2013年6月23日日曜日

「日本人は民主主義も捨てたがっているのか?」想田和弘 (『世界』6月号) (その2) 政治家がやりたい放題できる「不可解」 推理の糸口となる「事件」 「首相は庶民と同じ凡人でよい」というイデオロギー 民主主義に「実」を入れる

(その1)より

政治家がやりたい放題できる「不可解」
これほど悪辣な改憲案に対してマスコミは騒がない。さらに昨年12月の衆議院選挙では自民党を圧勝させてしまった。
日本国民は、自ら民主主義を手放すことに同意するプロセスを進んでいるように見える。

昨年2月、大阪市長橋下徹の市職員に対する「強制アンケート思想調査」でもそうだった。
新聞報道の大半は、橋下が腐った労働組合の膿を出すために奮闘している、という主旨の切り口で、橋下に好意的だった。
しかし、橋下の業務命令として回答を義務づけた調査には、「これまでに組合活動に参加したことがあるか」「誘った人は誰か。誘われた場所や時間は」「政治家の街頭演説を聞きにいったことがあるか」など、職員の思想信条に立ち入りかねない質問が含まれていた。それは、明らかに労働者の団結権を侵害する不当労働行為であり、日本国憲法に違反していた。
のみならず、橋下は「『誘った人』の氏名は、回答いただかなくても構いません。末尾に記載した通報窓口に無記名で情報提供していただくことも可能です」などと密告を奨励している。それは、アメリカのマッカーシー上院議員らが冷戦期に行った、赤狩りを連想させた。

「こんな文書が公になったからには、各所から非難が集中し、国民からは恐れられ、橋下市長の政治生命は終わりだろう」と予想したけれど、それは見事に外れた。各地の弁護士会などが非難し、アンケート調査は破棄されたが、マスコミや市民はほとんど問題にしなかった。
結果的に、橋下はほとんど政治的ダメージを受けず、その後「日本維新の会」を結党し、昨年の選挙では比例で民主を上回る1,226万票を獲得し、選挙区と合わせて合計54人もの衆議院議員を当選させるに至った。

似たような違和感は、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)を巡る問題でも強く感じた。
TPPで関税が撤廃されると、政府の試算で日本の農林水産物の生産力は約4割減じるという。北海道の農家の7割は廃業に追い込まれ、沖縄のサトウキビや乳製品やコメは全滅するとの試算も、それぞれ道や県から出ている。
つまり、それだけの農林水産業従事者が一挙に失業すると考えられる。また、今ある田畑の4割が荒廃することも避けられないであろう。
その引き換えに、日本のGDPは0.66%増加するというが、それは日本にとって、あまりにも割に合わない話ではないだろうか。

さらに、TPPのISDS条項により日本の国家主権さえ脅かされる可能性がある。
詳細は紙幅の関係で割愛するが、TPPによって、自分たちで自分たちのルールを定める「自決権」を剥奪され、日本の国内法は海外の企業や投資家の都合のいいように定められかねないことになる。
にもかかわらず、TPP草案の内容は秘密で、日本政府すら閲覧を許されていない。
おまけに、一旦交渉に参加したら、事実上、途中で抜けることは不可能だという見方が支配的だ。

先の衆院選で当選した自民党議員295人のうち、205人は「TPP交渉参加反対」を公約として掲げていた。
これは、TPP反対を理由に投票した有権者にとっては、ブレーキを踏んだらアクセルだったということだ。

TPPを巡る不条理を挙げればキリがないが、こうした情報は、インターネットや新聞やテレビの報道を見れば、誰でも仕入れることができる。
従って、TPPに反対、少なくとも慎重になる人が、日本人の大半を占めてもよさそうなものだが、報道機関各社の世論調査によれば、安倍首相が3月にTPP交渉参加を表明した際に、それを評価する人は軒並み半数を超えていた。
政権を揺さぶるような大規模な反対運動も起きていない。それどころか、安倍政権の支持率は高いままだ。
日本人は総じて、TPP交渉参加を受け入れていると理解せざるをえない。

推理の糸口となる「事件」
こ3月24日の参議院予算委員会での、民主党小西洋之議員と安倍首相とのやり取り。

小西議員「安倍総理、芦部信喜という憲法学者を御存知ですか?」
安倍首相「私は存じあげておりません」
小西議員「では高橋和之さん。あるいは佐藤幸治さんという憲法学者は御存知ですか?」
安倍首相「まあ申し上げます。私は余り憲法学の権威ではございませんので、学生であった事もございませんので存じ上げておりません」
小西議員「憲法学を勉強されない方が憲法改正を唱えるというのは私には信じられない事なんですけれども。今、私が挙げた三人は憲法を学ぶ学生だったら誰でも知ってる日本の戦後の憲法の通説的な学者です」

