2013年5月21日火曜日

「憲法は何のためにあるのか 自由と人権、そして立憲主義について」(青井美帆、『世界』6月号) (その2)


(その1)より

3 あまりに真摯さに欠けるのではないか?

 今、憲法を変えようとしている政治家たちの言葉は、あまりにも軽い。
 憲法改正を提唱しているのに、憲法(学)を真剣に考えているとは、到底思われない。

 磯崎陽輔参議院議員(自民党憲法改正推進本部・起草委員会事務局長)は、「立憲主義」という言葉について、学生時代に、「私は、芦部信喜先生に憲法を習いましたが、そんな言葉は聞いたことがありません。いつからの学説でしょうか」とツイッターでつぶやく(2012年5月28日付ツイート)

 2013年3月29日の参議院予算委員会で安倍晋三首相は、民主党の小西洋之議員による、個人の尊重を謳い人権の保障を包括的に定めている条文は何かという、つまり憲法13条を知っているかどうかを問う質問に、答えることができなかった。
 また、憲法学を少しでも学んだことのある人ならば当然知っているはずの芦部信喜についても、「私は憲法学の権威でもございませんし、学生だったこともございませんので、存じ上げておりません」、と述べている。
 もしかすると、憲法の一般的な教科書も読まずに、憲法を改正しようと気勢をあげているのではないかとの疑念もわく。

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 安倍氏は新総裁として選ばれたときに、両院議員総会において、「強い日本をつくっていく。日本人が日本に生まれたことに幸せを感じる、こどもたちが日本に生まれたことに誇りを持てる、そういう日本をつくっていくために、私も全力をつくしていく」(強調引用者)と決意を語っていた。

 理論的な土台をもたずに「強い日本をつくる」という言葉のみが、ふわふわと浮いて、先走ってしまうことこそが、明治開国期以来確認されてきた意味であるところの<権力を縛るための憲法>という観点からは、もっとも恐ろしいことであるはずだ。

4 憲法の目的 - 自由と権利

 明治憲法は、市民が下から君主に対して自らの自由や権利を主張し、君権を制限するという「下からの革命」(市民革命)の結果ではなく、一部の指導的な者の主導による、「上からの改革」の結果であった。
 
 そのため、ひとことでいえば明治憲法には、人々の自由や人権(注10)という概念や、その保障のための制度が、大いに欠けていた(注11)。

(注10) 自由を実効的なものとするためには、それが侵害されたときに、法的にそれを権利として国家に対して主張しうることが必要。
人権のなかでも中心にある自由権は、個人の自由を国家が制約する際に、国家に対して防禦的に「自由の不侵害を求める権利」である。

(注11) 明治憲法のもとにおける自由や権利の理論的限界について、奥平康弘「戦前日本憲法学における「基本権」の概念」社会科学研究18巻6号(1967年)P1434以下参照。

 そもそも、<人が生まれながらにして自由であり、人格において対等である>という考えや、<人が人であるという理由のみで人権を有する>という考えを、明治憲法はとっていないし、社会文化状態として、多くの普通の人々にとって、そういう自由や人権、個人の尊重原理が当然のことと考えうるものでも、なかった。

 しかしながら、わが国も含めて第二次世界大戦後の諸国は、近代市民革命の理念を改めて評価し、個人の自由や人権を基本に据える憲法観を追求してきている。

 天賦人権という思考は、ヨーロッパ由来ではあるものの、普遍性を認められるがゆえに、わが国も含めて多くの国において「普遍的価値}として掲げられている。

 立憲主義憲法は、個人一人ひとりが大事であるとして至高の価値を置き、自由や人権を謳っている。この考えの前提には、個人が価値の源泉であって、人は自ら生きたいように自分の人生を選び取ることができるという「可能性」への信頼がある。

 法の仕組みによって権力を統制することで、この可能性を守ろうという試みは、近代以降、積み重ねられてきた。
 法を執行するのは生身の人間であって、人間は誤りをおかすものである。
 だから、ちょっとやそっとの間違いが自由や人権の保障を無に帰すことのないよう、壊れにくい仕組みが必要だ。そのために権力をどう分配すればいいかということを定めているのが憲法である。

 つまり、私たちの自由や人権を守るための仕組みの、いちばん根本的な基盤を作っているのが憲法なのだ。

 このことは、憲法の中に、私たちの権利義務関係を具体的に規律するための「法律」の作り方が書いてあることにも見出される。

 一人ひとりが大切な個人として扱われる以上、ある人と別の人の間で人権の調整がなされるのは当然である。個人の権利を制限したり、あるいは義務を課したりするのも、法律という形式をもってすることにより可能となる。それは国民代表機関の手で立法されるからこそ、なのだ。

