2013年5月15日水曜日

「なぜ九六条を変えてはいけないのか」(伊藤真、『世界』6月号) (その3)

「なぜ九六条を変えてはいけないのか」(伊藤真、『世界』6月号) (その3)

(その2)より
5 改正手続要件を緩和した後の私たちの生活

 手続先行論の「真の姿」は・・・。

 日本国憲法は、立憲主義と平和主義という二つの英知をもつ点で優れた憲法である。
 
 第一に、個人の権利・自由を守るために権力を憲法で縛るという近代立憲主義の正統な流れを引き継ぎ、国民の多数意思によってもおかすことができない価値を書き留めている。
 立憲主義は、人間は間違いを犯す生き物であるという真理に対する謙虚さの現れ、いわば<人類の英知>の結晶である。

 第二に、前文と9条では、先の戦争で日本人と近隣諸国における多くの命を奪ったことを真摯に反省し、戦争の放棄(9条1項)、戦力の不保持(同2項)、交戦権の否定(同)という徹底した平和主義を採用した。
 さらに、前文がいう「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という宣言には、どんな名目の戦争もしない、軍事力以外の国際貢献によって紛争の根本原因をなくしていこうとする積極的非暴力平和主義が示されている。
 このような徹底した平和主義は、先進国に類をみない<日本の英知>の結晶である。

 自民党草案は、この二つの英知をどのように否定しているか。

(1) 多岐にわたる立憲主義否定の条項

 立憲主義を否定する代表的条項は、自民党草案12条と13条である。

 13条では、現行憲法13条の「個人」の尊重という文言から「個」を削除し、単に「人」の尊重とする。
 「個人」は多様で自立した存在である。
 一人ひとりの個人が豊かな人生を送るうえでも、社会や国家の発展にとっても、個人-多様性は重要な鍵になる。

 にもかかわらず、自民党草案は「個」という多様性の重要さを軽視し、均質な「人」として尊重するにとどめ、そのうえ、国防義務(草案前文3段)、日の丸君が代尊重義務(同3条)など多くの義務を憲法によって国民に課し、国民に憲法を守らせようとしている。

 もはや憲法は、個人の人権を守るために権力を縛るための道具ではなく、国が国民を支配するための道具へと変質している。

 また、自民党草案12条、13条では、あらゆる人権が「常に公益及び公の秩序」の下でのみ認められている。
 そうなると個人の成長も、文化や思想の発展も失われかねない。文化や芸術、思想や言論というものは、既存の秩序に敢然と挑戦し、その秩序を乗り越えて発展していくものだからである。

 こうした特徴をもつ精神活動を「公の秩序」、言い換えれば<現在の秩序>の枠の中に閉じ込めてしまっては、個々人が創造性を発揮して成長していくことができなくなるのである。
 これは私的な損失のみならず、創造の芽を摘むことが国の活力を失わせるという意味で、国家的な損失でもある。

自民党草案一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

自民党草案一三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

(2) 平和主義を捨て去ろうとする態度は自民党草案9条、9条の2に示されている

①自民党草案は9条2項で、「自衛権」を何の歯止めもかけずに認めている。

 具体的には、「自衛権」に集団的自衛権を含めて理解している(Q&A10貢)。
 集団的自衛権とは、自国が不法侵略を受けなくとも、同盟国が攻撃されれば、それを自国への侵害とみなし、その相手国への武力攻撃を正当化する考え方である。
 これにより、アメリカの従来からの要請に応えて日米同盟を強固なものにし、日本を攻めようとする国に対する抑止力を高めようとする自民党の想いの表れである。

 しかし、集団的自衛権を認めることは、日本が何もしなくとも、アメリカの敵から攻められる危険が増えることを意味する。たとえばアメリカによるアフガニスタンへの攻撃やイラク戦争に対して日本が支援する前と後とで、どちらが日本にとってより危険な状態になったか。あえて危険を増す選択をする必要がどこにあるだろうか。

