2013年10月31日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(55) 「三十一 陋巷での安らぎ」 (その1) 「濹東綺譚」の序文としての「寺じまの記」

江戸城(皇居)東御苑 2013-10-31
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玉の井通いが始められた昭和11年4月21日夜、浅草から玉の井を歩き、翌22日、「玉井の記をつくる」と書く。
「中央公論」昭和11年6月号の「玉の井」
(のち昭和13年7月作品集『おもかげ』が岩波書店より刊行されたとき、「寺じまの記」と改題されて収録)。

この「寺じまの記」は「濹東綺譚」の序文といっていいような随筆。
春のある夜、荷風は浅草から黄色い車体の京成乗合自動車に乗って玉の井に出かける。京成のバスは浅草郵便局前(現在の雷門横、浅草プラザホテルのあたり)から出て、玉の井7丁目の玉の井車庫前までを走っている。
荷風は女車掌に、「人前を憚らず」に「玉の井の一番賑な處でおろしてくれるやうに」頼んでバスに乗った。
「人前を憚らず」とはいうまでもなく、これから玉の井に遊びに行くということを誰に遠慮することなくバスのなかでいっているということ。すでに世捨人のような自分には世間的遠慮などいらない。
「濹東綺譚」の言葉を借りれば、「謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないやうになってゐるから、今では結局憚るものはない」

無論、当時の荷風が文壇的には過去の作家と思われていたものの著名人であることには変りはなかったのだから、こういう世捨人的発言は、やつしのポーズである。
玉の井という別世界の陋巷に出かけるには、こういうやつしの儀式、手続きがまず必要だった。
それは「濹東綺譚」の冒頭で、「わたくし」が派山所の巡査に呼びとめられ、いかにも世を捨てた無用者であることを強調する手続きと似ている。
玉の井という隠れ里に行くには、まず現実の衣裳を脱ぎ捨てなければならない。
「濹東綺譚」の「わたくし」は、玉の井に行くときは、古ズボンに古下駄、髪には櫛を入れず、煙草は必ずバットと、身をやつし、変装する。そして玉の井から家に帰ると、顔を洗い髪を掻直し、香を焚く。

このやつしの手続きは、山の手の人間が場末の町に入るための特権的行為というより、現実の世界にいる人間が、夢の世界、幻影の町に入って行くための儀式と考えたほうがいい。
荷風にとって玉の井はあくまで夢の町、ユートピアである。

雷門から出発したバスは、吾妻橋を渡り、源森橋、須崎町、弘福寺前、大倉別邸前、地蔵坂、と現在の墨堤通りを北上。そして白鬚橋(荷風は「白髯橋」と書く)のたもとを右折、大正通り(いろは通り)に入って、東武鉄道の踏切を越え、向島劇場前を過ぎ、終点の玉の井車庫前に着く。
玉の井で「一番賑な處」である。
荷風は、そこで降り、大正道路の東南に広がる私娼街に足を踏み入れる。
「濹東綺譚」のヒロインお雪の住む寺島7丁目である。
娼家の窓から女が「チヨイトチヨイト旦那」と声を掛けてくる。
その様子を見ながら荷風は、若い頃に遊んだ「昔の吉原」のことを思い出す。「わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない」。

「玉の井は、荷風にとって失なわれた過去を追慕させる町になっている。ここでは過去は、いまここにないという点で夢と同意語である。」(川本)

「荷風にとって濹東は文人趣味を満たしてくれる場所でもあった。」(川本)

なによりもまずそこは、「濹東綺譚」の「作後贅言」にあるように、荷風が愛してやまなかった成島柳北が、幕府瓦解のあと、下谷の屋敷を引き払い、別荘(「松菊荘」)を構えたところだった(向島須崎村、牛嶋神社の近く)。
柳北の家の隣りには、「濹東綺譚」のなかで、玉の井への車中でその著を読むという依田学海の家があった。
さらに玉の井の近くにある白鬚神社には、荷風の母方の祖父、儒学者の鷲津毅堂の詩碑があった。毅堂伝「下谷叢話」には「明治十六年十月毅堂の門人等が先師の名を不朽ならしむるため、石碑を向嶋白鬚神社の境内に建てた。碑の篆題は三條實美が書し、文と銘とは三嶋中洲が撰した」とある。
荷風は濹東散歩の途中、しばしば白鬚神社を訪れている。

