2013年11月30日土曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(56) 「三十一 陋巷での安らぎ」 (その2終) 「河向に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時・・・・・・」

北の丸公園 2013-11-29
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昭和11年4月から5月にかけて玉の井を歩いた荷風が、さらに足繁く玉の井通いを始めるのは9月に入ってから。
9月7日
「言問橋をわたり乗合自働車にて玉の井にいたる」。
「今年三四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中にふと一軒憩むに便宜なる家を見出し得たり。その家には女一人居るのみにて抱主らしきものゝ姿も見えず、下婢も初の頃には居たりしが一人二人と出代りして今は誰も居ず。女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。年は二十四五。上州邊の訛あれど丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌、こんな處でかせがずともと思はるゝ程なり」

荷風は、この年のころ24、5歳の美しい私娼となじみになる。
玉の井に行くと必ず女の家を訪ねるようになる。
女と会った日には何度か例の、女との交情があったことを暗示させる「・」の印が日付の上に付けられている。

9月7日の「日乗」では・・・、
女が「外山」(外で客と遊ぶ)のあいだ、荷風が2時間ほど留守番までしている。
相当親しくなっているだけでなく、荷風は女から、気の置けない客として好ましく思われていたようだ(無論、荷風は女には身分は隠していたことだろう)。

9月13日
「言問橋をわたり秋葉裏の色町を歩み玉の井に至り、いつも憩む家に立寄るに、女は扁桃線(ママ)を病みて下坐敷の暗き中に古蚊帳つりて伏しゐたり。十一時頃まで語りてかへる。蚊の聲きくもむかしめきて亦おもむきありき」
蚊の音まで「むかしめき」て聞えるという。艶っぽい昔の江戸情趣にひたっているといえようか。

9月15日
「夜玉の井に往く。途中牛の御前祭禮のかざり物を見る。いつもの家にて女供と白玉を食す」
「この夜女は根下りの丸髷に赤き手柄をかけ、洒木綿の肌襦袢に短さ腰巻の赤きをしめたり。この風俗余をして明治四十年代のむかしを思起さしめたり」
夜、女の姿に「むかし」を思い出し、過去に遊んでいる。
「根下りの丸髷、総髪の銀杏返しは仇ツぼく見えてよきものなり」。
玉の井の私娼のむこうに、荷風は明らかに失なわれた「むかし」を見ようとしている。

9月19日
「電車にて向嶋秋葉神社前終點に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪ふ。構濱ちやぶ屋にゐたりしと云ふ女一人新に加りたり。雨降りてやまず。路地の中人の跫音絶え、家の中にて蚊の鳴く聲耳立つのみ。長火鉢圍みて女二人の身の上ばなし聞きて十時過に帰る」

9月20日
「今宵もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。驟雨濺(ソソ)ぎ来ること数回。十一時前雨中家に帰る」
この日から「濹東綺譚」執筆にとりかかり、約1ヶ月後の10月25日に脱稿。
その執筆のあいだも、しばしば「玉の井の女」を訪ねている。

9月21日
「三時過雨中昼間の玉の井を観察せむとていつもの家を訪ふ。女は新に立板なる桐の重箪笥と桑の茶棚を購ひ下座敷に据え附けたるところ。四十歳ばかりなる抱主と二人にてあたりを掃除しゐたり。(抱主は許可地外に住居するなり。)女は箪笥が九十圓茶棚が七拾圓、抱主より前借して出物を買ひたるなりといふ。六時過女は髪結に行くとて余の帰るを迭り六丁目角にて別れぬ」

10月1日
「夜銀座に出で食料品を購ひ玉の井に往きいつもの家に憩ふ」

10月4日
「去って濹東陋巷の女を訪ふ」

10月6日
「白髯橋東畔より京成バスに乗りて玉の井なるいつもの家を訪ふ。日は早く暮れたり。家には三ツ輪のやうなる髷結ひし二十一二才の女新に来り、また雇婆も来り、茶の間にて夕餉を食し居たり。主人も来りたれぽこの土地のはなしきゝて、七時頃車にて銀座に行き銀座食堂に飯して麻布にかへる」

「一般に狷介孤高と思われている荷風が、玉の井の家で別人のようにくつろいでいる。女にも心易く扱われている。いっしょに白玉を食べたり、女の身の上話を聞いたり、女に頼まれて留守番をしたりしている。いかにも荷風は楽しそうだ。この家では荷風は、ただ物好きな老人と親しまれていたのだろう。女の抱え主から玉の井の町の様子なども聞いている。まるで一家の一人のような扱われ方だ。」(川本)

