2013年10月27日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(10)「フエンデトードス村」(5) 「拙者が御前に差し出し得るもの、そはわが両手のみにござりますれば」(宗教画家スルバラン)

ディエゴ・ベラスケス作『セビーリャの水売り』
*
当時の画家の状況(ゴヤ誕生=1746年3月30日までの状況)
ベラスケスの死(1660年8月6日):スペイン絵画の死
「・・・
一六六〇年八月六日に、ベラスケスが死んだ。そうしてベラスケスの死とともに、スペインの絵画は、一度死んでしまうのである。それは、もう二度と生きかえることはあるまい、と思われたほどに、ほとんど完全に死んでしまう。
・・・美術史は、フランドルの巨匠で、油絵の技術をはじめて開発したといわれているヴァン・エイクが、一四二八年から二九年にかけてアラゴン王国の招きで来訪したことなどを特筆している・・・。ヴァン・エイクは、実は画家としてブルゴーニュ王国の大使に扈従をしてサラゴーサを訪れ、そこで油絵の技術をスペイン人たちに教えたといわれている。この大使一行は、ブルゴーニュのフィリップ王のために、アラゴンの王女イサベルを嫁にもらいたいとてやって来たものであったから、ヴァン・エイクはおそらくこの王女の肖像画を制作して、その絵をもって帰ってフィリップ王に見せるためについて来ていたものであったろう。
画家の仕事は、要するに見合写真の制作にあった。その当時及びその後も、イタリアの影響、フランドルの影響、などが顕著であったことは言うまでもない。王家が、ウィーンのハブスプルグ家から来ていたこともあって、この国がつねに外国との関連において動揺し、あるいは安定するという歴史の定型は、美術の分野においても同じだったのである。」

16世紀:代表的画家3人は外国人
「そうして一六世紀に入ると、セピーリァが芸術の一中心となるのであるが、そこでも、おどろいたことに三人の代表的画家は、みな外国人なのであった。・・・
名をあげてみるとすれば、ペドロ・デ・カンパーニァというスペイン名の画家は、本来はブリュッセル生れの、ペーテル・ド・ケムプネルであり、他の二人は、オランダ人のフェルナンド・ストルム、フランス人のフランシスコ・フルテートである。
・・・芸術家というものが、要するに誇り高い旅芸人であり、河原乞食であったということも、つねに忘れてはならないのである。働けるところで働く、注文のあるところで仕事をする、仕事のあるところが彼らの祖国なのである。トレドのエル・グレコも、その名が語っているようにギリシャ人である。ヴァン・エイクもベラスケスも、要するに見合写真の写真師であったにすぎない…・‥。自己表現などということばは、彼らの語彙にはなかったものである。」

「ヨーロッパの芸術家たちにとって、ロシアを含む全ヨーロッパが仕事の場であったのであって、なにもそれは画家、あるいは絵師だけに限らない。メーリケに『旅行くモーツアルト』という小説があるが、彼らのすべては旅芸人であった。一七八六年にスペインを訪れたカザノヴァもまた、彼らのうちの一人である。ロンドンにおけるヘンデル、プラハのモーツアルトなど枚挙にいとまがない。学者もまた、ストックホルムにおけるデカルトなどを考えれば、芸人にかぎらぬ、ヨーロッパにおける文化担当者というもののあり方に眼がひらけて行く筈である。それを出稼ぎというのは、あたらない。それが彼らの仕事の仕方の、常態であったのである。前にも触れたように、まだ一九世紀以降に見られるような国民国家は成立していず、ヨーロッパとは、要するにキリスト教共同体であった。」

17世紀:ベラスケスの師匠バチェーコ、エル・グレコ、そしてベラスケス
「一七世紀に入って、セピーリァに一人の画家があらわれる。フランシスコ・パチェーコという名の人がそれで、この人がベラスケスの師匠であった。
そうしてトレドには、一六世紀の後半から一七世紀のはじめにかけて、ギリシャ人のエル・グレコがいた。グレコは、たとえギリシャ人として生れ、ベネチアで修業をして来たとしても、決定的にスペインの画家である。・・・」

「一六世紀から一七世紀にかけて、王制は、とにもかくにもととのって来た。マドリードの北の、荒涼たるグアダラーマ山脈中の盆地に、兵営と修道院と陵墓とをごっちゃにしたような無細工な、しかし広大なこと無類のエル・エスコリアールの離宮も出来、マドリードの宮殿とともに、そこでの画家の仕事が急増して来たのであった。全ヨーロッパから画家たちが呼び集められた。あるいは、全ヨーロッパから、画家たちがスペインへスペインへと流れ込んで来た。エル・グレコもまた、はじめはそのなかの一人であった。

