2013年3月31日日曜日

寛仁3年(1019)7月~12月 高麗より刀伊の捕虜となった270人が帰国。 頼通、関白となる。

東京 千鳥ヶ淵 2013-02-29
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寛仁3年(1019)
7月13日
・対馬では、7日に高麗から戻った長峯諸近と女3人とを大宰府に送って詳細報告し、大宰府は同月13日付でこれを太政官に報じた。
これには同行の女、多治比阿古見(たじひあこみ)らの出した報告書も添えてあり、それにも刀伊の動静が記されていた。

それによれば、合戦で矢を受けた賊は次々に死亡し、やがて高麗沿岸に着くと、賊は毎日未明に上陸して掠奪し、男女を捕え、昼間は島々に隠れて捕虜を検査し、強壮者を残し、老衰者を打ち殺し、日本人の病者・弱者は海に投じた。
そして夜になると急いで船を漕いで去ってしまう。
こうして恐怖のうちに20日余を送った5月中旬頃、高麗の兵船数百隻が襲来。
高麗の兵船は高大強力で、賊船を破壊し、殺傷。
刀伊は耐え切れず、船中の捕虜を片端から殺したり、海に投げ込んだりした。
彼女たちも海に放りこまれたので、その後の合戦の様子は知らないけれども、やがて高麗船に救助され、介抱されて生き返った。
そして一行30余人は手厚くもてなされ、15日かかって金海(きんかい)府に着き、帰国を待っていたという。

大宰府の意見は、諸近は渡航の禁を犯したのであるから、事情がどうあれ、このまま許すことは後人の見せしめにもならないというわけで、別命あるまで禁錮された。
これに対して中央がどういう決定をしたかは不明。

女10人連れて帰国したことを述べた大宰府解(だざいふのげ)は、「但し、新羅は元敵国なり。国号の改め有ると雖も、猶野心の残れるを嫌ふ。縦ひ虜民を送るも悦びと為すべからず。若し勝戦の勢いを誇り、偽りて成好の便を通ぜむ」と、高麗に対して新羅以来の警戒心を示している。
このような高麗に対する認識が、日本の朝廷の外交に対する消極策へと繋がっていく。
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7月16日
・道長邸(土御門邸)のすぐ東に新堂造営に着手。
11間の堂に丈六金色の阿弥陀仏像九体を安置しようというものであり、有能な受領を選んで、1人に1間(柱間1個分)ずつの造営を分担させた。
これは先年、大火に焼失した土御門邸を再建したときに用いられた方式と同じである。
9月に仏像五体が完成し、11月末には全部の開眼が行なわれた。

壇を築き、池を掘り、垣をめぐらし、柱を立て、鐘を鋳るなどの作業は、公卿以下の朝臣に人夫の調達が割り当てられ、頼通以下、僧俗こぞって力役に従った。
『栄花物語』には道長は寝食を忘れて造営に熱中し、頼通も、他の事はともかく第一にこの造営に尽力せよと諸国に命じたことが見えている。
道長がそれ程の熱意を示す以上は、頼通の命令があろうとなかろうと、朝臣はこぞって権門にサービスに惜しまなかった。
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8月11日
・この日、白昼抜刀した男2人が内裏に入り、清涼殿のすぐ東北の、太皇太后彰子の御座所の付近で太皇太后宮大進源頼国横・佐渡守内蔵有孝(くらのありたか)に捕えられるという事件が起こった。
男2人は僧で、西の京での博打のもつれからこの僧が刀を抜いて相手を突いたところ、相手の弟が僧を追いかけ、2人とも抜刀のまま内裏の北側の朔平門から飛びこんで来たという。
朔平門から弘徽殿までは直距離約60m位あるが、その間には玄輝門もある。
白昼このような事件が起きるほど、内裏諸門の警備は貧弱であったようだ。
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9月
・9月に入り、高麗虜人送使鄭子良が、日本人270人を連れて対馬に来航し、高麗の牒(手紙)を示した。
この報が大宰府から16日かかって京都に到着し、この問題について陣定が開かれた。
実資は犬が死んで穢に触れたので欠席したが、右大臣公季以下の公卿は次ぎの3点を議決した。

①対馬に来た高麗の使いは、大宰府まで呼んで厚遇し、事情をよく聞くこと、
②先般の大宰府の解文には賊を刀伊国と書いてあるが、こんどの高麗の牒には女真国としてある。その異同を明らかにするよう、大宰府に命ずること、
③こんどのことは当然飛駅言上すべきところ、普通の飛脚で報告して来たから、日数が多くかかってしまった。これについて大宰府を詰問すべきこと。

陣定を欠席した権大納言源俊賢は、この決定に不満で、実資に再度手紙を送って、今更使いを大宰府に呼んで聞くことはない、これから冬を迎え、海路風波の危険も多いのだから、使いは早く対馬から返すべきだ、と主張した。
彼はまた、高麗政府が日本政府に宛てて牒を送らず、下部機関の安東護府の名をもって対馬に牒を送ったことを不当とし、さらに、その牒には女真がときどき高麗に貢物を献上すると書いてあるが、すると女真は高麗の治下に在ることになる。それならば今回の女真の行為ははなはだ不取締りである旨、高麗を責むべきだと説いた。

実資はこれらの言いぶんを、会議に列席していた大納言公任に取り次いだが、公任も困って、実は自分もそう主張したが、他の人が強く主張するので止むを得なかった、と弁解した。

俊賢が高麗使の早期返還を主張したのには、もう一つ事件が絡んでいた。
刀伊の騒動の後の5月29日、高麗人未斤達の船が筑前国志麻郡に漂着した。
かれは宋から本国に帰る途中、逆風に流されたのだと言ったが、大宰府はそれを疑い、禁錮尋問した。
その疑いは晴れたようであるが、どうもなにかの謀略があるかも知れないから、とにかく日本人を送ってきた厚意は厚意として、高麗使と漂着民を早く返してしまえ、わざわざ大宰府まで引っぱりこむ必要はない、という。
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12月22日
・藤原頼通、関白となる。
この後、頼通は、後朱雀天皇、後冷泉天皇と三代の天皇の治世にわたり50年間関白を務めた。
この間、治安元(1021)年に頼通は左大臣となり、万寿4年(1027)、父・大殿道長が没して以降、頼通は名実ともに朝廷の第一人者となる。
ただ、その後も独裁的というより、後一条朝においては、姉上東門院彰子や右大臣になった藤原実資に相談しながら政務運営を行っている。
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12月31日
・大晦日の夜、雨中を権大納言源俊賢から実資に手紙があり、対馬から高麗人が筑前に来る途中、30人を乗せた船が沈み、1隻がやっと着いたとのこと、思った通りで気の毒なことだと書いて寄こした。
彼が主張した通り荒海に船が沈むという事件が起こったので、それ見たことかと大晦日の夜にもかかわらず、雨中に使いを寄こした。
この後、高麗使は翌年2月になって、大宰府から安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。
隆家はこの使いの労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。
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