2013年5月7日火曜日

牧野和春『桜伝奇』を読む(6) 第4章 山高神代桜(やまたかじんだいざくら、山梨県北巨摩郡)

牧野和春『桜伝奇--日本人の心と桜の老巨木めぐり』を読む(6)
第4章 山高神代桜(やまたかじんだいざくら、山梨県北巨摩郡)
1 樹齢二千年!

巨樹、巨木を尋ね歩く意味
 私はこの列島各地に巨樹、巨木を尋ね歩いている。
ふり返ってみると、その数はもう二五〇本ほどになる。今も続けている。
・・・そのことによって、日本人の自然への感性、生き方、考え方などを具体的に教えられたし、その奥行のきわめて深いことも知らされてきた。
そのうえ巨樹、巨木と語り合うことによって得られる心の充足感を思うと、巨樹、巨木巡りの恩恵は無限である。

 人はよく私に質問する。
「いったい、何がもとでそんなことを始められたのですか。動機は何ですか」と。

 ところが、この質問への回答が、なかなか一言にして明確には言えぬのである。
・・・この問題は、私にとっては戦後日本をどう考え、どう位置づけるか、に帰着する。
それを論ずることは、「太平洋戦争」とは、日本にとっていったい何であったのか、という命題となり、すると、”東京裁判史観問題”に行きつく。
日本人論を超えて、日本論そのものに行きついてしまう。
となると、これほど厄介なことはないわけだ。
現在の私はこの問題について決着をつけられるほど上等の精神構造にはない。
話は余計もつれてくる。

私(著者)の後半生に、一つの転機を与えてくれた「山高神代桜」
 場所は山梨県北巨摩郡武川(むかわ)村山高(やまたか)という集落である。・・・

2 老樹に会う

 「山高神代桜」の前に立ってみて、改めて、「これが二千年もこの世に生きてきた木の実相なのか」と感じ入った。

言うに言われぬ威厳:推定樹齢に千年
 第一、この一帯にはいうに言われぬ威厳がたち込めている。神代桜が放つ神韻なのであろう。
まず、この巨大な桜の根元はどうであろう。
 なるほど、幹の上部はすでに朽ち果ててしまってはいるが、根元だけはまるでとてつもない「瘤(こぶ)」のような存在となって、大地にもぐり込んでいるのだ。調査結果によると、根元の周囲なんと約十三メートル。だとすると、畳の部屋、一室にも相当する面積だ。こんな巨大な「瘤」がもちろん一朝一夕に出来るものではない。百年、二百年、否一千年、更に、それも否だ。実に二千年の年月をかけてこそ、一本の桜の幼木はついに八畳の間にも相当する巨大なる根株にまで生長したのだ。そのことが話でもなければ記録でもなく、手をのぼせは触れることのできる実存在として、目の前に、巨大な黒い塊となっていまある。

 私がひしひしと実感しているのは、そのような存在の実感と、物としての存在の迫力である。
正直いって、私はこの巨大なる”二千年”の「瘤」に圧倒されそうだし、その力(エネルギー)を感じている。
その「力」が私の肉体に、まるでどしゃぶりの雨でもふりかかる如く、ピリビリと伝わってくる。
太古、われらが父祖たちが一本の巨木、一体の巨石に感じ取ったと同質の原始の感性を、現代に生きる私もこの巨大なる木の根元より、感じ取っている。
それを学者がアニミズムと一口に総称するのならそれで私はかまわないわけだ。
そんなことは感性の当事者である私にとっては、どうでもよいことだとまではいわぬが、まあ、瑣末なことであることは確かなのである。
私からいわしむれば、人間よ。まず、この偉大なる木の「瘤」に驚け! 次に、この「瘤」に向ってひれ伏し、畏れ、かしこめ、といいたいのである。

 調査結果によると、これだけのスケールを有する根元は桜の木ではほかに見当らない。
従って、その観点より日本最大の桜の木とされているわけで、推定樹齢なんと二千年。
大正十一年(一九二二)、国の天然記念物に指定された。

 次は幹である。
こちらの方は幹(目通り)の周囲約十・七メートル。これは「根尾谷淡墨桜」と並ぶ巨大なものだ。
しかし、主幹の高さは地上わずかに二・四メートルでしかない。当然のことながら、かつては威風堂々と、主幹も大空にのびていたと思われる。しかし、二千年というとてつもない歳月のうちに、主幹上部は完全に失われている。それも、ついに地上わずか二・四メートル、大人の背丈プラスアルファーの高さでしかない。
全ては朽ち果ててしまっているのだ。

 枝の方はどうであろうか。
昔は南と東へ、ほぼ水平に太枝をのばしていたといわれるが、雪や風のために南の枝は失われ、今は東方へのびた太枝の一部が残るだけである。そのほかは太枝や幹から発生した細い枝がヒゲのようにのびているだけである。

3 ”咲く”は老いの証

山高という土地の状況と神代桜
 種類はエドヒガン。
・・・
 ここは地名を山高という。正確には実相寺という日蓮宗の寺の境内の南端に当たる。寺の起源と比べると、むろん桜の方こそ先にこの世に咲いていたわけであるから、お寺の方が桜の木にひかれる形でこの地に移り来たものであろう。
となると、気になるのは山高という土地の状況と神代桜との関係である。
山高は名のとおり台地である。したがってこの辺からの展望はすぐれている。付近は赤松も多いし、桑畑もある。人が生活するのには、河川の氾濫の危険にさらされる台地の下よりは、この台地上の方が安全といえるだろう。

