2013年5月23日木曜日

「グローバル化の総仕上げとしての自民党改憲案」(内橋克人X小森陽一、『世界』6月号) (その1) 夏目漱石が見たイギリス

「グローバル化の総仕上げとしての自民党改憲案」(内橋克人X小森陽一、『世界』6月号)
夏目漱石が見たイギリス
なぜいま、改憲なのか
「九条の会」と改憲潮流
改憲という総仕上げ
経済協定としての日米安保条約
運動の広がりへの模索
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(その1)
夏目漱石が見たイギリス
内橋 小森陽一著『漱石論 21世紀を生き抜くために』(岩波書店刊)のこと。

小森 漱石がロンドンに留学したのは1900年から。ちょうど日英同盟が結ばれた頃。
植民地政策を象徴するヴィクトリア女王の死に遭遇した後、不平等条約体制に置かれていた日本が、大英帝国と初めて軍事同盟を結んで大騒ぎして喜んでいる姿に対して、そんなことでいいのかと批判する手紙を、貴族院の書記をしていた妻の父中根重一に書き送っている。

内橋 その10年ほど後、河上肇が同じロンドンに行っている。当時、世界で最も富める国と言われていたイギリスの現実を見たことが、『貧乏物語』を書く強い動機になっている。

「国は著しく富めるも、民は甚だしく貧し。げに驚くべきはこれら文明国における多数人の貧乏である」。
僅か2%の富裕層、上層階級が、全体の75%以上の富を独占している。河上肇はこれこそまさに資本主義が生み出す矛盾の最たるものと見極め、『貧乏物語』にとりかかった。

 そういう時代を経て、イギリスではケインズ、ベヴァレッジ、さらにはウェブ夫妻が登場し、「ゆりかごから墓場まで」という、ほぼ完壁な福祉社会をつくり上げる。

 しかし、それを鉄血宰相サッチャーが解体し、財政において小さな政府を目指しながら、権力において大きな政府をつくり上げた。

 宇沢弘文との対談(『始まっている未来』岩波書店刊)の中での宇沢の言葉。
ベトナム戦争で「ベトコン」1人を殺すのにかかるコスト(Kill-Ratio)をいかに最小化するかを研究したアラン・エントホーフェンという経済学者を、ベトナム戦争終結後、サッチャーが招聘してNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)の民営化を強行。移民も含め誰でもひとたび健康を害すれば医療サービスを受けられるというNHS体制が、患者1人が死に至るまでのコストを最小化するDeath-Ratioの手法によって解体された。60歳過ぎたらもうNHSでは人工透析は受けられない、透析を受けたいなら自分でお金を出して(今の混合診療)下さい、となった。

 サッチャーは、新自由主義的改革で国を救ったなどと讃えられますが、その”偉業”は、高度福祉社会の解体と引き換えになされたもの。
 そういう歴史の実相がスキップされてはならない。映画『ブラス』(監督・脚本マーク・ハーマン)にも明らかだ。

 私たちは、学ぶべきモデルとした欧米社会(とりわけ先進的な資本主義社会イギリス)をどう見るべきか、再定義しなければならない。

 アベノミクスが、同じことをやろうとして再び新自由主義の時代に入ってきた。
 サッチャー歿後も、サッチャリズムに対するきちんとした評価がないままのようだ。

小森 河上撃が最貧層を見ていたとするならば、漱石は中産階級の没落する過程を極めて正確に見抜いていた。
 「倫敦消息」で、「世界の工場」と言われ七つの海を支配していた大英帝国が、軍事的拡大路線の末、国家予算が費えて中産階級が没落していく現状を書いる。

 ロンドン到着の数日後、金鉱とダイヤモンド鉱山を奪うために南アフリカのトランスヴァール共和国とオレンジ公国にイギリスが戦争を仕掛けた「ボーア戦争」の兵士たちが帰還し、道が出迎えの大群衆で埋まったことも家族に報告していまる。
 戦争にもはや国家予算を費やせなくなって、それまでヨーロッパにおけるロシアの南下を抑えてきたイギリスにその余裕がなくなる。
 シベリア鉄道を引いてアジアに出ようとしているロシアの動きに対しては日本が軍事的に対処してくれというのが、日英同盟だ。