このニュースは、首相が「クイズのような質問は生産的ではない」などと逆襲して、むしろ小西議員を皮肉る論調の新聞報道がみられたが、小西議員の質問は、単なる雑学的知識の有無を試す「クイズ」ではない。

小西議員が述べるように、芦部信喜という憲法学者は、日本国憲法の通説的解釈を形作る上で極めて重要な仕事をした学者で、憲法学界の大家だ。
日本映画でいえば、黒澤明や小津安二郎に当たる人物で、憲法について論じる際には頻繁に言及される人だ(片山さつきが自分のお師匠だと自慢するくらいの人)。
「公共の福祉」を「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」であると提唱したのは、芦部氏の師匠である宮沢俊義氏で、それを「一元的内在制約説」と名付けたのは当の芦部氏だ。
「公共の福祉」概念について勉強したり、まして、それを「公益及び公の秩序」と書き換えようと企てるならば、絶対に避けては通れない名前だ。

ところが、憲法を変えることを政治家としてのライフワークとしているはずの安倍氏が、芦部氏を知らなかった。

安倍氏は、自民党改憲案を出した「憲法改正推進本部」の最高顧問で、自民党による改憲への動きの、最高責任者である。
小西議員とのやりとりは、そういう責任ある立場の安倍氏が、憲法学の基本を勉強せずに改憲論を振りかざし、一連の悪辣な書き換えを企てていることを白日の下に晒してしまった「事件」として、驚きとともに記憶されるべきだ。

しかし、日本社会はまたしても、政治家の重大な失態に対して寛容だった。

安倍氏を批判する声もあったが、マスコミは騒がず、安倍氏の首相としての資質を問う声は大きくならない。
それどころか、逆に小西議貞のブログが「炎上」、「税金と酸素の無駄だからこの場で死ね」「国会議員やめて下さい。貴方が落選するよう工作します」などの否定的なコメントが2千件以上も寄せられた。

著者(想田さん)にも多くの批判が寄せられた。
著者に宛てられた批判、「安倍擁護の論法」は次のようなもの。

「でも芦部信喜とかどうでもいいよね」
「あなたもそんな憲法改正に強硬に反対しているということは少なくとも憲法学の知識は大丈夫なんですよね?」
「どうでもいいです。しつこい。私もそんな人知らんわw 知らない事を『恥ずかしいね』って罵倒される可能性はだれにでもあるものです」
「まず貴方と総理では覚えなければならない知識量が膨大な差に登(ママ)ると思うんだけどちがうのかな?」
「安部総理が過去から現在までのあらゆる憲法学について網羅していなければならないのか疑問です」

これら擁護論に共通する特徴は、首相という最高権力者に対して要求するハードルの、異様なまでの低さだ。
首相の知識レベルや見識は、まるで「わたしたち庶民と同じでよい」と言わんばかりだ。

 しかし、首相は、理想的には日本人の誰よりも知識が豊富で、倫理や見識やコミュニケーション能力が高く、判断力に優れ、かつ立場の弱い人にも目配りのできる、一種のスーパーマン(スーパーウーマン)でなくてはならない。
選挙を通じた民主主義というシステムは、日本列島に生息している一億人の中から、わたしたちの社会の舵取りを託せる「超人」を選び出すための装置だ(その「超人」の行動ですら、わたしたちは絶えず見張っておく必要がある)。

「首相は庶民と同じ凡人でよい」というイデオロギー
 敗戦後、日本国憲法は、わたしたち日本人に「法の下の平等」の価値を浸透させた。すべて国民は「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」ことが憲法第14条で規定され、貴族制度は廃止された。第24条では「婚姻における両性の本質的平等」が規定され、第26条では「教育の機会均等」が定められた。
「人はみな平等」という考え方抜きに、人権という概念も成立しないし、民主主義もありえない。

 著者は、自身がこれまで望んだ道を歩んでこられたのは、「平等」という観念と、それに基礎づけられた民主主義のお陰だと思っている。

 にもかかわらず、ここにひとつの危険性を認めざるをえない。
「人はみな平等」という考えと、「首相(や政治家)はわたしたち庶民と同じ凡人でよい」という考えの間にある垣根は思いのほか低く、勘違いして同一視することは極めて容易なのだ。

