2013年5月5日日曜日

占領当局は「1院制がいい」と言ったが、当時の日本政府は異例なほど頑張って2院制にさせた。そのときのキーワードが「多数の暴走をやめさせる」「国民は間違うことがある」だ。日本人の知恵が今、試されている(樋口陽一)

毎日JP
特集:きょう憲法記念日 憲法96条改正の是非 日本維新の会共同代表・橋下徹氏、憲法学の樋口陽一氏に聞く
毎日新聞 2013年05月03日 東京朝刊

 憲法96条改正の是非について、弁護士で憲法改正のカギを握る日本維新の会共同代表の橋下徹氏と、憲法学の樋口陽一氏に聞いた。【聞き手・高塚保、木下訓明】

 ◇国民の判断に委ねよ−−日本維新の会共同代表・橋下徹氏

 政治や行政、司法に対する世の中の批判の根本原因は統治機構を規定している憲法のゆがみだ。何とか憲法を国民全体で考える機運を高めたいと考えていた。日本維新の会を作る際、「そこが変わればすべてが変わっていくものは何か」と考えた時に憲法96条を思いついた。議論をしっかりやるには、憲法が変わる可能性が背後にないと本気の議論にならない。参院選でもっと議論を盛り上げていければと思っている。

 96条の国会発議要件を「2分の1以上」に引き下げることを緩和だとは思わない。日本の憲法改正手続きの一番の特徴は「3分の2以上」の発議ではなく、最後に国民投票にかけるということだ。99条の憲法尊重擁護義務の対象から国民が外れている意味は、現行憲法がこの憲法自体を信じるのか否かも国民の自由な判断に任せているということだ。「護憲派」と言われる人たちが現行憲法を本当に守りたいのであれば、国民の判断にゆだねるのが筋だ。護憲派は「移ろいやすい国民世論にゆだねるのは危険だ」「一時の国民感情で憲法を変えていいのか」というが、それは日本国憲法という極限まで国民を信じる憲法の価値観にそぐわない。

 司法試験の勉強では個人の尊厳を明記する憲法13条が一番重要だと習うが、13条をも変えうる力をもつ96条の方がより重要だ。だが現行憲法制定時の衆院の議事録を見ると、96条は「質疑なし」でまったく議論されていない。憲法制定過程の大欠陥だ。日本人が初めて経験する憲法改正議論として、感情的なイデオロギー闘争とならない96条改正がもっともふさわしい。

 国会での議論を見ると、憲法の教科書すら読んだことのない国会議員がなぜ憲法について簡単に意見できるのかと思う。現行憲法には主権者である国民が国家権力を縛るという立憲主義が込められている。その底にある憲法論の奥深さは、刑法や民法などに比べても桁が違う。国民に特定の価値観を強要する憲法改正を目指すような議論はすごく怖いことだ。


 国会議員など公選職だけで96条改正案を作ることはできない。憲法改正権は国民主権そのものだ。専門家を集めてしっかり考える。改正案の制度設計だけでも1、2年かかる。改憲勢力が衆参3分の2を保っている間に改正できるようなスケジュールで、立法権など三権からは独立した「憲法改正国民会議」を設置し改正案を作りたい。会議は、改正案の中身を作るためのものだ。メンバー選びは政治の役割だと考えている。遅くとも次の衆院選までの間に改正するという時間軸を考えている。96条は3年以内に決着がつけられる。

 僕は石原慎太郎共同代表の憲法観を理解している。第二次大戦、敗戦、連合国による占領の状況をじかに見てきた石原代表の感覚を否定することはできない。だが現行憲法を「押しつけだ」というだけでは今の国民には通じない。だから現行憲法の制定過程をもっと国民に知ってほしい。現行憲法には制定過程に大きな欠陥がある。制定過程こそが現行憲法の一番ぐらつく弱点だ。そうすると「一回きちんと憲法を作ろうか」という議論になるはずだ。

 「道州制」や「首相公選制」は統治機構の根本に関わる話で、半年や1年そこらではできない。欲張ると何一つまとまらない。だから96条に絞る。ただ法案の衆院再議決の要件を定めた59条に関しては、無機質でテクニカルな問題なので、同時にいけるかもしれない。統治機構改革は96条さえ変えられれば4、5年後にでも実現は可能だ。