農呪としての桜:稲作の予兆としての桜
 大昔のことを想像してみる。
 この桜はやはり周辺の農民たちにとって、農呪としての桜ではなかったか。

 「サクラ」の語源が「サ・クラ」にあり、とする見解は民俗学的に一応定着しているといえようか。
「サ」は「早乙女」「五月雨」「五月」などの「サ」であり、「稲の霊」を表わす。「クラ」は神の座を意味する「坐」(くら)である。神が降臨し、坐る石は「石磐(いわくら)」である。
すなわち、「桜」とはそこに「稲霊(いなだま)」の宿り給う神聖なる「花」と解釈される。

 その花は早春から五月の田植えの頃にかけて山野に群がって咲きこぼれる、農民たちにとってひときわ目を引く花々であったにちがいないといわれる。
具体的には、なんといってもヤマザクラ、そして白い花が群がるコブシなどである。農民たちはそういう花々の一面に咲き誇る姿をみて、そこに「稲」の「白い花」をイメージした。
花がたくさん咲けば、それは初秋、稲の花が咲くことへの前兆なのであり、その結果として”豊年万作”を確信させる心理的な励ましと喜びとにつながったはずでもあった。
折口民俗学は桜の花をそう解釈する。
それだけに山野に咲く桜の花は神霊のあらわれとして神聖な存在であり、神の所有物と考えられた、とみる。
そして、山野に咲く代表的な花として、現在の「桜」を特定して「サクラ」と呼ぶように、次第に定着したものであろう、というのが民俗学的に解釈した、稲作の予兆としての桜観である。

 農民たちのそのような深層心理を想像してみるとき、山高という台地上に咲く一本の桜の花は、周辺の農民たちにとって、もっとも注目される桜としてひときわ神聖視されたのではなかったか。

”自然暦”の機能
 農呪のほか、いま一つは会津盆地などに数多くみられる「種まき桜」と称される桜の如く、「神代桜」は、あの桜の花が咲いたらモミをまき、苗代の準備に取りかかる、といった”自然暦”としての機能ももっていたかも知れない。
つまり、土地の農民たちにとって神代桜は、とくに大事な桜の木であり、神意を解読するに欠かせない桜の木でもあったはずである。

「神代」の意味:農耕、伝承、民衆の心理的古層
 と、考え及ぶと、この桜に「神代」の二つの文字が冠せられている意味も深いと解釈しなければなるまい。
その起源はこの地方における稲作農耕の開始とともに、遠く神代にも行きつく古い話となるわけである。

 そういう心理的古層を、伝承という手法で合理的に説明したのが、この桜にまつわる話であろう、と私は考える。
つまり、この桜は遠い昔、ヤマトタケルノミコト、ご東征の際、ミコトがこの道をお通りになられ、この地に滞在、お手植えされたのが根つき、生長した木だというのである。
ヤマトタケルノミコトといっても、実在の人物かどうか、あるいはその時代が生んだたくさんの英雄群像を語るに際し、その象徴的存在として、ヤマトタケルノミコトという一人の人物に”仮託”され、”映像化”されたる存在なのか、たしかな決め手はない。
しかし、ヤマトタケルノミコトがお通りになったといえば、それは遠い神代の話であることにちがいないので、それほど古くからある桜の木となれば、それはもう「神代桜(じんだいざくら)」と呼ぶほかはなくなってしまうのである。
そうあることによって、民衆のこの桜の木に寄せる心のうちは、落ち着くべきところに落ち着き、二度とゆらぐことはないのだ。

 興味深いことに「神代桜」と名のついた桜の木はもう一本ある。
これは長野市泉平にある「素桜(そざくら)神社の神代桜」(素桜神社境内にあり)で、これもエドヒガンの巨樹。昭和十年(一九三五)、国の天然記念物に指定された。
スサノオノミコトのお手植え伝説がある。つまり、神代という話になる。

 ヤマトタケルノミコトについては『古事記』『日本書紀』ともに記述がある。景行天皇の御代、十八年、わずか十六歳にして西は熊襲(くまそ)、やすむ間もなくエゾ叛乱のため東国に向かい、わずか三〇歳にして伊勢、能煩野(のぼの)にて悲劇的な波乱の生涯を閉じたことになっている。

「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし」
ミコトが死に臨んで、こううたいあげた”国しぬび歌”はあまりに有名である。ミコトの魂は白鳥となって大和の空の彼方へ飛んで行ったという。

甲州の「ヤマトタケル」:開拓農民自身の人物像
 これも、あえて文学的に深読みの物の言い方をすれば、つまり、甲州に登場する「ヤマトタケルノミコト」というのは、実は大和を遠く離れ、この甲斐国の辺境の地で米作りに果敢に取り組むほかはなかった始祖たちの英雄、敢闘心とその実孤独な境涯とを併せ持った彼等開拓民自身の人物像であったのかも知れない。
否、むしろ、心理的解釈論に立てば、その方がはるかに適中率は高いのだ、とも言い得るであろう。
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