2013年10月12日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(84) 「第9章 「歴史は終わった」のか? -ポーランドの危機、中国の虐殺-」(その8終) ポーランド労働者の「連帯」への不信任、と美化された作り話

北の丸公園 2013-10-11
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世界の”搾取工場”
中国を世界の”搾取工場”、すなわち地球上の殆どの多国籍企業にとって、下請工場を建設するのに適した場所へと変貌させたのは、まさにこの改革によるものだった。
中国ほど好条件の揃った国はなかった。
低い税金と関税、賄賂のきく官僚、低賃金で働く大量の労働力。
しかもその労働者たちは残忍な報復の恐怖を体験しており、適正賃金や基本的な職の保護を要求するというリスクを冒す恐れは、長年にわたってないと考えられた。

まるでコーポラティズム国家そのものだ
外国資本と共産党にとって、これは双方にメリットのある取り決めだった。
2006年の調査によれば、中国の億万長者の90%が共産党幹部の子息だという。
こうした党幹部の御曹司(「太子」)約2,900人の資産は2,600億ドルにも上る。
まるで、世界に先駆けてピノチェト政権下のチリで誕生したコーポラティズム国家そのものだ。
企業エリートと政治エリートが相互に乗り入れ、力を合わせて政治勢力として組織化された労働者を排除するという構図である。
江暉は、
「今日の市場社会が作られたのは一連の自然発生的な出来事の結果ではなく、国家による介入と暴力の結果なのだ」
という。

共産主義独裁政権とシカゴ学派の資本主義の戦術はよく似ている
天安門事件は、共産主義独裁政権とシカゴ学派の資本主義の戦術がよく似ているということを明らかにした。
両者とも、反対派を消滅させることも辞さず、あらゆる抵抗を一掃したところに新しいものを導入しようとする。

フリードマンは天安門事件を非難するが、中国を称賛し続けた
天安門事件は、フリードマンが中国政府当局者に対し、国民に不人気な痛みを伴う自由市場改革を推進するよう助言してから1年にも満たないときに起きている。
しかし、彼は、「これほど邪悪な政府に進んでアドバイスしたことで、嵐のような抗議を受けること」はなかった。
そして、これまでと同じく、彼は自分が与えた助言とそれを実行するために用いられた暴力との間に関係があるとは、いっさい考えなかった。
中国政府による弾圧を非難しながらも、フリードマンは事件後も中国を、「繁栄と自由の両方を促進する自由市場改革の取り組みの有効性」を示す例として称賛し続けた。

ポーランドと中国:ショック・ドクトリンの異なる研究事例
天安門事件が起きた1989年6月4日、ポーランドでは選挙で「連帯」が圧勝した。
この二つはショック・ドクトリンの非常に異なる研究事例となった。
ポーランドと中国はともに、自由市場改革を推進するために「衝撃と恐怖」作戦を必要としていた。
中国では、国家が恐怖、拷問、暗殺という手荒な戦術を用いた結果、市場の観点からは文句なしの大成功を収めた。

ポーランドでは、経済的危機と急激な変化というショックだけが利用されたが、ショックの影響は次第に薄れ、中国より曖昧な結果に終わった。

ポーランド国民の60%が重工業の民営化に反対
ポーランドのショック療法実施は、選挙後ではあったが、内容は「連帯」に投票した大多数の有権者の望みとは正反対のもので、民主的プロセスを踏みにじるものだった。
1992年になっても、ポーランド国民の60%は重工業の民営化に反対していた。
サックスは、政策が不人気であることについて、他に選択肢はなかったと弁解している。
「緊急救命室に運び込まれた患者の心臓が止まってしまったら、医者は傷が残ることなど考えずに、ただちに胸を切開するだろう。重要なのは、患者の心臓がまた動き始めるようにすること。血まみれにはなるが、それ以外に選択肢はない」

ショック療法が不況を引き起こし、失業率は高止まり
ポーランドにおけるショック療法は、サックスが予告したような「一時的な混乱」ではなく、本格的な不況を引き起こした。
改革の第一弾から2年の間に工業生産は30%落ち込み、財政支出の削減と安い輸入品の大量流入によって失業率は急上昇し、1993年には分野によって25%にも達した。
共産主義政権のもとでは、様々な残虐行為や苦難はあったとはいえ表向き失業ゼロだった国にとって、これは大きな痛みを伴う変化だった。
経済がふたたび成長に転じてからも、失業率は高いままで推移している。
世界銀行の新しい統計によれば、ポーランドの失業率はEU内で最高の20%で、24歳未満の若年層では、2006年の失業率は40%と、EU平均の2倍に及んでいる。
さらに、貧困ライン以下の生活を送るポーランド人は1989年に15%だったのに対し、2003年には59%に達している。
職の保護を損ない、日常生活のコストを高騰させるショック療法は、ポーランドを充実した労働法と寛大な社会保障を持ったヨーロッパの「普通」の国の一員へと導くことはなかった。
それはチリから中国に至るまで、反革命が勝利したあらゆる国々に生じた大きな格差へと通じる道だった。