そうして、ルイス・デ・モラレス、バレンシアにホセ・デ・リベラ、セピーリァにフランシスコ・デ・スルバランという、灰色とベージュ色との冥想の宗教画家が出て期を画し、つづいてカトリシズムというものの厳格さと怖ろしさを緩和してくれるかのようなムリーリョが出て来る。この画家は、カディスという港町で、修道院の天井画を描いていて足場から転落して死んだものであった。画家たちは当時、一種の高所労働者でもあった。ゴチック風教会や大聖堂の、あの気の遠くなるような天井の高さは、まことに怖るべきものであった。なまなかな芸術家などにつとまる労働ではなかった。
またセピーリァにファン・デ・パルデス・レアール、グラナダにアロンソ・カーノ、そうしてついにベラスケスが登場するのである。」

スペイン絵画の黄金時代:
エル・グレコの死に始まる、ベラスケスを中心とする100年ほどの間
「それは、ほんとに短い、一〇〇年とちょっとほどのあいだのことにすぎない。
そこに時代と地域というものの不思議さ、人間の営為の勢いというか、あるいははずみというか、歴史のいわば集中熱度のようなものが、きわめて短時間のあいだに露頭して来るのである。たとえば、絵に例をとるとして、ベネチア派と呼ばれているものにしても、一四〇〇年生れのベルリーニあたりからはじまって、ジョルジョーネ、カルパッツィオ、ティツィアーノ、ティントレットなどをその間に生み出して、ヴェロネーゼで大体おしまいになる。その間せいぜい一五〇年くらいのものである。また音楽に例をとるとしても、ドイツ音楽ではバッハあたりから数えて行って、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルトなどをあいだに含めても、やはり一五〇年から二〇〇年くらいのあいだのことである。古典音楽といっても、われわれはこの一五〇年から二〇〇年ほどのあいだの所産を、くりかえしくりかえし聞かされているということなのである。
スペインにおいての、この集中度の濃い時期が一七世紀に来た。グレコは一六一四年にトレドで死ぬのであるが、その死をうけて黄金時代がはじまったと言っていいであろう。
眼によって、視覚によってのスペインの発見がはじまった、と言ってもいい筈である。」

ベラスケスの作風
「ベラスケスの作品は・・・
彼のタッチの見事さ、それはもう言うまでもないところである。・・・画面にぐっと眼を寄せてみれば、それはまことに荒っぽいといってよいほどの筆運びであり、しかも距離をおいて、全体が眼に入るところまで後退をしてみれば、その荒っぽいタッチは、実にまばゆいばかりの細部表現となる。距離による形態表現の魔術は、まことにことばを越える。
けれども、これらの同じ絵を、何度も何度も見ていると、しまいには、奇妙な錯覚、あるいは疑問にとらわれるのである。
それは、ほとんど全的な、彼の主観性の欠如というところから出て来るものと思われる。言うまでもなく、そうあったからこそ、澄明な知的静謐さが表現される。・・・この知的静謐さ自体に、次第に人は耐えられなくなって来るのである。ものを見るということは、見ることに耐える、あるいはまた、見る対象に見られることに耐えるという営為を含むものでなければならないであろう。」

「しかもこの人は、当時としても不思議なことに宗教的テーマには、あまり心をひかれなかったのであるから、ますます謎は深まって来るのである。
その謎を解く鍵は、・・・それは、おそらく彼の人柄にしか求めえないものであろう。
たとえば彼とほとんど、あるいはまったく同時期に活動をしたレンブラントと比べてみる場合、その対比、対照は、まことにきわだったものとなる。
レンブラントは、その仕事においても生活においても、つねに奮闘努力をした。悪戦苦闘をした、と言ってもいいであろう。・・・彼の作品は、どの分野のものでも、ペン書きのデッサンでも、みな、おれはレンブラントだ、と主張をしているのである。」

宮廷式部長官ベラスケス
「同じ時期に、ピレネーの南の都にいたベラスケスは、まったくこれと反対である。一六二三年、二三歳のとき、オリバーレス公爵の推挙で宮廷入りをして以来、この宮殿の地階にアトリエをもち、そこに住んで、以後一六六〇年にマラリアと過労からの死を迎えるまで、表向きには何の波風もないのである。その死は、画家の死では、まずなかった。