昭和11年11月9日には、玉の井の帰りに神社に寄って毅堂の碑を見ている。
「又歩むこと一町ばかり、白髯明神の祠後に出づ。鳥居をくゞり外租父毅堂先生の碑を見る。大正二三年の頃写眞機を弄びし時この碑及び白髯の木橋を撮影せし事ありき」。
また荷風は気づいていなかったが、白鬚神社には荷風が愛した『林園月令』の著者館柳湾の詩碑さえあった。

「荷風にとって濹東とは、成島柳北、依田学海、鷲津毅堂という敬愛する江戸文人ゆかりの地なのである。」(川本)

さらに加えれば、ここには榎本武揚の別邸もあったし、幸田露伴の蝸牛庵もあった。
淡島椿岳、寒月の親子もまた向島と縁が深い。
「濹東はいわば旧幕臣の”文化村”であった。」
だからその一角にあった玉の井への想いはいっそう深くなったのである。

路地を歩きながら、荷風はゆったりと幻影のなかに身をひたしていく。
現実には「ドブと便所と消毒液の匂い」(前田豊)のする場末の私娼街が、荷風にとっては夢の里に変っていく。
荷風は現実の玉の井を見ながら、実はその背後にある見えないもの、失なわれたもの、消えていったものを幻視しようとしている。生まの現実を通して、美しい抽象を見ようとしている。

三島由紀夫の言葉を借りれば、「一番下品なことを一番優雅な文章で、一番野鄙なことを一番都会的な文章で書く」という姿勢から「濹東綺譚」は生まれている(座談会「荷風文学を裁断する」「文藝」臨時増刊「永井荷風読本」)。

荷風には玉の井の女たちも好ましく見える。
女たちの表情は「朴訥穏和」。
日蔭者の自分から見れば「知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしには寧ろ厭ふべき感情を起させないと云ふ事ができるであらう」。
女たちに親しみを覚えた荷風は、ある女に呼ばれるままに家に入り、そこで一憩する。そして女と、町のことなどよもやま話をして、再び家を出て、路地の町を歩く。道なりに路地を出るとそこは浅草に通じる改正道路(現在の水戸街道)。
通りを玉の井から雷門を過ぎ、谷中をまわって上野に出る乗合自動車が走っているのに気づき、荷風はそのバスに乗って浅草へと戻る。

この随筆「寺じまの記」を読むと、荷風にとって玉の井が現実とは別のところにある夢の里、幻影の町だったことがよくわかる。
それは、隅田川という川を渡った向こう側にある異界である。
暗がりのなかを抜けて行くと、突然、そこに光にあふれた歓楽郷があらわれる。
玉の井は、川の向こう側に不意に隠れた姿をあらわす小さな別世界なのである。
そのことは、この随筆が、浅草を起点とし、最後また浅草に戻ってくるという構成を取っていることからも推察出来る。
いわば玉の井は、浅草という現実の額縁のなかにある絵、虚構なのである。

最後の一行、「河向に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時・・・」はその意味で実に効果的だ。
浅草に戻ってきて時計を見る。それはちょうど夢から覚めて現実に戻った感覚に似ている。時計を見て荷風は再び現実に引き戻される。とすれば、いままでの出来事は夢か幻だったのか。

この「寺じまの記」を序章として読めば、「濹東綺譚」が決して花柳小説の変型でもなければ恋愛小説でもなく、一篇のユートピア小説、隠れ里探索譚であることが見えてくる。
それは花柳小説よりもむしろ泉鏡花の「高野聖」のような夢物語に近い。
お雪は現実の女というより、雨と雪とともに忽然とあらわれた夢の女、水の精であり、「濹東綺譚」の言葉を借りれば、「お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミユーズである」。
彼女は時計の針が現実の時を刻めば、はかなく消えてしまわざるを得ない。
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(つづく)

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