2013年4月25日木曜日

1768年(明和5年)1月~2月 経済的には失敗に終るモーツアルトのウィーン旅行 オペラへの最初の挑戦 【モーツアルト12歳】

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-04-25
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1768年(明和5年)
この年
・蝦夷、有珠岳が噴火する。
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・杉田玄白・前野良沢ら、オランダ人外科医の手術を見学する。
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・老中招待の令。
「明和五(一七六八)年に幕府から諸大名に老中を招待することの触を出した。幕府において御祝儀の事、また家督の祝などあった時に老中を招待するという事が従来あったのに、それが近頃大分長く罷めになっている向もある。これは大体五カ年位、余り年の立たない内に、老中の招待をした方が宜しいという事を触れたのである。これは世間に田沼意次の意見から出て、諸大名に向って老中饗応の強請をやったのだという事で、田沼を非難する人もある。けれどもこの時には未だ田沼は老中になっておらぬのであるから田沼に対してその非難をする事は当らぬのである。しかしながら、田沼が老中になってからは、随分招待という事があったらしい・・・」(辻善之助『田沼時代』)
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・この年~翌年、ロシア人たちが、無人島ウルップ島を手に入れようと試みた。
漁期のときにだけ一時的にアイヌ人がここで働き、終わるとエトロフ島に引き上げていたが、この漁期にロシア人が船を寄せた。この時は、港の内を見て帰る程度であったが、翌年に鉄砲を放ってアイヌ人らを殺傷し、これを追放した。
アイヌ人らは、その豊富な漁場を奪われ、しばしばこれを奪還することを試みたが、保護すべき松前藩が動かなかった。
安永2年(1773)、ロシアの船がウルップ島の帰途難破して、島の西浦にあたるアタツに閉じこめられたのを契機に、アイヌたちは、単独にロシア人たちと和解して、交易の関係に入った。
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・イギリス、アークライトが、ハーグリーヴズのスピニング・ジェニーを改良(ウォーターフレーム、水力で動く織機)。
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・ポルトガル、ポンバル侯、異端審問所を国家に従属する国王裁判所として再編。
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・ゲーテ(19)、2年前に知り合い恋愛関係にあったケートヒェンと訣別。
肺結核の闘病のためフランクフルトの生家に帰る。
クレッテンベルク嬢を知り宗教的感化を受ける。
喜劇『同罪者』執筆(この作品のなかで初めてファウストの名が出てくる。)。
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・ジョン・アダムズ、「教会法と封建法に関する考察」をロンドンで出版。印紙税が憲法・法令に違反し無効と主張。
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・フィリピン、イエズス会追放(~1859)。
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1月
・平賀源内、初の寒暖計である寒熱昇降器(タルモメートル)をつくる。
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1月7日
・ジョゼフ・ボナパルト(ボナパルト兄、ナポリ王ジョゼッペ1世、スペイン王ホセ1世)、コルシカ島コルチでコルシカ島独立運動の真っ只中に誕生。コルシカ島アジャクシオ出身下級貴族シャルル・ボナパルトと妻レティツィアの間の長男。軍人になるのを諦め、88年コルシカ島で弁護士となる。
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1月9日
・モーツアルト一家、ブリュン出発、ポイスドルフに宿泊。
10日、ウィーンに戻る。「赤剣館」宿泊。
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1月16日
・モーツアルト(12)、シンフォニーニ長調(第7番) (K45)作曲。モーツァルトのシンフォニーとして初めてトランペットとティンパニが登場。 メヌエット楽章を除いた部分をオペラ「ラ・フィンタ・センプリチェ」序曲に使用。
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1月19日
・モーツアルト、皇太后マリア・テレジア、皇帝ヨーゼフ2世に謁見。
「あなたにお知らせしなければならない一番新しいニュースは、私どもが十九日の午後二時半から四時半まで、皇太后陛下のもとに参上いたしたことです。皇帝陛下は、私たちが皇族の方がたがコーヒーをお飲みになられるまでお待ち申し上げていた控えの間までお出ましになられ、おんみずから私どもを招じ入れて下さいました。皇帝と皇太后のほかにザクセンのアルベルト王子様、それに皇女様が全部いらっしゃいました。こうした皇族の方がたのほかには、どなたもいらっしゃいませんでした。そこで何が話題となり、またなにが起こったかを万事お書きするのとあまり長くなりすぎることになるでしょう。ただ申し上げなければならないのは、皇太后陛下がどんなに親しげに家内とお話しになり、一つには子供たちの天然痘について、一つには私たちの大旅行のこまごまとした事柄について語り合われたかをご想像いただくことは不可能だということです。陛下が家内の頬をさすられたり、腕をおつかみになったりなさったこともご想像できますまい。一方、皇帝陛下は、私やヴォルフガンゲルルと、音楽のことやその他さまざまなことをお話し下さり、しばしばナンネルルの顔を赤らめさせておいででした」(1月23日付)。