 その日英同盟体制と、第二次大戦後の日米安保条約体制との類似性の中で、第二次安倍政権が何をめざしているかを考えると、漱石から私たちが何を読み取るかが問われていると思う。
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夏目漱石と戦争 (平凡社新書)
夏目漱石と戦争 (平凡社新書)
以下は、この2冊によった今日のテーマの補足

【補足】
漱石のイギリス留学と南アフリカ戦争
明治33年(1900)9月8日
熊本の第五高等学校に勤めていた漱石は、文部省から2年間のイギリス留学を命じられ、横浜港からドイツ汽船プロイセン号に乗り込んで出航。

10月29日
ロンドン到着の2目の漱石は、戦場から帰還した第2次南アフリカ戦争(ボーア戦争)の義勇兵たちのパレードに出会う。
「南亜ヨリ帰ル義勇兵歓迎ノ為メ非常ノ雑沓ニテ困却セリ」(その日付け「日記」)

南アフリカ戦争(ボーア戦争)
 イギリスが南アフリカのオランダ系入植者国家、トランスヴアール共和国とオレンジ自由国を併合するためにおこなった帝国主義戦争で、第1次(1880~81)と第2次(1899~1902)がある。

 第1次戦争では、イギリスはダイヤモンド鉱山を持つトランスヴァール共和国を併合しようとして失敗、両共和国の独立を承認した。

 1886年(明治19)、トランスヴァール共和国のラントで豊富な金の鉱脈が発見されると、以後、何千人もの鉱山技師たちが隣接したイギリスのケープ植民地から流入し、外国人が鉱山付近に続々と住み着く。
イギリスはさまざまな形でこの2国を圧迫し、露骨な内政干渉を行う。

1899年9月、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は、内政不干渉を条件として、大英帝国市民にも同等の権利を与えよというイギリスの要求をすべて承認した。しかし、イギリスはこの条件を拒否し、同年10月、両者は戦闘状態に入る。

総勢3万5千余の南アフリカ軍に対し、イギリスは、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなどからの義勇兵をふくむ45万人の圧倒的な大軍を擁して侵入。
南アフリカ軍は巧妙なゲリラ戦を展開してイギリス軍を悩ませたが、イギリス軍は1900年5月にはオレンジ自由国、9月にはトランスヴァール共和国の併合を宣言した。
漱石が出会ったのは、このとき凱旋した義勇兵たち。

しかしその後も、南アフリカ軍は抵抗を続けた。
1901年(明治34)2月28日、両軍の最高司令官キッチナーとボータが和平交渉のためにケープ植民地内のミッテンプルグで顔を合せるが、3月16日に決裂。

イギリスは既に2億円の軍事費を費やし、このことへの批判が国内で高まっていた。

漱石「倫敦消息」其二で、「英国はトランスヴァールの金剛石を掘り出して軍費の穴を填めんとしつつある」と述べ、イギリスの出費の大きさと、それを相手国のダイヤモンド鉱山の発掘によって穴埋めしようとしている強欲さを諷刺している。

イギリス総司令官キッチナーは、南アフリカ軍のゲリラ活動を封じるためだとして徹底的な焦土作戦を開始。農場を焼きはらい、羊や牛の群を虐殺し、家具や農具を破壊した。
この残虐な戦法には、イギリス国内からも非難の声があがる。

また、イギリス軍はゲリラの根拠地を一掃するとして、女性・老人・子供などの非戦闘員を強制収容所に収容したが、劣悪な環境のもとで、多くの民間人が死亡した。

この戦争は、原住民である黒人から見ると、イギリス人と南アフリカに居付いたヨーロッパ系、特にオランダ系移住者との間の争いであった。黒人たちは、両軍から強制的に徴兵されたり殺されたり、大きな被害を蒙った。

1902年5月31日、プレトリアで講和条約が締結。
トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は抹殺され、イギリスの直轄植民地となった。

漱石は、6月1日の『ノート』に、南アフリカから平和の報せが届き教会が鐘を鳴らしていることを記し、8日には、

「全国ノ寺院ニテthanksgivingヲ行フ自ラ戦端ヲ啓キ自ラ幾多ノ生命ヲ殺シ、自ラ鉅万ノ財ヲ糜(ツイヤ)シ而シテ神ニ謝ス何ヲ謝セントスルヤ馬鹿々々シキコトナリ。」

