月末
・~翌2年正月、上州・武州農民蜂起(伝馬騒動)。
信濃・上野・武蔵に及ぶ増助郷反対の強訴・打毀し。

中仙道の宿場沿いの農民20万人が蜂起。江戸期最大の一揆。
初め宿場の助郷範囲拡大反対の信州の農民が蜂起。
一揆は、中山道の宿に沿って東上、桶川宿にまで達する。
幕府は、助郷拡大の1万日の延期という前代未聞の譲歩を余儀なくされる。
騒動が武蔵国を中心に上野国、信濃国と広範囲に及んだこと、領主側の立場でもある村役人が多数参画したこと、最終的には一揆の原因となった要求を幕府側が取り下げたことから、幕府の威信が低下する一因となった。

江戸時代には幕府により中山道をはじめとする主要五街道が整備され、公用のための伝馬制が整えられていた。
街道添いには行政区画上の村に相当する宿場が成立し、宿場には人馬継立など公用を務める問屋が存在していたが、問屋で人馬継立を賄いきれない場合には助馬制による周辺村落への負担が課せられており、中山道では元禄7年に助郷制が導入された。

中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武地域の百姓には本年貢のほか水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在していたが、幕府は増助郷政策を行い宝暦・天明年間には取り割り当てが増加し百姓負担が増加していた。
幕府による増助郷は一方で助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招き、また助郷をめぐり定助郷村と非定助郷村間の対立も発生しており、騒動が発生した明和元年2月には大宮・上尾・桶川三宿の惣代や川田谷村名主高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願している。

また明和元年には朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道・中山道(板橋宿から和田宿までの28宿)沿いの諸宿に対して村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じた。

さらに12月に翌年の日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと各村役人に出頭を求めており、こうした増助郷策が続く中、助郷村では幕府の増助郷に反対する百姓の組織化が起こり、村役人の多くが負担に反発し出頭を断わると、村役人に賛同する農民が熊谷宿、鴻巣宿、桶川宿などに集結して蜂起、幕府側に抵抗した。

騒動は瞬く間に街道沿いに広がり10万人とも30万人とも伝えられる規模に拡大、江戸市中へ飛び火することを恐れた幕府側は、助郷の追加負担を取り下げ沈静化を図った。しかし治安は回復せず、年末から翌年の正月にかけて暴徒が街道沿いの富農を襲撃する打ちこわしを起こし、中山道の機能がマヒする事態となった。
幕府側は、多数の村役人を拘束し処分した。
特に関村(現在の埼玉県美里町)の名主・遠藤兵内を首謀者として獄門に処している。
その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られている。