 96条改正の先にある具体的な憲法の中身の議論に移れば、またいろいろグループ分けが起こるかもしれない。私はガチガチの立憲主義論を前提としている。国民に特定の価値観を強要する憲法改正には簡単に賛成できない。憲法観は政治家の行動原理で一番重要だ。憲法改正議論を通じて政界再編が起こる可能性もあるだろう。

 ◇暴走への歯止め必要−−東京大名誉教授(憲法)・樋口陽一氏

 憲法96条は特別変わった規定ではない。通常、日本と比較の対象になる国々では改正要件の厳しい憲法、「硬性憲法」だ。憲法が最高法規である以上は多かれ少なかれ硬くするのは当然で、「衆参総議員の3分の2以上の賛成プラス国民投票」は常識的な組み合わせだ。逆にドイツは国民投票がない。それはワイマール共和制からナチス・ドイツに移るプロセスで国民自身が国民投票で暴走したことへの教訓だ。


 96条の規定の意味は憲法の「立憲主義」から来ている。「権力は放っておくと悪いことをする」「だから国民の方から権力を縛る」、これがエッセンスだ。これは戦前の日本の方がよく分かっていた。当時、天皇の名において藩閥政府が威張っていた。憲法というのは自分たちの側から藩閥政府を縛ることだと。だから「立憲政友会」「立憲民政党」と政党名に「立憲」が付いていたわけだ。

 さらに言えば、憲法の存在理由の中には「国民が国民自身をも縛る」ことまで含まれている。国民もその時々の都合、その時々の利益に流され間違った判断をする。そうならないために、96条に即して言えば、国会が3分の2の合意形成をするまでは「選良」としての国会議員が議論を尽くす。その上での国民投票となれば、国民は国会での議論、国民投票を前にした賛成、反対両派の議論を見て考えて最終的に1票を投ずる。そのための「3分の2」だ。

 単純多数でサッと発議されて、国民投票で国民がサッと賛否の投票をするというのではいけないというのが96条だ。少なくとも「2分の1」では心細いというのが今までの知恵なのだ。

 安倍晋三首相は国会で「3分の1を超える国会議員が反対すれば憲法に国民が指一本触れられないのはおかしい」と言っている。しかし、簡単に国民自身も触れてはいけないというのがさっき言った趣旨だ。ただ、国民はこれまで何度も憲法に触れている。戦後、長期にわたって政権を担当してきた自民党が憲法を「変えたい」「変えたい」と言っていたのを、国民は「変えなくてよい」と意思表示をしてきた。

 「96条改正に反対する人たちは国民を信用してない」といわれるが、国民を丸ごと信用してはいけないというのが96条の思想だ。扇情的で乱暴な議論に国民が誘惑されてはいけないからだ。国民といえども間違うことがある。「国民は間違うことはない」「ローマ法王は間違うことはない」「偉い君主は間違うことはない」。これが人類の悲劇の歴史だと言わないといけない。国民が自らをいましめてこそ主権者としての責任を果たせる。


 戦後、参院選は非常に大事な役割を果たしてきた。1955年衆院選で護憲勢力による「3分の1の壁」ができたが、56年参院選でも「壁」ができた。それで前のめり的に進んできた改憲の勢いが止まった。改憲に積極的だった中曽根政権でも「この内閣では致さない。世論が盛り上がるのを待つ」となった。第1次安倍政権がつまずいた2007年参院選。これも憲法改正が一方的に進むプロセスに「待った」をかけた。

 我々が思い出すべきことは、占領下で現行憲法を作る際、占領当局は「1院制がいい」と言ったが、当時の日本政府は異例なほど頑張って2院制にさせた。そのときのキーワードが「多数の暴走をやめさせる」「国民は間違うことがある」だ。日本人の知恵が今、試されているということを言いたい。

 国民の判断に絶対はない。その証拠に、首相や日本維新の会が非難してやまない民主党政権を誕生させた選挙はついこの間だった。国民は「政権交代」というかけ声に浮かれて圧倒的な勢力を与えた。中身を問わない「政権交代」というキャッチフレーズだけでまた逆の方に3分の2が行ってしまう。そういう事態をあらかじめセーフガードするのが96条だ。





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