と不快な思いを吐き出している。

第2次南アフリカ戦争の戦死者は、イギリス兵約2万2千、南アフリカ兵約2万、黒人兵約1万4千、民間人を含めると7万人以上の人命が失われた。


1902年3月15日付けの岳父中根重一宛手紙
 新聞電報欄にて承知致候が此同盟事件の後本国にては非常に騒ぎ居候よし、斯(かく)の如き事に騒ぎ候は恰(あたか)も貧人が富家と縁組を取結びたる喜(うれ)しさの余り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん。固(もと)より今日国際上の事は道義よりも利益を主に致し居候へば、前者の発達せる個人の例を以て日英間の事を喩(たと)へんは妥当ならざるやの観も有之(これある)べくと存候へども、此位の事に満足致し候様にては甚だ心元なく被存(ぞんぜられ)候が如何の覚召(おぼしめし)にや

明治35年(1902)1月30日、日英同盟協約がロンドンで調印された。
この協約は、清国と韓国で他国の侵略的行動や騒擾がおこったとき、日英両国は自国の利益を守るための措置をとること(第一条)、そのために第三国と戦争になったとき、一方は厳正中立を守ること(第二条)、他の一国または数国が同盟国に対して交戦に加わったときは他の同盟国は援助を与え協同して戦闘にあたること(第三条)などを定めたもの。

南アフリカ戦争に手を焼いていたイギリスは、東アジアでの利権をまもるために、日本の軍事力に期待を寄せ、「光栄ある孤立」を捨てて同盟を結び、ロシアと対抗しようとした。

漱石は、本国やロンドン在留の日本人が、日本もこれで西欧列強の仲間入りを果たしたと考えて喜んで浮かれている事大主義や成上り根性に、嫌悪を覚えていた。

手紙では、日英同盟締結に尽力した林董公使の労を謝するために在留日本人たちが記念品を贈呈することになり、寄付金が徴収された。漱石の寄附金は5円。この「困却」も訴えている。

尚、漱石はこの手紙の中でマルクスの言及して、
「(前略)カールマークスの所論の如きは単に純粋の理屈としても欠点有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候」と記されている。

「倫敦消息」について
 漱石の4月9日付け正岡子規・高浜虚子宛書簡で、こちらは倫敦という世界の勧工場のような、馬市のような処へ来たのだから、時々は見聞したことを、君たちに報道する義務がある。このことは単に子規の病気を慰めるばかりでなく、虚子君との約束で大様に受け合ったのだやり、手紙を書くのは僕の義務さ、と言い、この夜、『漱石全集』では9頁にまたがっている長文のものを書いた。
この手紙は子規と虚子が「倫敦消息(一)」として、5月31日発行の「ホトトギス」(4巻8号)に掲載された。
漱石はさらに4月20日付、26日付子規・虚子宛書簡を出している。これらは「倫敦消息(二)」「倫敦消息(三)」として、6月30日刊「ホトトギス」(4巻9号)にまとめて掲載された。

この頃、漱石は中国/中国人をどうみていたか

漱石の1901年3月15日付の「日記」。

「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリモ遥カニ名誉アル国民ナリ、只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ(中略)日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ、少シハ考へテ見ルガヨカラウ、西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナッタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ッテ自分方ガ景気ガヨイト云フ御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」

漱石は、ロンドン市街でよく中国人と間違えられたようだ。同じ経験をした日本人の中には、そのことをいやがって怒る人もあった。日清戦争以降、日本人の間に、中国人を蔑視する感情が広がっていた。

しかし、日中文化交流の長い歴史に通じていた漱石は、日本が中国の「厄介」になり「世話ニナッタ」ことを知っていた。
彼は、日本人の「軽薄ナ根性」を批判するとともに、義和団事件の代償として列強から巨額の賠償金や権益を要求されている中国の「不幸」な現状に同情していた。

「倫敦消息」其三でも、「支那は天子蒙塵(もうじん)の辱(はずかしめ)を受けつゝある」と書いている。
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(その2)につづく


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