「濹東綺譚」に「わたくし」がほとんど毎夜のように玉の井に通ってくる理由のひとつに、「鎚座丸ノ内のやうな首都樞要の市街に封する嫌悪」が挙げられているが、荷風にとっては、世間から私娼の街と蔑まれている玉の井のほうがはるかに気の安まるところだったのだろう。

「濹東綺譚」発表後
昭和13年12月11日
「薄暮玉の井を歩む。私服の刑事余を誰何し廣小路の交番に引致す。交番の巡査二人とも余の顔を見知り居て挨拶をなし茶をすゝむ。刑事唖然として言ふ處を知らず。亦奇観なり」
玉の井に足繁く通っているうちに交番(いろは通りにあった玉の井派出所)の巡査と親しくなってしまった。

昭和14年8月30日
久しぶりに玉の井を訪ね、諸事窮屈になりつつある時局にもかかわらず玉の井が相変らずのにぎわいを見せていることに喜んでいる。
「月よければ吾妻橋より車にて玉の井に至る。暫く来り見ざる中に新来の美女多く出でたり」
「いづこより集り来るや知らねどこの地の繁華毫も時局の影響を蒙らざるは寔(マコト)に喜ぶべきなり」

昭和15年には、偏奇館を引き払い、玉の井に移り住むことさえ考えている。
7月2日
「近来種々なる右翼團體または新政府の官吏輩より活版摺の勧誘状を送り来ること甚頻々たり。このまゝになし置く時は余も遂には浪花節語と同席して演説せざる可らざる悲運に陥るやの虞あり。余はこれ〔以上補〕余(ママ)はこれを避けんがため不名等なる境遇に身をおとさんと思立ち去月半頃より折々玉の井の里に赴き、一昨々年頃より心安くなりし家二三軒あるを幸ひ、事情を聞き淫売屋を買取りこゝに身をかくさんと欲するなり」

「わたくしはこの東京のみならず、西洋に在っても、賣笑の巷の外、殆その他の社會を知らないと云ってもよい」と「濹東綺譚」にあるように、若い頃から「賣笑の巷」を好んだ「遊民」荷風は、普通の家庭や市民生活のなかよりもむしろ、はじめから虚偽、虚構とされている遊里のなかのほうがはるかにくつろぐことが出来た。
「衰残、憔悴、零落、失敗。これほど深く自分の心を動すものはない。暴風に吹きおとされた泥まみれの花びらは、朝日の光に咲きかける蕾の花よりもどれほど美しく見えるであらう」(「曇天」)とかつて書いた荷風の敗残趣味が、玉の井という場を得て生き生きとよみがえっている。
実際、「玉の井の女」と白玉を食べたり、身の上話を聞いたりしている荷風は「無用の遊民」としていかにも楽しそうだ。
女に頼まれて留守番をしている姿など想像するだけで微笑ましい。気難しい高踏的文王の顔はみごとに消えている。

「余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば」(昭和11年9月7日)と自らうれしそうに書いているように、荷風は玄人の女たちと付き合うのが上手だったようだ。
築地の花街に一人暮ししていたころ(大正8年4月22日)には、朝から新富町の芸妓が3、4人、荷風のところに押しかけて来て、汁粉を食べたり唄ったりしてにぎやかに騒いだ。
荷風の家が若い芸妓たちのたまり場になっていた。
玉の井で、女たちの身の上話を聞いているのはこの延長であり、それは戦後、浅草のストリッパーたちの人気者になることにつながっていく。
通常の市民生活では、人嫌いで通っている荷風が、ひとたび遊びの町の女たちに囲まれると別人のようにくつろぐ。玉の井は、そういうくつろぎの場所としても荷風にとって小さなユートピアに思えた筈だ。

「濹東綺譚」のお雪には特定のモデルはないと秋庭太郎は『荷風外伝』でいっている。
「『濹東綺譚』のお雪は荷風の敵姫(アイカタ)をモデルにしたに相違ないが、その馴染みの娼婦一人をモデルにしたといふより、この色里の娼婦たちの誰彼を綯ひ交ぜて描写したとみるべきであらう」。
とはいえこの「玉の井の女」が重要なモデルの一人になったことは容易に察しうる。

