2014年3月26日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(29)「王立サンタ・パルバラ・タピスリー工場」(2) 「人々の視線が上をではなく、下を、あるいは人間相互を相対的に見はじめたとき、バロックも新古典主義も終っていたのである。」

アマギヨシノ 江戸城(皇居)東御苑 2014-03-25
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カザノヴァによるリヨンの絹織物産業の観察
「・・・一八世紀ヨーロッパ社会の、偉大な観察者であるカザノヴァ氏・・・

リヨンを富ましているものは、その趣味のよさと品物の安さで、流行はこの町に繁栄をもたらしている女神だった。流行は毎年変る。ある年に、新意匠だというので三〇フランもした布地は、次の年には二〇フランにさがる。ところが、この品が外国に送られると、買手はこれを最新流行の品として客に売るのである。リヨンの人たちは、趣味のいいテザイナーに高給を払った。これがかれらの秘訣である。品物の安さは、自由の精神をもった競争に由来する。したがって、自国に商業の繁栄を見ようとする政府は、白由に商売をさせておかねばならない。ただ、私利私慾の気持から一般の利害を害うなことをする不正だけを防止するように注意すればいいのだ。君主は天秤をささえ、臣下には、好きなようにそれをみたさせておけばいいのである。

なんという鋭い観察であろうか。・・・彼はほとんど初期資本主義の理論家のようにさえ見えて来る。・・・」

いったいスペイン人そのものは何をしていたのか
「スペインでは、事は、しかしこうは行かなかった。
王立の工場が外国人によって管理され運営され、・・・輸入品-密輸品とそれは同じことである-の販売が、ひろく外国人によって行われていた、となると、いったいスペイン人そのものは何をしていたのか、ということになる。・・・
貴族たちは、死ぬほど退屈をしていた。そうしてピレネー山脈の彼方から来るものに対して死ぬほどにもかつえていた。
一般庶民は、・・・”世界に冠たるスペイン”(Los Espanols sobre todos)・・・と口では威張りくさっていたが、内心の不安はかくし切れなかった。・・・あるイギリス人の観察者によると、「そこに外国人の彼らに関する意見を知りたいという普遍的な不安感が滲み出て来る」のであった。・・・」

リチャード・フォードの観察、歎き:
マドリードの鏡であるプラドを見るにつけても、なんとも嘆かわしいものは外国人の影響である
「(マドリードの中心の)プラド大通りは、やかましい、埃っぽいところで、その名(プラドは第一義的には牧場を意味した)にあたいする緑などは一つもない。要するにこの名はパリの天国、シャンゼリゼー(エリゼーの野)から借りて来たものである。花もなんにもありはしない。もしあるとすれば、小股の切れ上った女たちが自分でもって来たものである。・・・
プラドの光景は、まことに異様なものてある。・・・
マドリードの鏡であるプラドを見るにつけても、なんとも嘆かわしいものは外国人の影響である。彼らはことばでは外国人を軽蔑する、しかしその行いは、まったく矛盾している。彼らは自らを非スペィン化することにベストをつくし、彼ら自身の最大のメリットである筈の、スペイン人であることを、自殺でもするかのようにして破壊しようとしている。
スペインの最良の魅力は、彼らが彼ら自身であってくれることであるのに、ここでは貧しい、二流のイミテーションばかりであり、その故国でオリジナルなものを見ている外国人には、まったくうんざりさせられる。ピレネー山脈む越えて来る人々は、何か新しく、非ヨーロッパ的なものを見たいのてある。
ヨーロッパで失われ忘れられてしまったものを、もう一度スペインで発見したいと思う人は、されば決して裏切ることのない、下層階級が提出してくれるものに向わなけわはならない。彼らこそは、つねにナショナルでありつづけ、一〇〇パーセントのスペイン人であり、生き生きとして、人品卑しからぬものをもっているのである。」

