2013年12月28日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(88) 「第10章 鎖につながれた民主主義の誕生 -南アフリカの束縛された自由-」(その4) 「マンデラが釈放された1990年以降、南ア国民の平均寿命はじつに13年も短くなっている。」

北の丸公園 2013-12-24
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自由を獲得するための血の滲むような戦いが行なわれたにもかかわらず、なぜこんなことが起きたのか?
旧体制との間の譲歩に対して反対する草の根運動が、なぜ起きなかったのか?

「われわれは見過ごしてしまったんです - 肝心なところを!」(ウィリアム・グミード)
私はこの疑問を、ANC活動家の第三世代で、体制移行期に学生運動のリーダーとして街頭で抗議活動を行なったウィリアム・グミードにぶつけてみた。
「皆、政治交渉には注目していた」と、彼はデクラークとマンデラの首脳会談についてふり返る。
「何かまずいことがあれば、すぐに人きな抗議行動が起きた。ところが経済交渉の報告については、みんな専門的なことだと思い込んで、興味を持たなかったんです」。
ムベキが交渉を「管理的」なものであり、民衆の関心事ではないと規定した(チリの「専門化された民主主義」と共通する部分が大きい)ことも、これに拍車をかけた。
その結果、「われわれは見過ごしてしまったんです - 肝心なところを!」と、彼は憤激に声を震わせる。

「本当の戦いは経済にあった」
今日、調査報道ジャーナリストとして南アで高い評価を得るグミードは、この国の真の将来を決めたのはこうした「専門化された」会議だったことが次第にわかってきたという。
だが当時、それがわかっていた者はほとんどいなかった。
私が話を聞いた多くの人と同様、グミードも南アが体制移行期の間、ずっと内戦寸前の状態にあったことを指摘した。
黒人居住区には国民党から武器を提供されたギャングが跋扈し、警察による虐殺が相変わらず横行し、指導者の暗殺も後を絶たず、国全体が壊滅状態に陥る可能性があちこちでささやかれていた。
「あのときは政治のことしか頭になかった - 大衆行動を起こし、ビショ(デモ隊と警察との決定的な衝突が起きた場所)へ行って「ここから出て行け!」と叫ぶことばかり考えていました」と彼はふり返る。
「でも本当の戦いはそこにはなかった - 本当の戦いは経済にあったんです。自分があまりにも無知だったことが不甲斐ない。自分は政治的な経験を十分に積んでいて、すべての問題を理解していると思っていた。それなのにいちばん大事なことを見逃してしまうなんて・・・」"

新著『ターボ・ムベキとANCの精神を求める闘い』
以来、グミードはその失敗を埋め合わせようとしてきた。
私が彼と会ったとき、彼は新著『ターボ・ムベキとANCの精神を求める闘い』をめぐって南ア国内で巻き起こった、激しい論争のまっただなかにいた。
この本はグミードが当時、政治活動にかまけるあまり注意を怠っている関に、ANCの交渉チームがどのようにしてこの国の経済的主権を手放してしまったかを徹底的に暴くものだ。
「私にこの本を書かせたのは怒りだ」とグミードは私に語った。
「私自身に対する怒り、そして党に対する怒りです」

だが、違う結果になりえたかと言えば、その可能性はほとんどなかった。
パダヤキーの言ううように、ANCの交渉チームは自分たちがしていることの重大さに気づいていなかったのであれば、街頭で抗議デモを行なったところで大きな影響力があったとはとうてい考えられない。

「自分たちの政府ができるのだから、先々いくらでも修正できる」と考えていた
交渉が行なわれたこの重要な期間を通じて、南アの民衆は常に危機的状態に置かれていた。
マンデラが自由の身になるのをこの目で見届けた熱狂と、ANCの武装部門のリーダーで、マンデラの後継者として多くの人が期待を寄せていたクリス・ハニが暗殺されたことへの怒り ー その両方の間を目まぐるしく行き来していたのだ。
ほんのひと握りの経済学者を除けば、中央銀行の独立などという、通常でも眠気を誘われるような話題について議論しようとする人はいなかった。
ほとんどの人は、たとえ政権に就くにあたってどんな妥協を強いられたとしても、ANCがしっかり主導権を握ればそれは解消できるものだと思い込んでいたと、グミードは指摘する。
皆、「自分たちの政府ができるのだから、先々いくらでも修正できる」と考えていたのだ、と。

交渉によって民主主義そのものの質が変質してしまった
当時、ANCの活動家たちが理解していなかったのは、交渉によって民主主義そのものの質が変質してしまったという事実だった。
それによって、いったん自由を束縛する”綱”が南アをすっぽり覆ったときには、「先々」などというものは事実上なくなってしまったのだ。"

マンデラが釈放された1990年以降、南ア国民の平均寿命は13年も短くなっている
それでも政権に就いて最初の2年間、ANCは限られた資産を用いて富の再分配という約束を実行しようと努めた。
立て続けに公共投資が行なわれ、貧困層向けの住宅10万戸以上が建設され、数百万世帯に水道、電気、電話が引かれた。
だがご多分に漏れず債務に圧迫され、公共サービスの民営化を求める国際的圧力がかかるなか、政府はやがて価格を上昇させ始める。
ANC政権発足から10年経った頃には、料金を払うことのできない何百万もの人々が、せっかく引かれた水道や電気を利用できなくなった。
2003年には、新しい電話線のうち少なくとも40%が使用されていなかった。

マンデラが国営化すると約束した「銀行、鉱山および独占産業」も、依然として白人所有の四大コングロマリットに所有されたままであり、これらのコングロマリットはヨハネスブルグ証券取引所上場企業の80%を支配していた。

2005年には、同証券取引所上場企業のうち黒人が所有するものはたった4%にすぎなかった。
2006年には、いまだに南アの土地の7割が人口の1割にすぎない白人によって独占されていた。

悲惨きわまりないのは、ANC政権が500万人にも上るHIV感染者の生命を救うための薬を手に入れるより、問題の深刻さを否定するほうにはるかに多大な時間を費やしてきたことだ
(2007年初めの時点では、いくらか前進の兆しが見られるが)。

もっとも顕著にこのことを物語るのは、おそらく次の数字だろう。
マンデラが釈放された1990年以降、南ア国民の平均寿命はじつに13年も短くなっている。

*新しいサービスが利用できなくなった人のほうが利用できるようになった人より多いかどうかについては、南アでもさまざまな議論がある。
利用を絶たれた人のほうが多いことを示す信頼できる研究は、少なくともひとつある。
政府の発表によれば、水道を利用できるようになった人は900万人だが、この研究は水道が利用できなくなった人の数を1,000万人としている。
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