2014年5月4日日曜日

今この国はどこにあるのか 小林信彦(『朝日新聞』2014-05-03) : 「今年のゴールデン・ウィークは、戦後もっとも暗いゴールデン・ウィークだと、私は感じている。」

今この国はどこにあるのか 小林信彦(『朝日新聞』2014-05-03)

ずっと戦争の中にいた
少年がみた敗戦と戦後
新憲法素直に受け入れ

 今年のゴールデン・ウィークは、戦後もっとも暗いゴールデン・ウィークだと、私は感じている。

 安倍首相が列強国の一つになりたいと焦っている。テレビにうつる顔で、そう思えるからだ。現在の憲法の制約が外されれば、集団的自衛権の行使も一内閣の閣議決定によって強引に押し通せる。国民の声を聞く必要などない。

 これを<疑似戦時体制>というのだが、私は文字通り、<戦時体制>の中で育った。生れたのが一九三二年(昭和七年)だから、一九四五年の敗戦まで、幼少時、ずっと戦争の中にいた。敗戦は一九四五年の夏で、このとき、私は中学一年生だったから、生れてから<戦時体制>しか知らなかったともいえる。

 そういう時代の小学生の生活がどういうものかを少し記す。

 国技館(今の国技館ではなく丸い屋根のころだ)で菊人形の大会があった。菊人形を若い人は知らないだろうから説明すると、武士の人形などを菊でおおい、場内が黄菊一色で、その中をゆっくり見学するという見世物である。

 満州事変が始まったのが、私の生れる前の年だから、昭和十年代は日中戦争一色。私は小学校二、三年だったと思うが、オトナにつれられて両国橋を渡り、国技館へ行った。

 広い場内は日本の英雄・武士の菊人形がびっしり置かれていた。歩いてゆくうちに、動物が唸(うな)り声をあげているような気配が足元でする。気持が悪いので床を見ると、死にかけている中国兵が倒れて、ゼイゼイ息をしている。ごていねいに、これも菊人形であって、全身が上下していた。おそらく電気で動かしているのだろう。

 ショックを受けたので、今でも覚えているのだが、いくらなんでもやり過ぎだろうと思った。日中戦争の中で、この<死にかけた中国兵>は刺戟(しげき)が強すぎる。<戦時体制>というのは、たとえばこういうものである。

 太平洋戦争が始まると、靖国神社につれて行かれた。私の学校からは電車ですぐなのである。

 商人の子供である私は単純に戦争は勝っている(という風に新聞・ラジオで宣伝されていた)と思っていたので、神社の中に入って、びっくりした。

 左側に横長の海が作られており、アメリカの軍艦がヒョコヒョコ現れては、爆破され、海に沈んでゆく。神社の中が混んでいるので、人々が進まず、そのあいだ小学生たちは幼稚な海戦を眺める仕組みになっている。すでに映画の円谷特撮を見ている私にはもの足りないどころか、どうしてこんなチープな見世物を作ったのだろうと考えた。

 しかし、<戦時体制>の中にあっては、こうしたものも受け入れなくてはならない。ねじれたアメリカの飛行機の本物も、道の反対側に置いてあったと記憶する。中国から運んできたのだろう。

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 敗戦(<終戦>ではない)のとき、私は日本の男はすべて去勢され、女はすべてレイプされるといわれ、信じていた。

 私の敗戦が一向にドラマティックでないのは、盲腸をこじらせて寝ていたことと、敗戦が発表された時期による。戦時中でも夏休みはあるので、夏休みに入ったのは<本土決戦>の直前であり、夏休みが終ったときは<敗戦直後>であった。特殊爆弾というものは原子爆弾であり、疎開した新潟県では長岡市だけが焼き払われていた。

 ラジオも新聞も、中一の私たちに「嘘をついてすまない」とは言わなかった。学校へ行っても、教師は何も言わない。そのうちに米軍が進駐してきて、中学のある現・上越市に居すわった。米軍について怒りを覚えることはなかった。新しい憲法について、文化国家、平和国家をめざすという点も全く同感で、それは今でも変っていない。

 その後のことは、孫崎享氏の「戦後史の正体 1945-2012」(創元社)にくわしい。氏の描く戦後史は私の記憶する戦後史とほぼ重なっている。

 戦後の日本外交は、米国に対する「自主」路線と「追随」路線の戦いでした-と氏はまず記す。

 わかり易いことである。孫崎氏はイラン大使のときに、油田開発をめぐって、ハタミ大統領の訪日にこぎつけた。しかし、イランと敵対関係にあった米国は日本側に圧力をかけ、日本側は開発権を放棄することになった。