そして、日本人の多くは、もしかするとこの垣根を取り払ってしまったのではないだろうか、という疑念が生じる。
そしてそれは、日本国憲法がもたらした「民主主義の成果」であるかもしれない。

 もしこの推論が正しいとするならば、日本の民主主義は、いわゆる「衆愚政治」と呼ばれる状態になりかけている可能性が高く、しかもそれは相当に根深く、一朝一夕に手当てできるような問題ではない。

民主主義とは本来、自立した個人の存在を前提としている。
民衆に主権があるということは、端的には「民衆こそが責任主体であり、決定権がある」ということを意味している。

そのためには、民衆のひとりひとりが、少なくとも政治家の仕事の基本的な良し悪しを判別できる程度には、情報を集め、分析し、政策を理解し、選択できる能力を維持していなければならない。民主主義の健全性を維持していくためには、わたしたちひとりひとりが死ぬまで勉強を続けなくてはならないし、たえず責任の重みを感じ続けなくてはならない。
それは民主主義の世の中に生きる人間の宿命であり、民主主義から受ける恩恵の代償ともいえる。

しかし、「わたしが知らない芦部信喜を首相が知らないことは、別に非難するには及ばない」とするようなロジックからは、そのような覚悟や責任感は感じられない。むしろ、「自分が知らないようなことは、知る価値がない」とすることで、自分も自らを磨く道を閉ざしているように思える。

 では、なぜそう考えてしまうのか? 

 その方が、「楽」だかだろう。

けれども、その楽な道に安住していると、そうでない人との差がどんどん開いて行く。

しかし、それは困る。
自分と、政治家や首相も含めたみんなとは「平等」であるべきだ。
自分だけが「無知」では困る。

では、どうするか。
楽な道に安住したまま、政治家を含めた「みんな」と「平等」であるためには、「みんな」のレベルを自分のレベルまで引き下げればいいんだ。

その結果、
「首相(や政治家)はわたしたち庶民と同じ凡人でよい(それが民主主義だ)」というイデオロギー、思想傾向に至る。
もっと身も蓋もない言い方をするならば、「みんなで無知でいようぜ、楽だから」というメッセージだ。

つまり彼らにとって、政治家のレベルが低いことは好ましいことであり、むしろそのことを、無意識のレベルで熱望しているのだ。

 そう望む人が、改憲を進める安倍氏が憲法学を勉強していない事実に接しても、交代させようとしないのは当然だ。
幼稚な維新の会が54議席も獲得するのを眺めて、「庶民の味方が増えた」と喜ばしく感じても不思議ではない。

絶え間ない勉強と精進を放棄した人々が、TPPで被る自らの不利益を吟味することなく安易に賛成してしまうことにも頷けるし、ネット上に公開されている自民党の改憲案を読むことさえ面倒がるのも自然の道理だ。

もっと言うと、エーリッヒ・フロムが指摘したように、彼らは日本国憲法の下で「自由」な存在でいることの圧力に耐えかね、無意識ではあるにせよ、そこから逃走しようとしているのかもしれない。

そう考えると、わたしたちを不自由にする自民党改憲案は、むしろ彼らにとって望ましい「自主憲法」であるとも考えられる。

民主主義に「実」を入れる
 もしかしたら、日本人は民主主義を捨てたがっているのではないか。そのような疑念が、僕の頭を支配している。
少なくとも、自民党議員やその支持者の中には、捨てたがっている人が一定数いることは間違いない。

しかし、そうは望んでいない人たちが、日本社会の中にまだまだ大勢いる。

敗戦直後、日本国憲法という一種の「型」として与えられた民主主義は、問題はあるにせよ、今まである程度、有効に機能してきた。

しかし、下手をすると「外見はよく似ているけれども全く本質の異なる型」に簡単にすり替えられてしまう。
自民党の改憲案などは、まさにその典型だ。

 そうしたすり替えを防ぐためには、どうしてもそこに「実」を与えていくことが必要だ。

そのためには、水か空気のごとくわたしたちが享受している「人権」や「言論の自由」がそもそも何のためにあるのか、そして「国」や「憲法」とはいったい何なのか、改めて問い直す作業が必要なのかもしれない。
そうすることで初めて、偽物の正体を見破ることができるようになるのではないだろうか。

今ほど、わたしたちの「民主主義」が本当の意味で試されている時期はない。

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