 立憲主義と自由についての纏め
 立憲主義とは要するに<自由を守るための知恵>である。
 憲法や立憲主義そのものが目的なのではない、自由や人権が保障されることが、憲法や立憲主義の目的なのだ。
 
 私たちに求められていることは、国際的な人権保障の仕組みの進展も踏まえ、私たちの自由や人権の十全な定着・開化に向けて、より実効的な保障を編み出してゆくこと。

5 「改正草案」における自由と義務

 「改正草案」が立脚する基本的な「ものの考え方」は、立憲主義的なそれとは異なっている。

 私たちの自由や人権から思考を出発させるのではなく、逆に「国家」がアプリオリ(先験的)に存在しているという想定のようである

 一人ひとりの個人を尊重するためにこそ、人権を制約し調整するための法律を作る手続きを、憲法で定めている。そしてその際、立法権は憲法の謳う基本的人権を守らなくてはならない。
 つまり、国家に対する自由や憲法の謳う人権は、国家のなしうる限界を示している。

 これに対して草案は、法律レベルでの「権利--義務」、たとえば商品を購入するときの、「お代を受け取る権利-お代を支払う義務」というように国家と個人との関係を捉えて、理解しているように思われる。
 そうであるがゆえに、「権利があるなら当然に義務もある」という発想や、国民にいろいろな義務が課されて当たり前ということになるのではないか。

 象徴的なのは、現行憲法97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」が、「改正草案」では削除されている点だ。

 97条を含む憲法第10章は、憲法の最高法規としてのあり方を定めている章である。
 一見すると、97条は11条(「改正草案」でも11条は修正の上で維持されている)と重複しているように思えるが、97条には大きな意味がある。
 つまり、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である基本的人権を守るため、憲法が最高法規として、憲法により設置される諸国家機関のなしうることにタガをはめるという憲法の目的を、最高法規の実質的根拠を示す形で再び確認している。

 これに対し「改正草案」は、97条を削除する。
 そして、現行憲法とは異なって、国民に「憲法尊重」の義務を負わせている。
 ここに「改正草案」の、自由や人権についてのスタンスの違いが、象徴的に現れている。

 「改正草案」の課す様々な義務の中の一つ、「改正草案」24条1項の場合。
(「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」とするもの)

 「家族は大事だ、大切にしよう」というのは道徳原理として尊いものだが、憲法は道徳本ではない。
 個人の尊重と個人の自由の見地よりすれば、家族を構成する一人の個人にまで遡って、「家族は、互いに助け合わなければならない」と憲法に書き込むことの妥当性を考える必要がある。

 自らの人生をどう生きるかは、個人の選択に委ねられなければならない。
 国家は、人の心に入りこんで、その選択に介入してはならない。
 アプリオリに存在する国家が一定の道徳的価値を強いることができると「改正草案」は考えているようだが、そのようなことは立憲主義憲法のなしうるものではない。

6 私たちの責任

 明治開国期も含め、また日本国憲法制定とその運用を通して、日本の法文化は、<立憲主義>・<自由や人権>・<個人の尊重>といった諸概念を育ててきたが、それらが政治の言説において置き去りにされている。

 いったい、何のために憲法を改正するのか。
 どこへ行こうとしているのか。

 私たちは<生まれながらに自由であり、人格において対等である>と述べた。
 これは、より正確には、私たちは<自由であり、人格において対等でなくてはならないはずだ>である。
 自由獲得の努力は現在進行形なのだ。

 「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」を維持するための、不断のたゆまぬ努力がなされなければ、権力は腐敗し、私たちの自由は失われてしまう。したがって、憲法改正問題とは、私たちの、私たちの自由に対する責任の問題でもある。

 第二次世界大戦後、70年近くになろうとしてなお、このような「改正草案」が、これまで長年に亘りわが国の政治を担ってきた政党から出されるのである。
 そして多数派形成が容易であろうと、手続き条項から手を付けようとする議論(先行論)が臆面もなく語られるのである。
 70年近くの間にそのような政党や議員しか育ててこられなかった私たちに、自由に対する責任の重みを受け止める土壌が、果たしてあるのか。

 しかしそれでも、自由に価値を認め、これを享受しようとする以上、私たちはこれを受け止め、引き受けなければならない。
 責任を負うからこそ、自由でいられるからだ。
 日本国憲法は国民投票という形で、国民を憲法改正に直接かかわらせる道を選んでいる。
 政治情勢が憲法改正に大きく傾く中で、これまで私たちが獲得してきた自由を守るために、私たちは責任をもって、臨みたい。
 私たちは市民としての責任のもと、自由を追求する「不断の努力」(憲法12条)を続けてゆかなくてはならない。

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