辻善之助『田沼時代』(岩波文庫)の記述
「上州武州の農民蜂起
 先ず明和元(一七六四)年の十二月の末から二年の正月に亙り、上州から武蔵辺に掛けて農民の蜂起した大事件があった。これは明和二年の四月に、日光東照宮の法会を催すについて親王方だの公卿衆の日光への参向の為に道中の人馬不足するによって、近国から助郷といって人馬の継処(つぎしょ)継処へ人馬を差出してその用を勤めるのが定りになっている。それが平生は大抵入目が百石に付四十五匁位な課役になっておったところ、今度は三月から八月までに百石について人足が六人、馬が三匹、それが一般に掛かることになった。もし馬払底の村は一匹について五両ずつ出さしめるということであった。しかるに、近年は諸郡百姓甚だ困窮して年々の上納にも難渋しているところへ既に当年春も朝鮮人が来朝したるによって、その時に臨時に高百石について三両一分二朱の割に仰付けられ、それも是非なく済ましたところであったに拘らず、今度またそういう事があろうというので、有姓どもは大に苦んだのである。そこで勘定奉行小野日向守からこの事を命令して評定所の留役(とめやく)倉橋与四郎、成瀬彦太郎という者がその場所場所の検分に出掛けて行って人馬徴発をしたのである。しかるに農民はこの重い課役に大に苦しみついに上州、下野、秩父、熊谷辺の百姓が騒動に及んだ。そうして与四郎らの処へ大勢押掛けて行った。与四郎らは先ず忍(おし)の城へ逃げ込んで行った。ここにおいて百姓らは、直ちに江戸表へ出て、その事を訴えるというので、七、八万人の者が、群を成して各、鎌一挺に藁一束竹一本ずつ持って出掛けていった。その藁を持ったのは何のためかといえば、川を越える時にもし江戸の方からの命令で以て、船を止められるとか橋を止められるということがあった時には、川の中へ藁を投げ込んで、そうして川を浅瀬にして渡す、竹は筏に組んで渡るつもりであった。そこでその農民の大群は、先ず途中において、深谷宿に押寄せて、本陣の武井新右衛門という者が、その課役の議に与かったというので、その居宅を打破った。それを忍の城から押えに出て来て、衝突が起り手負がおよそ百余人、即死五人出来た。その事が段々江戸へ注進があったので、御目付の曲淵正次郎、松平庄九郎、御先手(おさきて)古郡孫大夫、遠山源次兵衛、奥山甲斐守、井出介次郎らに命じて、その組の同心を率いて鎮撫のために遣わされた。もし有姓どもが江戸近く来たならば、空砲を打ってこれを防ぐようにという事にして、見付見付の門へは、御徒目付などを配して控えしめておいた。ところがいよいよ騒動が大きくなって、静まり兼ねるので、遂にその頃の名郡代として誉のあった伊奈半左衛門忠宥(ただおき)に命じてこれを鎮撫せしめた。忠宥は直ちに出向いて、百姓どもに向って、願の通り聞届けるからいずれも引取るべしという事を申渡した。百姓ともはありがたく存じて、皆々村々へ罷り返ることになって、事が納まったのであった。しかるに、百姓らはこの度の伝馬の事は、街道筋の問屋役人どもが己れら街道筋宿々の負担を軽減せんために遠く五里七里十里も隔てた村々までも歩役をかけるように願出たがためであるというので、酷く問屋を憎んでおった。そこでこの序でに押寄せて、意趣返しをしてやろうということになり、数万の大勢が、閏十二月の晦日に一隊は熊谷に押よせて問屋に乱入し、柱をきり壁を落して家を押しつぷし、諸道具を取出しうちくだきそれより金谷村上野村を襲うた。また一隊は登町(川越より三里)の名主半歳の家に押よせてこれを打潰した。翌一月の元日は静かに年始を勤め、二日には根岸村(川越より三里)の松庵という医者の居宅を潰し、入間川の宿に入り、綿貫半兵衛という酒屋の表長屋から居宅土蔵残らず打潰し、その上、質物など取出して井戸の中に埋め、俵物等残らず打毀(やぶ)りそれから酒倉に入って蔵(しま)って置いた酒の道具を残らず摧(くだ)いた。酒は皆外へ出して、あたかも大河の如く流れ、怪我人なども少々あった。その宵には押垂村(川越の北三里)の酒屋へ押込んで造り置いた酒六尺桶四本を飲み、その勢はさらに進んで金岩村勘助の家を潰した。それから同村の名主次郎三郎の宅へも同断の事に及び、さらに一里程西の方に進んで高倉村勘左衛門の宅をも同じく打毀り藤谷村熊坂伝蔵の宅へも押寄せた。伝歳は罷り出てこれを抑えようとしたけれども、散々に打擲(ちょうちゃく)に遭うて、生捕になり、その上居宅を打毀られた。また他の一群は川越より一里程西の鯨井村名主織右衛門の処へ押寄せ、残らず打潰し、それより天渋村の名主甚之丞方に押寄せて、同上の儀に及んだ。また一里程北の組屋村の鳥見彦四郎方へ押寄せ、それより平塚村の名主弥惣次方に押寄せ、川越より十町ばかり北の小田島村の名主六左衛門方へ暁方に押寄せた。この群が今度は川越の江戸町の問屋九左衛門方へ押寄せようという風聞があったので、川越の城中から士卒を率いてこれを固めて、翌三日の早天に石田村に打って出でてトウトウ内百人ばかり生捕った。ところがこれらは大抵川越領内の名主であったので委細訊問の上これを返した。これによって翌四日の夜までは、川越の町はやや、静謐に過した。しかるに川越の二里程北東狐塚村では、甚左衛門という者の宅へおよそ二万人ばかり押寄せた。甚左衛門方においても予てこの事あるべしと、近村から加勢を頼んで、二千人を以て家を守って、皆竹槍を以て控えておった。寄手は先ず名主の宅へ押寄せ散々に打潰して、それより甚左衛門方へ押寄せたところ、甚左衛門は予て準備をして、長屋の屋根へ灰だの石だの木だのを揚げて置いて、徒党の押寄せるのを待っておった。寄手は数カ所の土蔵を打毀って、長屋に掛かったところが、予て用意の灰、石・木を打落したので、寄手は大きに苦み、遂に破れて引退き、およそ、三十人の即死者を残して引あげた。それからなお、城下へ押寄せるという評判があったので、城内においても警戒を怠ることなく、御用の外一切出入口を止めて、固く戒めておった。それで翌六日は少々静まったようであったけれども、三、四里四方の間は太鼓・法螺貝で時々鯨波を揚げ、その騒がしい態は、殆ど名状すべからざるものがあった。その内に追々に百姓どもも散って、騒が静まったのである。実にこの事件は島原以来の大騒動だという当時の評判であった。」(辻善之助『田沼時代』)
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閏12月
・人参座を設け専売とする。朝鮮人参の種子を植え栽培。

「明和元〔一七六四〕年閏十二月から、人参座即ち人参専売局を置いて、幕府の発売を司る事にした。これは八代将軍の時に、貧民が人参を求難い事を憐まれて朝鮮から種子を取って、下野国に植え試みた事がある。近頃になって、その結果が好くて、出来栄が朝鮮の産にも劣らなかった。すなわち陸奥国にも植えしめたところ、近頃追々それが蕃殖したので、今度神田の紺屋町に、人参発売の座を作って、望み乞う者に定価を以て売るという事にして、関東八州はさらなり他の国までも広く流通せしむる。シナ広東人参という物は、古くから日本にはいっているけれどもこれは余り良くないからして、今後これの発売を禁ずるという事にした。この禁令を出す前に長崎において広東人参三万両を焼棄てたという。」」(辻善之助『田沼時代』)
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閏12月31日
・熊谷の打壊し。金谷村上野村襲撃。
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