しかし、同じ手紙で、
「当地で見ていることのすべてから、また目下のヴィーンの事情すべてから、なにひとつうまいことは想像できません」
と書く。

この頃、交響曲変ロ長調(K.Anh.214(45b))作曲

ヴィーンで知り合ったフランツ・アントン・メスマー博士から依頼されたジングシュピール「バスティアンとバスティエンヌ」 (K.50(46b))作曲。リート「ダフネよ、汝がばら色の頬」(K.52(46c))作曲
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1月22日
・大坂、富商らの出願した家質奥印差配所の設置に反対する町人たちが、出願人宅などを打ち毀す。
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1月30日
・レオポルトのこの日付け手紙。今回のウィーン旅行が経済的には失敗であったと認める。
経済的な面では失敗だったと認め、その点での回復の望みも殆どないが、「健康と知識の熟練」を最高の宝と考えれば、この面では順調だという。
主な理由として、
①ウィーン人が真面目なものよりも道化た滑稽なものの方に興味をもっていること。
②宮廷の経済状態の逼迫とそれが招来する貴族たちの節倹ムード。謝肉祭期間中のダンス熟。さらに噂では、ウィーン中のクラヴィーア奏者たちや作曲家たちがこの神童の存在を意識し、その成功を妨げようとしていること。
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1月末
・皇帝ヨーゼフ2世からオペラの作曲を勧められ、この勧めに従いオペラ・ブッファ「見てくれの馬鹿娘(ラ・フィンタ・センプリーチェ)」(K.51(46a))作曲始める。
台本はカルロ・ゴルドーニのものに、マルコ・コルテッリーニ(1769年メタスタージオの後任として「宮廷詩人」に任じられる)が加筆。
このオペラは興行士ジュゼッペ・アフリッジョ達の妨害によりウィーンでは上演されず、ザルツブルクのシュラッテンバッハ大司教の宮廷で初演。
モーツァルト最初のオペラ・ブッファ。

レオポルトの1月30日付け手紙。
「ヴォルフガンゲルルにオペラを一つ書かせようという最初の着想は、ほんとうのことを打ち明ければ、皇帝御自身が私に与えて下さったもので、その時この御方は、ヴォルフガンゲルルに二度も、オペラを一つ作曲し、自分で指揮してみるつもりはないかとお尋ねになりました。あの子ははっきりとやってみたいと申しました。ただ、オペラはアッフリジョに関係があるので、皇帝はもうそれ以上はおっしゃいませんでした」(1768年1月30日付)。

「アッフリジョ」とは:
この頃の劇場の興行権を委ねられていたジュゼッぺ・アッフリジョ(1719~87)で、宮廷劇場(ブルク劇場とケルントナートール劇場)の興行権も掌握。
「この男が毎年幾千フロリーンもの謝礼をみんなに支払わなければなりませんが、そうでなければ宮廷が彼らにこれを支払う必要があります。皇帝および皇室は鐚(びた)一文も払わず、無関係です。そのため、このアッアリジョに対して、宮廷は一言も口をはさむことができません」(1768年7月30日付)

オペラを書き、舞台にかけることは成功の道である。
なにもやってみなければなにも得られません。うまくいくか、それとも失敗するかです。そうしたことのためには、劇場以上にぴったりのものがあるでしょうか? ただオペラは、復活祭以降でなければなりませんが、これは当然のことです。当地にもう少し長く滞在する許可をもらうために、手紙を近く書きます。」
「ヴィーンの劇場のためにオペラを一つ書いたという評判は、ドイツばかりでなく、イタリアでも信用を得る最善の方法ではないでしょうか。」

かつてのグリムの予言。
1766年7月15日付の『文芸通信』で、グリムはヴォルフガングについて「私は、彼が十二歳になる以前に、もうイタリアのどこかの劇場でオペラを演じさせるのではないかと思っています」と書いていた。

この時、レオポルトには息子をイタリアに伴って行こうという計画が浮んだのではないだろうか。
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2月11日
・北米、マサチューセッツ議会、サミュエル・アダムス「回状」承認。各植民地への共闘呼びかけ。
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2月29日
・ウクライナ奥地バール、ポーランド旧教徒貴族、ロシアの干渉に対抗。
自由と信仰を守るためのシュラフタの武装連盟「バール同盟」結成。
ポーランド゙民族解放運動の先駆。
全国でシュラフタやコサックの蜂起。
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