ポーランド国民の「連帯」への不信と怒りは増大
この永続的な底辺層を生んだ責任者が、労働者の政党「連帯」だったという事実は、苦々しい裏切りであり、これによってポーランド国民の間に生じた不信感と怒りは今なお完全には消えていない。
「連帯」指導者たちは党のルーツが社会主義にあることを控え目に言う傾向があり、ワレサ自身、1980年には「資本主義体制を築く必要がある」ことがわかっていたと公言している。
これに対し、「連帯」の過激派で知識人でもあり、共産主義政権下で9年間投獄されていたカロル・モゼレフスキは、怒りをぶつける。
「資本主義構築のために刑務所に入るなど、八年半どころか、たとえ一ヵ月、いや一週間でも私には我慢できない」

「連帯」が政権を取って最初の1年半、労働者たちは、痛みは一時的で、ポーランドをヨーロッパの近代国家にするために通らなければならないステップなのだ、という彼らの言葉を信じた。
失業率が急上昇したときも、少々のストライキだけで、ショック療法の効果が現れるのを辛抱強く待った。
だが約束された回復が、少なくとも職という形では見られないことがわかると、彼らは混乱した。
自分たちの運動がもたらした生活水準が、共産主義政権下でのそれより低いなどということが、ありうるのか。
ある建設労働者(41歳)は言う。
「一九八〇年に連合委員会を設立したときには、(「連帯」は)俺を守ってくれたよ。でも今回は、助けを求めても改革のためには我慢しろと言われるだけだ」

労働者の我慢の限界
ポーランドが「特別な政治状況」に入って1年半後、「連帯」の支持母体である労働者たちの我慢の限界がきた。
1990年には250件しかなかったストライキは、1992年には6,000件以上に急増。
下からの圧力を受け、政府は民営化計画の縮小を余儀なくされる。
1993年(この年は7,900件近くのストライキが行なわれた)末時点で、ポーランドの全企業の62%は依然として公営のままだった。

ポーランドの労働者は、大規模な民営化を阻止したが、そのまま改革が続行されれば、事態ははるかに悪化していた可能性がある。
これらの工場が「非効率的」との理由で閉鎖され、大幅に規模を縮小されて売却された場合には、何十万という職が失われていただろう。

興味深いことに、ポーランド経済はこの同じ時期に急速に成長し始めている。
国営工場は非効率的で時代遅れだと切り捨てようとした人々は「明らかに間違っていた」と、ポーランドの著名な経済学者で「連帯」の元組合員でもあるタデウシュ・コワリクは指摘する。

「連帯」への不信任
ポーランドの労働者は、かつての「連帯」の同志たちに対する怒りを、ストライキ以外の方法を使って表現した。
自分たちが闘い取った民主主義を使って、選挙で「連帯」を決定的に叩きのめした。
1993年9月19日、「連帯」は敗北した。
選挙の結果、かつて共産主義政権を担っていた統一労働者党を中心にした「民主左翼連合」が議会の議席の37%を獲得。「連帯」は相対立する小グループに分裂し、労働組合系グループは得票率5%に満たず、議席を獲得することができなかったり マゾヴィエツキ元首相率いる民主同盟も得票率10.6%にとどまった。

ポーランド:美化された作り話
だがなぜか、その後も世界の何十という国々が経済改革の方法を見出せずに苦闘するなかで、ポーランドが辿った道のりの不都合な部分(多発するストライキ、選挙での敗北、政策の逆転)はないことにされてしまう。
ポーランドは、急進的自由市場改革が民主的・平和的に実施できることを証明するモデルとして奉られることになる。

移行段階にある国についての多くの物語がそうであるように、これはほとんど美化された作り話だった。
現実には、ポーランドでは民主主義が、街頭においても選挙においても「自由市場」を攻撃するための武器として使われた。

一方の中国では、規制に縛られない自由な資本主義への衝動が天安門広場において民主主義を打倒し、「衝撃と恐怖」作戦によって、現代史でも最大規模の収益をもたらすと同時に長期間継続した投資ブームが引き起こされた。虐殺からまたしても奇跡が誕生した。
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(第9章おわり)


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