2013年9月24日火曜日

長暦4/長久元年(1040) 祗園祭に際し天皇から馬長が提供される 長久の荘園整理令

江戸城(皇居)東御苑 2013-09-18
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長暦4/長久元年(1040)
3月17日
・イングランド王ハロルド1世(ハロルド・ヘアフット、位1035~1040)、没。
弟ハルタカヌート(ハーディカヌート、21才?、1019?~1042、位1040~1042、エマとカヌート大王の愛児デンマーク王ハースカヌート)がイギリス王を兼ねる 。
エマ皇太后帰国、復権
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6月
・この年から祗園祭に際して、天皇(蔵人所)から馬長(うまおさ)が提供されるようになる。
馬には小舎人(蔵人所の下級職員)童が騎(の)り、雅やかで工夫をこらした衣装を身にまとった。

平安京には造営当初から、官が行う賀茂祭(現在の葵祭)があって、4月の中酉日に、紫野斎院から出発する斎王の行列と内裏から出発する近衛使らの行列が一条大路と大宮大路の交差点で合流して、一条大路を賀茂社へと東へ向かって進んで行くのを、貴族から庶民までが見物をした。

賀茂祭は官が行う祭祀であったのに対して、平安中期に始まった祇園祭は成長してきた都市の庶民によって始められた祭りであった。
祇園祭は祇園御霊会とも呼ばれる。

御霊会は、元来、非業の死をとげた人々(早良親王、伊予親王など)が御霊となって疫病をはやらせると考えられていたのが、架空の外来の疫神である牛頭天皇に仮託されるようになったもの。
そして、10世紀から11世紀にかけて、洛外の深草・八坂・紫野などで疫神をまつる御霊会が行われるようになり、それぞれ稲荷祭・祇園祭・今宮祭へと発展していった。

これらの祭りは民衆によって始められたが、疫神をまつる神社を京内に置くことは禁じられていたため、祭りの間だけ、京内の御旅所に祭神を迎えて神事を行った。
祭りの後、祭神は洛外の本社へ帰っていくが、この帰って行く行列を人々は見物した。
紙園祭の場合は、三条大路・四条大路を祗園社へと東へ向かっていく。
稲荷祭の場合には、七条大路を稲荷社へと東へ帰っていった。

○祇園祭の変遷
祗園祭の名称は10世紀末にはみえる。
摂関期、6月14日(旧暦)に都市民を中心に御霊会が行われ、翌15日には摂関家や貴族が祗園社参詣と奉幣を行った。
そして、長久元年には天皇(蔵人所)から馬長(うまおさ)が提供されるようになる。

院政期、院が積極的に関与するようになり、6月14日の御霊会にも、内裏・院をはじめとする殿上人に馬長の提供が命じられるようになる。
翌15日の行事は、公家御奉幣による祇園臨時祭へと発展していった。

都を戦乱にまきこんだ保元の乱以後は、洛中の富裕な民家に馬上役を差し定め、その負担によって祭りの復興が図られた。

中世、祗園祭は、神人(祇園社)・馬上(民衆)・朝廷(馬長の復活)の三者が担当して運営された。

○祗園御霊会の行列
祇園祭の行列は、神様の行列である神幸行列と朝廷から献上される馬長の行列から構成される。
神幸行列は『年中行事絵巻』巻9にみえる。
田楽法師、乗尻(のりじり、騎手)、大幣(おおぬさ)、黒駒に乗る巫女と風流笠、舞人、獅子、御神輿三基、束帯姿の宮主(みやじ)、細男(さいのお、楽人)、神主などから成るが、官の祭りである賀茂祭が整然とした行列であるのに対して、秩序だっていないことが特徴。

朝廷から献上される馬長の行列は『年中行事絵巻』巻12にみえる。
大幣をかつぐ水干の男に続いて、馬長が進むが、綾藺笠(あやいがさ)には雉(きじ)の羽根に菖蒲の花が飾られている。
馬長には2人の口取(馬の口をとって引く人)が付き従っているが、風流笠を被っている。
供奉の雑色の姿もみえる。
『枕草子』第80段にも「心地よげなるもの」として「御霊会の馬の長(おさ)」があげられている。
ここに見える御神輿・行列・見物人というのがお祭りの三点セットで、祗園祭によって、その後の日本の祭りの原型が作られた。