・・・この画家が・・・カンバスからもパレットからもはなれて、まったく気にしないで世の雑務に従事出来るという人であったのである。
その世の雑務なるものが、これが宮廷の式部職であり、晩年は Aposentador Mayor なるもの、つまりは式部長官に任じられて、宮廷内のこまごました雑務の一切をとりしきっていたのだから大変である。王と王妃の信頼がなければならず、また実務の処理能力がなければつとまる筈がない仕事である。このアポセンタドールということばは、文字通りに解すれば〝宿舎割当て人〞ということである。要するに宮廷が離宮などへ移動をした場合の、数百人の貴族を含む扈従どもの部屋割り係りである。これは、おそらく恐ろしく面倒な仕事であったであろう。そうして彼は宮殿の、ありとあらゆる扉と錠をあけうるマスター・キイの保管責任者でもあった。これは、たいへんな責任である。もしこのマスター・キイがなくなれば、全部の鍵を自費でつくりなおさねばならない。」

「また宮廷のあらゆる儀式、祭典などの準備をし、その指揮をも行わなければならない。また宮廷や、マドリードの二つの宮殿以外に四つあった離宮の装飾のための絵画彫刻の制作、外国からの購入も監督しなければならない。外国人芸術家や来訪する種々様々な芸人たちの面倒をみてやらなければならない。
とにもかくにも、これはたいへんな劇務劇職である。・・・
もちろん彼は、はじめから式部長官などになったのではない。はじめは宮廷画家兼業のただの下級役人にすぎなかった。けれども、宮廷へ入って五年目の、一六二八年には早くも式部職として、来訪したルーべンスを王に紹介する役目をさせられている。しかもなお貴族待遇をうけることがない。たとえば宮廷主催の闘牛が興行された際の彼の席は、前列から四列目、宮廷の道化師や矮人などと同列の待遇であった。彼の傑作『宮廷官女図』に画家とともに描かれている、道化師や矮人と同じ処遇をうけていたものであった。」

「真理を描いた人」ベラスケス
「いまからほんの三〇〇年あまり以前の宮廷において、せむしの矮人(彼の絵で言えば、『セバスティアン・デ・モーラ肖像』)、あるいはバカ、白痴の道化(俗称『コリアのエル・ボボ』)などが、貴人たちの眼と耳をたのしませうるものとして、犬同様に飼われていた・・・
・・・
そうしてベラスケスの描いた、この二枚の、矮人と白痴の肖像画のもつ客観性、没主観性もまた、それらのバカや矮人のしぐさを眺めてたのしんだという当時の宮廷人同様に、なかなかに理解しがたいものである。人間のすること為すことの、その広さと深さは、まことに人間大、あるいは同じことであろうが宇宙大である。
ベラスケスは、これらの矮人やバカを、しかも王や王妃、王女、親王などと、まったくかわらぬ客観性において描いている。そこにいかなる差別もありはしない。・・・彼の郷里のセピーリァにある銅像には、「真理を描いた人」という銘がついているが、ともあれ式部職をかねていて、いったい絵を描く暇がどのくらいあったのか、と疑われるほどである。絵筆の運びは、スペインの画家のおおむねがそうであるようにすこぶる早かったようである。しかもなお描かれた対象は、地位の高下を問わずに、まことに無類の知的澄明さのなかに凝結、あるいは氷結している。彼の”真理”は飛翔力のある空想をまったくともなわなかった。」

「・・・べラスケスについて言えば、彼は何度も何度も王に向って何年間かにわたる画料を払ってもらいたい、式部職としての給料を払ってもらいたいと要求をしているが、王は、小刻みに年賦払いにしか払わない。王に、事実、金がなかったのである。黄金時代の台所は、苦しかった。国費の一〇分の一を内廷費につかっていても、それでも金がなかった。

彼が死んだときの、前述した過労とは、これはスペインとフランスとのピレネー平和条約の締結後、一六六〇年の六月七日、国境のビダソア川のなかの、両国にかかる小島フーザン島で両国王が会見して、スペイン王フェリーペ四世が娘のマリア・テレーサをルイ一四世の王妃にすることとした、その際の式部長官としての大奮闘に由来したものであった。彼は、余興の芝居の演出やら、役者どもの世話までをさせられたものであった。」

拙者が御前に差し出し得るもの、そはわが両手のみにござりますれば(スルバラン)
「しかし、ベラスケスはやはり、画家としても役人としても、まずは仕合せな生涯を送ったと言わなければならないであろう。彼とまったく同時代人であった宗教画家のスルバランなどは、絵の注文のあった修道院にあてて、次のような手紙を送っている。

されば拙者儀、仕事に必要なる者共を引具して参上致します故、貴修道院におかせられては、拙者等仕事の継続致します期間、なにとぞ食糧、飲料、屋根、寝台ならびに、画業に必要なるもの、すなわち画布、顔料、油その他のものを御提供頂きたく存じます。如何となれば拙者が御前に差し出し得るもの、そはわが両手のみにござりますれば。

・・・
大方のところで言うとして、これが一七世紀頃の、画家というものの社会的、あるいは経済的なありようであったのである。芸術家などというものではありえなかった。」
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