2013年1月28日月曜日

昭和18年(1943)1月19日 「侵魯の獨逸軍甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつゝありと。願くばこの流言眞實ならんことを。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

江戸城(皇居)東御苑 2013-01-24
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昭和18年(1943)
1月5日
・正月五日。牛後より曇る。昏暮金兵衛に至る。相磯凌霜子文行堂にて馬蘭亭狂歌會寄書一巻また南畝尺牘集一巻を得たりとて示さる。歌舞伎座表方齊藤氏より食麵麭を貰ふ。
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1月6日
正月六日。晴。祁寒昨日の如し。窓の日影稍長くなりぬ。
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1月7日
正月七日。晴。午後小堀氏夫婦ヰオロニスト林氏相携へて來り話す。小堀氏より粟餅乾柿(アワモチコロガキ)。林氏より巴里土産灰皿を貰ふ。暮方突然胃に奇異なる痛を覚え気分頓にあしくなりしが須臾にして歇む。之がため食事に出でず床敷きのぺて臥す。枕上フローベルが青年時代未刊の作品を讃む。Oevres de Jeunesse (Louis Conard Paris 1910)
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1月8日
正月八日。晴。午後土州橋の病院に至り診察を請ふ。昨夜の胃痛は胃酸過多のためなれば甚しく憂ふに及ばざる由なり。河風もさほどに寒からねば箱崎川の岸に沿ひ歩みて新大橋に出づ。乗合の汽船にて永代橋に至らむとするに桟橋も札賣場も取払はれて跡なし。岸の上に立ちて川下川上を見渡すに曳船の石炭船をひき行くのみにしてかの一銭蒸汽の形は見えず。こゝに於て此れも時勢のために廃滅せし事を始めて知り得たり。一銭蒸汽は明治時代のなつかしき形見なりしにさてもさても惜しむべき事なり。新大橋をわたり森下町の四辻より電車に乗り芝ロの金兵衛に至るに日は全く暮れたり。一人の来客より去六日平岡権八郎氏病歿せし事をきく。平岡氏は新橋花月楼の主人にて初画家棲鳳につきて日本畫を学び後洋畫に転じ岡田三郎助門下の秀才なりき。大正四五年頃余は平岡氏と共にその家に清元お若 延壽太夫妻 清元榮壽太夫等を招ぎ清元をならひしこともありしなり。
〔欄外朱書〕画家平岡権八郎歿
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1月9日
正月九日。晴。上海の知人より羊羹をもらふ。
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1月10日
正月十日 日曜日 晴。飛行機の音とだゆる時今年は窓外頻に鵯の群れ來りて鳴くをきく。三十年前大久保に在りし時梅もどき南天燭などの赤き實を食はむとて鵯(ひよどり)の多く庭に來りしことなど、何くれとなく思出され感慨淺からず。夜食事せむとて芝ロの金兵衛に行く。金毘羅の縁日にて虎之門より田村町四辻あたり群集雑沓す。
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1月11日
・正月十一日。去年より日照り続の後初めて雨ふる。驟雨の如き降りざまなり。暮方雲次第に散り失せ夕陽あざやかなり。夕飯の後淺草を歩す。
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1月12日
正月十二日。晴。晝の中より水凍らむばかりの寒さなり。終日蓐中に在り、たまたま絶句類選をよむに、糖霜楊萬里の作に亦非崖茶亦非餳。青女吹霜凍作氷。透骨清寒輕著齒。嚼成人跡板橋聲とあり。氷砂糖のたぐひにや。甘きものは宋の時代既にありしと見ゆ。
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1月13日
正月十三日。晴。去年の暮町會より賣付けられし國債を現金に代へむとて午後兜町山二商店に至る。店長は三十年前よりの知人なり。それより土州橋を過り淺革に至る。オペラ館楽屋を訪ふにもと常磐座に居たりし踊子四五名本年正月よりこの楽屋に來れりとて皆喜びて余を迎ふ。此別天地には曾て戦争の気分なし。昏暮芝口に至らむとて楽屋を出るにいづこの煙草屋にも人々その店先に長蛇の列をなしたり。去年の暮より煙草の品切今に至って依然たればなり。値上げがしたくば早く値上げをなすがよし。徒に品切をつヾけて人民を苦しましむるは盖政策の得たるものには非らざるべし。歸途寒月明なり。
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1月14日
正月十四日。晴。
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1月15日
正月十五日。晴。毎夜月明にして街燈なき門巷も歩行するに便なり。
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1月16日
正月十六日。晴。
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1月17日
・正月十七日 日曜日。晴。淺草仲店にて蕪千枚漬を買ふ。木戸氏より牛酪を貰ふ。煙草またまた値上げとなる。
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1月18日
正月十八日。晴。
〔欄外朱書〕廿五銭の巻烟草四十五銭となる。
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1月19日
正月十九日。晴。午後淺草に行く。坊間流言あり。侵魯の獨逸軍甚振はず。また北阿遠征の米軍地中海より伊国をおびやかしつゝありと。願くばこの流言眞實ならんことを。
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老境にさしかかった荷風の侘しい正月であったが、この期間、日記の日付けの前にナゾの「・」が三回。
まあ、同情は不要ですナ。

1月19日の街の噂。
ロシアに侵攻したドイツ軍の不振、北アフリカに上陸したアメリカ軍がイタリアを脅かしているとの噂である。
荷風は、どうかこの噂がホントであって欲しいと願っている。
(そしてそれは事実ホントであった)



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