祇園祭は院政期になるといよいよ盛んになっていき、『中右記』大治2年(1127)6月14日条には、
「祇園御霊会、四方の殿上人、馬長童・巫女・種女・田楽、各数百人、此の外、祗園所司僧(しよしそう)・随身数十人供奉す。舞人十人を唐鞍に乗らしむ。凡そ天下の過差(分不相応なぜいたく)、勝(あ)げて計(かぞ)ふ可からず。金銀錦繍、風流美麗、記し尽くす可からず。両院(白河院と鳥羽院)、按察中納言の三条室町の桟敷に於いて御見物すと云々」
とあって、その華麗な様相を描き出している。

院政期、都市民は、都市の中で「在地」と呼ばれる一種の共同体を築くまでに成長していた。
一方、院は都市民の主催する祭りを積極的に取り込んでいくことによって、都市民に対する支配を強めていった。

賀茂祭や祗園御霊会などの祭りは、次第に大きな存在になってきた都市民にとっては楽しみの場であり、一方、民衆のエネルギーを警戒する朝廷は、祭りの場に介入することによって彼らを統制していこうとした。
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この月、長久の荘園整理令。
後期王朝国家への転換始まる。

この荘園整理令が公布されるまでの経過は、『春記』(藤原実資の孫、資房の日記)によって判明する。
この時の荘園整理は、国司の申請にもとづき、諸国申請雑事として公卿が陣定で議し、その定文がまず関白頼通のもとへもたらされた。

頼通は、事前に後朱雀天皇と調整していたようだが、
「当任以往一両代(とうにんいおういちりようだい)以来の新立庄園等、長く停廃に従ふべし(中略)。格(きやく)後の庄園、停止(ちようじ)すべきの由、度々官符・宣旨有り。然れども一切停止なし(後略)」
と天皇に奏上している(6月3日)。
これまで格=延喜荘園整理令以後の荘園を停止せよという命令は何度も出したがまったくの空文であった。現在の国司より1、2代前からあとの荘園を停止としたらと述べる。

これに対して、後朱雀天皇は、
「庄園の事、一両代を指さば、後代の為に、その難在るベし。ただ近代以来の庄園、長く停止すべし」
(1、2代前から廃止しては後代に問題を残す。ただもっと最近の荘園は停止すべきだ)
という意見であった。

結局6月8日、
「庄園の事、国司申請するところ、その任以後の庄園停止すべきの由、申すところなり。請により、停止すべし」
(現在の国司の任期以後に新設された荘園を国司の申請により停止する)
という結論になった。

国司の当初の申請通り、「その任以後の庄園」を停止することとし、見逃がしたり停止しなかった国司は解任し、寄進した百姓は国外へ追放することが決った。

延喜の荘園整理令(902年)以後の荘園を停止せよという整理基準で、すでに何10年も経営されている荘園を停止するなど実効性は乏しい。
それが、長久の荘園整理令では、現在の国司以後に新設された荘園を停止するという大幅に引き下げた整理基準になった。
これは、前任国司までが認可した国免荘を正式に認可することを意味したが、荘園と公領の区別を明確にすることにもなった。

国司(受領)はその上に立って、しばしば火災にあった内裏を造営するための臨時課税を、荘園・公領を問わず、賦課することができるようになった。これを一国平均役(いつこくへいきんやく)と言う。

美濃国の大井・茜部荘(あかなべのしよう)ではこの年、
「今年、新たに宣旨有りと号して、已(すで)に先蹤(せんしよう)に背き、造内裏雑事ならびに防鴨河役及び臨時雑役を宛て課す所なり」
とあり、国司が寺領(東大寺領)にまで造内裏役をかけようとしている。
この長久元年の荘園整理令がその後の基礎となった。
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6月27日
・大地震。
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7月26日
・京都、伊勢に大風が吹く。
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8月
・伊勢外宮(げぐう)正殿等が倒壊したことをうけて、後朱雀天皇の言として、
「この国は是れ神国なり、本より警戒を厳せず、只神助を憑(たの)まるるなり」。ところが、末世となり神明の助けもなくなった、
との歎きが記されている。(『春記(しゆんき)』8月条)
氏神でありながら国家祭祀であり、そうした神々の助けにより国家が成り立っているとの考えがみられる。
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8月14日
・スコットランド、ダンカン1世(39、1001頃~1040、位1034~1040、16代、マルカム2世孫)、従兄弟マクベスによりマリ地方エルギン付近ストラスペファーで殺害。
マクベス、即位(35才?、1005?~1057、位1040~1057、17代、ケニス2世孫)。
ダンカン王の子マルコム・カンモー(後のマルカム3世)、イングランドに亡命。
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9月
・京極内裏が焼亡し、神鏡が溶解する。改鋳はせずに残片を唐櫃に納める。
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9月8日
・大地震。
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10月29日
・京で大地震。
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11月10日
・「長久」に改元。
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