「・・・これが書かれたのは、一九世紀の三、四〇年代なのだが、事態は、われわれが現在いる一八世紀の七、八〇年代と、そうも変化はなかったのである。ましてや、一八〇八年から一四年までの、ナポレオン占領軍と戦われた、実に血みとろの独立戦争を経ていて、なおかつこのさまであった。」

社会の上層部における、独自の文化の不在
「この抄訳でうかがわれるものを、たとえば文化論的に考えてみると、そこに二つの要素があるであろう。
一つは、社会の上層部における、独自の文化の不在である。他の西欧中心部の風俗へのイミテーションと同化のための努力は、スぺイン独自のものを消す作用をしていた。それはある程度まで、ヨーロッパのもう一つの辺境てある、ツァリスト・ロシアと同じ歩みをもつものであった。スペインにも、ゴーゴリのような諷刺作家はいたのである。けれども一九世紀に入って、ドストエフスキーやトルストイが出ることがなかった…・」

スペイン知識階級の成立:ルソーの自然に帰れは何を意味するか
「上層部に文化がなかったとすれば、貴族の世紀であった一八世紀から、ブルジョアジーの世紀となる筈の一九世紀へと入って行く、その間の文化変動期において、文化の根をどこに求むべきであるか。
すでにルソーの、自然へ帰れ、という発想もが、教会と異端審問所のきびしい穿鑿をのり越えて、知識階級には滲透している。左様、知識階級というに価するものも、すでに成立しているのである。
しかし、スペインの、とりわけてカスティーリャの高原、岩だらけ、ごろた石だらけの砂漠の初期のような自然のなかにあって、自然に帰れ、とは何を意味したものであったろうか。それはサンタ・パルバラのタピスリー工場のための下絵を描く仕事を課された、われわれの画家の課題でもあったのである。」

自然に帰れは、ある意味では、おのれの足許を見よ、ということで、それは(ナショナルな)現実を見よ、ということでもある
「・・・自然に帰れ、というルソーのテーゼ・・・、それは、ある意味では、おのれの足許を見よ、ということでもある。
おのれの足許を見よ、ということは、それは現実を見よ、ということでもある。歴史を遡って行って、フランス革命の源泉の一つに、フランス啓蒙思想中の、このことばを見出すとすれば、それは、おのれの足許を見よ、というふうに翻訳をされても誤りではないであろう。足許の現実とは、とりもなおさずナショナルな現実ということである。」

フランス革命もまた下層部から湧き上がって来たナショナルなエネルギーの爆発を意味したものであった
「一八世紀ヨーロッパの文化文明は、・・・ほとんどあらゆる部面において、ウルトラ・ナショナルな、あるいはまことにコスモポリタンな在り力をもっていた。
そういうものが、世紀末が近づいて来るにつれて力を失って行ってしまった。・・・フランス革命自体でさえが、社会の上層部にあった文化が力を失い、人々が足許の現実を見詰めた結果、下層部から湧き上がって来たナショナルなエネルギーの爆発を意味したものであった。国民軍の創設そのものがフランス革命の所産であった・・・。」

人々の視線が上をではなく、下を、あるいは人間相互を相対的に見はじめたとき、バロックも新古典主義も終っていたのである
「文化は、創出すべきテーマを失って来ていた。マドリードで、いかにラファエル・メングスがアカデミイの独裁者として威張りかえって、”パルナス山”の山頂から号令をかけていたとしても、アポロもヴィーナスもヘルキュレスもジュピターも人々は仰ぎみなくなってしまっていた。人々はパルナスや天空を、ではなく、ようやく足許を見はじめていた。メングス自身も後期には多く肖像画を描いていた。
人々の視線が上をではなく、下を、あるいは人間相互を相対的に見はじめたとき、バロックも新古典主義も終っていたのである。イテオロギーとしての新古典主義は、ハロックやロココ趣味の官能性に対して、古代の堅実かつ質素な生活を描き出すことによって、新たに台頭して来ていたブルジョアジーに、一つの新たな道徳観を与えることにあった。けれどもそのブルジョアジー自体の成長が、そういう堅実、質素な道徳観を乗り越えて行ってしまう。」
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