 日米同盟が強固になれば日本の安全保障も手厚くなると考える人もいる。
 しかし、「抑止力」とは「脅せば相手は怖がって攻撃を止めるだろう」という楽観的な憶測に基づくものだから、そんな脅しに乗らない国やテロリスト相手には通用しない。
 こちらが軍事力を強化すれば、より殺傷力の高い暴力的な手段で脅されるのである。
 暴力は連鎖することを忘れてはならない。

自民党草案九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
二 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

②自民党草案では、9条の2において戦力の不保持原則を放棄し、国防軍を創設する。

 これは安倍総理が言うような、「自衛隊」から「国防軍」への看板の掛け替えではない

 戦争とは敵の兵士を殺すことであり、軍隊とは兵士を殺す組織である。
 しかし自衛隊は軍隊ではない。正当防衛や緊急避難のような例外を除き、原則として殺人行為はできないからである。

 ところが軍隊になれば交戦権が認められ、敵の兵士を殺傷できるのが原則となる。
 国防軍になれば、この原則と例外が逆転するのである。

 そうなると日本は、殺人目的の組織を市民社会に抱えることになる。
 これは市民社会にとって脅威である。
 市民社会は命を尊び、個人の自主性・自律性を尊重するのに対して、軍隊は人を殺し、組織への絶対服従を求める。
 軍隊の新兵訓練では、兵士になるために人間の尊厳を否定する訓練を受ける。
 在日米軍の兵士が性暴力等の犯罪を起こすのはそこにも原因がある。
 国防軍ができれば、兵士による犯罪事件は日本全国に広がる可能性がある。

 また、アメリカの社会をみるとわかるように、兵士に訓練するプログラムは存在するものの、帰還兵を真人間に戻すプログラムは十分でない。そのことが帰還兵の社会復帰を妨げ、ホームレスになり、銃犯罪に走ることが社会問題になっている。
 自衛隊が国防軍になれば、これは決して他人事ではない。

 軍隊をもてば、近隣諸国との軍拡競争によって国防費に予算をつぎ込むことになるから、増税や社会保障費の削減を必然的に招く。

 そうなれば「自己責任」という言葉がますます幅をきかせ、病気で働けなくなったら、まず家族で面倒を見なければならなくなるだろう。
 自民党草案24条1項には「家族は、互いに助け合わなければならない」と書かれており、生活保護の申請に来る前に、まず、家族で面倒を見ることが徹底的に求められるようになるはずである。それぞれの家族の状況が考慮される保障はどこにもない。

 また、武力攻撃に対して、国防軍によって武力で反撃しても、日本人の被害はさらに拡大するだけであるし、戦争になれば相手の国の民間人を殺傷することは避けられない。
 お互いの憎しみを増加させ、さらにテロを招き、結局は日本人の生命と財産により多くの被害をもたらすことになる。

 くり返しになるが、暴力は連鎖するの。
 「戦力によらなくても外交力によって自衛はできる」という考え方を推し進め、より外交交渉力を高めるほうが、日本の国民を守ることにつながる。

自民党草案九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
二以下 (略)

 以上要するに、改正手続要件が緩和されて自民党草案が導入されれば、次のような社会になるだろう。

 人権は「常に公益及び公の秩序」の下でしか保障されない、国防軍を持つことにより「国防」という公益の名の下に様々な人権が制約される、従順で物言わぬ市民が歓迎される、秘密保全法制が進み国民に重要な情報が提供されない、逆に、マイナンバー制度によって国民の情報を国が管理しやすくする制度だけが一気に進む……。

 南北戦争前の米国南部の奴隷、映画「風と共に去りぬ」に出てくるような奴隷は、保護はされているものの自由はなかったという。
 これを「奴隷の幸せ」というならば、改正手続要件が緩和されて自民党草案が導入されたとき、日本も同じようになってしまわないだろうか。

 為政者たちが理想とする国家像が国民に押しつけられて、それに物も言わずに黙ってついてくる従順な国民以外は排除されるような社会は、主体的に生きるかけがえのない一人ひとりの人生を尊重する社会とは真逆の社会のように思える。

 日本をそんな国にしてはならない。
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(おわり)

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