2013年1月6日日曜日

ベアテ・シロタ・ゴードンさん

憲法制定に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月に亡くなられた。
たくさんのニュース、報道、感想などが溢れていたが、資料としてその一端だけを簡単に整理しておく。
▼「朝日新聞」1月3日


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東京新聞
筆洗    
2013年1月3日
 父親が反対したら、好きな人とも結婚できない。自分から夫に離婚を申し出ることもできない。貧しい農家では、家族のために少女が身を売っている…。世界的なピアニストを父に持ち、五歳から十五歳まで戦前の日本で暮らしていた米国人の女性は、家制度に縛られた日本女性の苦しい立場をよく理解していた▼連合国軍総司令部(GHQ)民政局に設置された憲法草案制定会議の一員として、日本の新憲法の起草にかかわり、草案の翻訳にも通訳として加わったベアテ・シロタ・ゴードンさんである▼当時二十二歳。唯一の女性スタッフだったゴードンさんが任されたのは、男女平等や社会福祉に関する条項の起草だった。男女の平等は「日本の文化に合わない」と主張する日本側と激論の末、個人の尊厳と両性の平等を定めた二四条として結実したことはよく知られている▼晩年にしばしば来日し、憲法制定にかかわった自らの役割を明らかにしてきたゴードンさんが昨年暮れ、ニューヨークの自宅で亡くなった。八十九歳だった▼二〇〇〇年五月に参院憲法調査会に招かれ、意見陳述した際、長く沈黙を守った理由を「憲法を改正したい人たちが私の若さを盾にとって改正を進めることを恐れていた」と語っていた▼だれが起草しようとも、二四条はすでに普遍的な理念として、私たちの中でしっかりと息づいている。


四国新聞
1月5日付・ゴードンさんの思い
2013/01/05 09:26
 「20年・30%」。これ何?。女性問題に詳しい人なら即答できるだろうが、小生は答えに窮し、ネット辞書に応援を求めてしまった。

 2020年までに指導的地位に女性が占める割合を30%にする。先の衆院選で自民党の政権公約にあったと記憶されている方もいようが、実は日本政府が国際的に宣言した約束。05年に閣議決定した第2次男女共同参画計画にその「20年・30%」を明記している。

 この思想、すべての原点は憲法24条にうたわれた男女平等に関する条項にある。1946年、それを起草したのが米国人女性のベアテ・シロタ・ゴードンさん。89歳。年明け早々、その訃報記事に接し、日本女性の地位向上にかけた彼女の思いに目頭が熱くなった。

 「女性だけが台所の隅で食事をする」。5歳から10年間、東京で過ごした中で、自宅の家政婦から見聞きした現実。「それが条項への根底にある思い」と、50年来の知人は言う。

 彼女が条文を起草したのは22歳の時。「そんな若さで」といぶかる人もいるだろうが、その前年、生活のために就職した米タイム誌でひどい待遇の男女差別をうけたことも、条文に生かされたという。

 67年を経た今、日本の平等の進み具合はどうか。例えば国会議員。先の衆院選で女性議員の数は38人。割合は7・9%。国際比較でみると世界187カ国中127位。れっきとした後進国だ。

 政治も経済も文化も「女性が活力を生む」時代。あらためてゴードンさんの思いをかみしめてみたい。(B)


47ニュース
【 B・ゴードンさん死去 憲法の男女平等起草】「女性が幸せにならなければ、日本は平和にならない」。日本政府「男女平等は日本にはなじまない」と抵抗
 「女性が幸せにならなければ、日本は平和にならない」。多感な少女時代を過ごした「故郷」日本をこよなく愛した。運命の糸にたぐり寄せられるかのように、22歳の若さで戦後日本の新憲法起草に関わり「全身全霊を傾けて」男女平等に関する条項を書き上げた。
 ロシア系ユダヤ人の両親の下、1923年10月ウィーンで生まれた。世界的ピアニストの父レオ・シロタ氏が東京音楽学校(現東京芸大)の教授に招かれたのを機に、5歳だった29年に一家で来日。15歳までの約10年間を東京で過ごした。
 子どもが生まれないというだけで離婚されることも珍しくなかった時代。自宅で働いていた家政婦の日本人女性から、女性が低く置かれた現状を「子守歌のように」聞かされ、原体験として脳裏に深く刻まれた。
 39年、米カリフォルニア州のミルズ大に進学し、文学を専攻。米国籍を取得した。41年末、旧日本軍によるハワイの真珠湾攻撃で日米が戦火を交え、「故郷」日本は米国の「敵」に。
 日本に残った両親からの連絡や送金が途絶えたが、得意の語学力を生かし、日本の短波放送を英訳する仕事で生計を立て最優秀で大学を卒業。その後、米誌タイムのリサーチャーを務めた。
 45年の終戦。音信不通の両親に会いたい一心で連合国軍総司令部(GHQ)の職に応募し、採用された。同年12月24日に再来日、長野県・軽井沢に疎開していた両親と再会を果たした。
 46年2月4日、皇居前の建物に置かれていたGHQ本部。マッカーサー最高司令官の右腕だったホイットニー民政局長が緊急招集した会議で、約25人の憲法起草委員の人権担当に選ばれた。
 「すごいことになった」。焼け野原になった東京の図書館を軍用車両で回り、国民主権や生存権を規定したドイツのワイマール憲法など各国憲法をかき集めた。
 「日本女性に最高の幸せを贈りたい」との願いを込め、非嫡出子や妊婦の権利保護といった先進的内容を盛り込んだ草案を作成。完成に至るまでの1週間余りを「生涯で最も密度の濃い時間」だったと振り返った。
 だが、法律家でもあった上司のケーディス大佐は「細部は民法に記載すべきだ」として多くの案文を却下。「条項が削られるたびに、不幸な日本女性がそれだけ増える」と悔し涙を流した。
 何とか残った24条(両性の平等)も、約30時間に及ぶ日本政府との案文折衝で「日本にはなじまない」と抵抗された。この時は同大佐が「日本をよく知るベアテさんも支持しています」と助け舟を出してくれた。
 平和の尊さも説き続けた。戦争放棄をうたった9条は、日本の経済発展の礎になったとして「『戦争が生んだ真珠』」と形容。「憲法を粗末にしないでくださいね」と訴えていた。(ニューヨーク共同=坂本泰幸)
(共同通信)

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観察映画の周辺(想田和弘)


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