「濹東綺譚」には、「日乗」の「玉の井の女」の記述と重なり合う部分が多い。
お雪が歯痛のために寝込み、蚊帳を吊って伏っているのは、「日乗」昭和11年9月13日の、女が扁桃腺をはらして蚊帳のなかで寝ていたという記述と重なる。
お雪が歯医者に行くので、「わたくし」が留守番を頼まれるのは、9月7日の留守番に対応する。
お雪が久しぶりに訪ねてきた「わたくし」に、「あなた。白玉なら食べるんでせう。今日はわたしがおごるわ」といってふたりで、水屋から買った白玉を食べるくだりは、「日乗」9月15日の「いつもの家にて女供と白玉を食す」から材を得ている。
「わたくし」がお雪の抱え主と顔を合わせてしまうくだりは、「日乗」9月21日と10月6日の、抱え主に会って話を聞いた事実と共通する。

「さらにお雪と「玉の井の女」のいちばんの共通点は、二人の女がともに荷風=「わたくし」に、くつろぎを与えていることだろう。」(川本)

このことは、玉の井ユートピア論を語るうえで重要なことに思われる。
「濹東綺譚」はその詩情、哀愁で評価されることが多く、それはそのとおりなのだが、同時に見逃せないのは、安らぎである。日だまりのくつろぎである。そこからユーモアさえ生まれる。
「わたくし」がうっかりお雪の抱え主と差し向かいになってしまい、「かういふ家の亭主と遊客との封面は、両方とも甚気まづいものである」と困惑するところなどは、木村荘八の”差し向かいの図”の効果もあって微苦笑を誘われるほど。

身をやつし、匿名の日蔭者となって玉の井の陋巷で、女と親しくなっていったとき、やがて60歳になろうとする荷風は、他では得がたい安らぎを感じた筈である。
色恋は無論あっただろうが、女の家で荷風は、それ以上に隠居のような気分になった。
世間的な窮屈な衣裳を瞬時脱ぎ捨てて若い女といっしょに白玉を食べる。
その市井のくつろぎが荷風にとっては、夢の中の出来事に思われたに違いない。

「わたくし」がお雪に会ったその日に、お雪の家でやさしくされ、「何だか檀那になったやうだな。かうしてゐると。箪笥はあるし、茶棚はあるし・・・」というのは、そういう隠居のくつろいだ気分をあらわしている。
「わたくし」の年齢は、「もうぢき六十」。二十六歳のお雪とは親子の隔りがある。二人のあいだに恋愛感情が生じたとは思えない。お雪が「わたくし」にやさしくしたのは一種親孝行のようなものだったのではないか。

「濹東綺譚」を恋愛小説と見て、「わたくし」との結婚を口にするお雪を「わたくし」が最後に”捨てる”のは男のエゴイズムだといった批判はその意味で的はずれだと思う。
お雪は、「わたくし」に安らぎを与えてくれる夢の女、「ミユーズ」なのであり、それは一瞬の夢とはじめから決定されているから、いずれ消えていかざるを得ないのだし、「わたくし」も最後には夢から醒めて現実に帰っていくしかないのだ。

「河向に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時……」。
夢の時間は、時計を見た瞬間に終る。
玉の井は荷風にとってそういう小さなユートピア、別世界だったのであり、「濹東綺譚」はそこから生まれた隠れ里探求譚である。
昭和12年4月、荷風が私家版『濹東綺譚』を出版したとき、出版元を「烏有堂」としたのは、そのためだったのだろう。
いうまでもなく「烏有」とは「全くない状態」のことであり、しかも「烏有堂」とは「ユートピア」を思わせる言葉でもあるのだから。


鏑木清方は、随筆集『明治の東京』(山田肇編、岩波文庫、1989年)所載の小文「歴史のある顔」で、明治の向島が江戸の文人たちの文化村になったとしている。

「明治維新と一緒に、東都は今までの江戸っ子ばかりの土地ではなくなって、新興勢力といえる薩長の大官小官、また諸国から新しい帝都を目がけて出て来たものが夥しい数にのぼって、東京は日に日に賑いを増して来た」「その時古い江戸人は長い橋を渡って、本所、深川へ退却するものが多かったということである。それかあらぬか、幕臣であった人だの、商人の隠居だの、向島に隠れ家をもとめた者がかなりあって、もっとずっと後、明治の中期には、ここが文人村の観を呈したことがある」
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