2013年4月29日月曜日

治安2年(1022)4月 対馬守任命にみる武士と受領との関係 武士受領の歴史的位置 受領と郎等との関係

横浜市わが町 2013-04-27
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治安2年(1022)
4月
・この月、大宰府が敵国の侵攻に備えて対馬守に「武芸者」を任じたいと申請。
これに応えて、帯刀(たちはき、皇太子親衛隊員)・兵衛尉として長年在京勤務した経験を持ち、刀伊撃退に勲功をあげた府官藤原蔵規(まさのり、菊池氏の祖)が任命された。
高麗と国境を接する対馬守は、武士と受領との関係を最も先鋭な形で表している。

同様に、
蝦夷と接する陸奥国でも、鎮守府将軍には、延喜14年(914)に藤原利仁が任命されて以後、将門の父良持(よしもち)、将門の乱後は、秀郷・貞盛本人とその子孫たちが相次いで在任している。
奥羽の俘囚たちに睨みをきかせるために、有力武士が選ばれた。

また、
坂東諸国でも将門の乱平定後は、秀郷を下野・武蔵両国守に任命したことを先例に、武士が受領になることが増えてくる。
同時に坂東諸国では乱後、受領が押領使を兼帯する例が形成されていく。

政府はときどき坂東諸国の受領に武士を任命して、下野の秀郷子孫や武蔵・上総・下総・常陸に土着した良文(よしふみ)子孫や繁盛子孫らに睨みをきかせていた。
また満仲・頼光・頼信・頼国(頼光長子)と、10年間隔で源氏の武士を美濃守に起用しているのは、美濃が東国と京を結ぶ要衝不破関(関ケ原)を抱えていることから、東国に対する備えという意味があった。

従って、
有力武士の本拠地の分布傾向は、「天下の固め」という観点からみることができる。
①摂津国多田を本拠とする源満仲・頼光は西国方面に対する備え、
②伊勢に本拠を置く平維衝は東国方面または伊勢神郡への備え、
③越前に本拠を置く利仁流藤原氏は北陸方面への備え、
④下野の秀郷流藤原氏、武蔵・上総の良文流平氏、常陸の維幹流平氏は、奥羽の俘囚への備え、
⑤大宰府府官層を構成した大蔵春実(おおくらのはるざね)子孫や維幹流平氏は対外防衛と九州の備え、
としての役割が期待されていた。

しかし政府は常に武士を特定の諸国の受領に配置しようとしていたわけではない。
武士は、他の受領希望者と同じく実入りのいい国、縁の深い国を希望して受領に任命されるが、名だたる武士が任じられた国では国内田堵負名層の反受領的動きが低下した。
政府は武士を受領に起用することによって、反受領闘争抑止効果を期待していたものと思われる。

武士受領は、武威を背景に寺社勢力や国内田堵負名層を抑圧して国内支配を行い、膨大な私財を蓄積した。
政府は貢納物完済をある程度期待でき、摂関ら公卿たちも馬や財物の献納を喜んだ。

武士受領の起用は政府・公卿らにとって、財政的見地からみても一面では得策であった。
反面、武威を恐れて抗議行動を控えた寺社権門や国内百姓は、不満を鬱積させたまま任期満了まで我慢し、後任として穏和な文人受領が赴任してくることを期待する。
実際、同一国の受領に継続して武士を任じることは少ない。
4年で交替するからこそ、武士を受領に任命できた。

武士受領の任国での蓄財は、私君への献納のためだけではない。
武士は、武器の購入、駿馬の購入・飼育、郎等や下人の給養など、武芸を維持・更新・継承していくために膨大な財力を必要とする。
任国での蓄財はそのために投入され、本拠地での私営田経営にも投入された。

受領は国内支配の行政幹部として子弟郎等を引きつれて任国に赴任した。
藤原明衡(あきひら)が永承7年(1052)頃書いた『新猿楽記』は猿楽見物に来た西の京に住む右衛門尉一家の一人一人の職能を紹介する一種の職人尽であるが、その中に四郎君(しろうぎみ)という「受領郎等」が登場し、次のように紹介される。

彼は武芸に優れ、簿記書道が上手で、着任時の作法、交替時の事務処理、税務処理などを巧みにこなす能力がある。

「所」目代の仕事、検田使・収納使などの仕事もうまくやり民を疲弊させずに税をきちんととり、政府に損をさせず自分の利益もしっかりあげる。
万民の支持を受け、宅はいつも豊かで諸国の土産を集めて莫大な蓄財をなしている。
除目のときには新任受領から最初にご指名がある。

現実にはありえない理想的な受領郎等像であるが、受領郎等には、国衙行政の実務能力だけでなく、武芸も求められた。
もちろん実際には同一人物が文武両方に堪能ということは難しく、事務能力か武芸かどちらかの技能が必要だった。

新任受領のための手引である「国務条々(こくむじようじよう)」には、郎等の中から「清廉の勇士」を選んで、赴任途中の郎等たちの喧嘩を取り締まらせるよう注意し、また良史は本来武士など使うべきではないが、物騒な時世だから必ず「堪能武者」の郎等2、3人を採用するように注意している。
国内武士から採用するのもよいとしている。
任官待ちの実務官人層や在京武士たちは正規の官職につけなくても、受領郎等になって任国に随行すれば結構稼げた。

伊勢平氏の基礎を築いた正盛は、受領の順番待ちの期間、播磨国司や加賀国司の郎等になっていた。
在京武士たちは自ら受領郎等になることもあったが、自らの郎等を受領に郎等として斡旋したり、逆に受領から斡旋を求められることもあった。
武士の郎等たちも受領郎等になれば荒稼ぎできる。

受領郎等になった武士たちが、検田使・収納使として国内諸郡に派遣されたとき、武士特有の荒っぽいやり方で業務を執行し、田堵負名たちから恐れられたであろう。

永延2年(988)に受領藤原元命(もとなが)を訴えた尾張国郡司百姓らは、元命子弟や武士郎等らの業務遂行を、「夷狄」(蝦夷や俘囚)や「豺狼(さいろう)」(山犬や狼)のように残酷で貪欲であり、民の財物を奪っては京宅に運んでいる、と糾弾している。
武士は、貴族たちから殺人を業とする罪深く恐ろしい存在として蔑視されていたが、民衆たちの武士観も同じだった。

9世紀の諸国受領は、俘囚を国内支配の武力として利用していた。
俘囚という忠実な武力を失った10世紀の受領の新たな武力が、郎等として雇用した武士であった。

受領と受領郎等との主従関係は、任期4年を期限とする利権に群がる雇用関係、文字通りの傭兵であり、貴族と家人の主従関係以上にドライな関係であった。
清少納言は「すさまじきもの」として、「除目に司(つかさ)得ぬ人の家」では以前に仕えていた者たちが、今年こそはと大勢集まって受領拝命の前祝いの酒盛りで気勢を上げ、拝命がないと分かるや一人抜け二人抜け、こそこそ退散していく様子を面白く措いている(『枕草子』)。

しかし、武士受領の場合は武士の郎等を雇う必要はなく、自分の郎等を連れて行けばよい。
武士受領の武名を慕って郎等になることを願う国内武士もいた。
ただしその主従関係は、在任期間に限定されることが多かったと思われる。
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