 この本は元CIA長官のW・E・コルビーが第二次大戦後にイタリアで行なった裏工作を記すと同時に、日本でもCIAが(一九五〇年代から六〇年代にかけて)自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供していたことが米国側の公文書によって明らかにされた事実を記している。そして、米国のやり方は六〇年安保までにだいたい出ているので、あとはその「応用編」に過ぎないとして、孫崎氏は実例をならべる。米国側にもライシャワー大使のようなユニークで優秀な人もいた。「沖縄返還」のきっかけを作ったのもライシャワー大使で、ロバート・ケネディを通じて、ケネディ大統領と協議をしていたのである。

 情けないことに「沖縄返還」に気をつかっていたのは米国側であり、佐藤栄作首相は「大変に慎重で」・・・「岸信介なども非常に慎重でした」と書かれている。さらに、ケネディ大統領の暗殺で、大統領はジョンソンに代り、ライシャワーの動きは大使辞任後も続いた。

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 池田首相とライシャワー大使の時代が日本の経済成長の黄金期だが、私自身は経済的余裕がまったくなく、小説と雑文書きに専念していた。外の世界は東京オリンピックのために忙しく動いていた。オリンピックの工事や渇水などのために、水道が時間給水になり、水を売る人間がきたのもこのころである。

 ふた付きのバケツの水一杯が百円したと思う。我が家は赤ん坊がいたので、粉ミルク用の水は給水時間に湯沸かしにとっておき、親子の入浴のために風呂の水をためて沸かせるようにしておいた。おことわりしておくが、四谷三丁目-外苑のすぐ近くでのことだ。

 家々には国旗がくばられ、町のあちこちに<オリンピックはテレビで見よう>という看板が立てられた。いま、ラジオを聞いていると、東京でオリンピックが行われれば、じかに観られると考えている中年以上の無邪気な人々が多いようだが、オリンピックはテレビでしか観られなかったのである。もっとも、四谷三丁目にいた時のことを思えば、周辺では、テレビ局、新聞社、ほかのヘリ
コプターによって、テレビの画面はぼやけ、うつらなくなっていた。六年後に、かりに東京でオリンピックが実施されるとしても、<新たに作られた近未来的な建造物>に充たされることは間違いない。しかし、それで<オリンピックは見られる>だろうか。

 私がずっと、二度目の東京オリンピックに反対してきたのは、以上のような体験からである。私のような保守的な人間は「二度と街殺しをすべきではない」と、生れながらの東京の人間の叫びをくりかえすしかない。

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「列強国」入りを望む政権の危うさ
 安倍政権が<列強国>になりたいと願うことから、東京でのオリンピックなどという騒がしいものが出てくる。すべては<列強国>になりたいという希望からだ。もちろん、こうした希望は自民党のみのものではない。民主党がみっともない政治(?)をダラダラと演じたので、自民党支持でもない国民が<経済の安定>を望み、こうした状態になったと考えてよいだろう。

今の政権の<列強国>入り志望を大ざっばに述べれば-

1 国防軍保持義務のために、憲法第9条を変える。

2 特定秘密保護法を作り、他国の軍隊と協力して海外でも戦争ができるようにする。

3 ODA(途上国援助)の軍事使用を緩和する。

4 集団的自衛権を行使するために、戦争反対の声を抑えるようにし、憲法に基本的人権の抑制を入れ、徴兵制の導入につながるようにする。

5 原発と核燃料処理サイクルによるプルトニウム保有で、未来の核武装にそなえる。

 経済から戦争が望まれるようになるのは、アメリカの例を見ればすぐわかる。軍事ビジネスの方向に進むために、安倍首相は異様なほど、テレビの画面に笑顔をさらす。テレビ局は、そのために力をそそがねばならない。

 男の子、若者を家庭に持つ人々は、彼らを戦場に送るのを避けなければならない。戦場に送られるのは、幼い私が見たように、彼らなのである。

 以上のことを防ぐ前に、原発を止めるのが必要である。東京オリンピック招致のプレゼンテーションで、安倍首相は福島の汚染水はコントロールされていると大うそをついた。そして、日本中の原発再稼働と原発の海外輸出を本気で考えている。

 経済産業省の役人も平気でエネルギー基本計画強化の方針を決めた。東京電力は国から助けられながら、二〇一三年度の中間決算を黒字と発表した。そして、今後の除染費用を国に負担させ、柏崎刈羽原発の再稼働を持ち出した。

-- ヒロシマ、ナガサキのあと、日本人がもろに被曝したのは一九五四年の第五福竜丸事件だった。この事件は当時の吉田政権をゆるがし、米国への批判が噴出した。

 日米で問題を収めようとした動きはあったが、しかし、反核の声は一九五四年以来つづいたものである。福島の原発事故でその声はいっそう高くなったが、ともすると、ないがしろにされることがないとはいえない。

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