2014年6月5日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(70) 「三十六 「門松も世をはばかかりし小枝かな」 - 戦時下の物資窮乏」 (その3終) 「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし」  

江戸城(皇居)東御苑 2014-06-04
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こういう軍部批判を日々書き記している日記が万一、当局の手に没収されたら容易ならぬ事態になることも考えられる。したがって、荷風は用心に用心を重ね、ある夜、「日乗」を自己検閲し、また、家を留守にするときには、下駄箱に隠すように心がけるようになった。

昭和16年6月15日
「余は萬々一の場合を憂慮し、一夜深更に起きて日誌中不平憤惻の文字を切去りたり。又外出の際には日誌を下駄箱の中にかくしたり」
大逆事件を目のあたりに見た荷風は権力に対して小心といえるほどに警戒している。権力を恐怖している。そして今日、国民が政府に従っているのも恐怖の結果であると書く。
「國民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。麻布連隊叛乱の状を見て恐怖せし結果なり」(同日)

しかしこの日、いままでは日記中の体制批判の箇所を削ったりして自己検閲していたが、今後は遠慮なく思いのたけを書くと宣言する。

この日、荷風はたまたま江戸時代の随筆作者、喜多村筠庭(インテイ)の「筠庭雑録」を読んだ。そこに俳人、其蜩(神沢杜口カンザワトコウ)の「翁草」についてのこんな文章を見た。
「ある日余彼菴を尋ねて例の筆談に余が著作の中にも遠慮なき事多く、世間へ廣くは出し難きこと有など謂けるに、翁色を正して、足下はいまだ壮年なれば猶此後著書も多かるべし。平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて實事を失ふこと多し」
荷風はこれを読んでこれまで日記に自己検閲を課していたことを恥じ、これからは思いのままに書き記すと決意する。

「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし」

そしてこの決意を裏付けるかのように軍事体制への痛烈な批判を書きつける。

昭和16年7月25日
「此夜或人のはなしをきくに日本軍は既に仏領印度と蘭領印度の二個所に侵入せり。この度の動員は盖しこれが為なりと。此の風説果して事實なりとすれば日軍の為す所は欧洲の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。人の弱味につけ込んで私欲を逞しくするものにして仁愛の心全く無きものなり」

9月3日
「日米開戦の噂しきりなり。新聞紙上の雑説殊に陸軍情報局とやらの暴論の如き馬鹿々々しくて讀むに堪えず」

荷風は激越に体制批判の言葉を書きつらねる。だがしかし、これはあくまでも日記のなかだけのことである。日記に書くことで「後世史家の資料に供すべし」というだけで、現実生活では黙して非常時に耐えるしかない。

昭和16年7月18日
「米は悪しく砂糖は少けれど罪なくして配所の月を見ると思へばあきらめはつくべし。世には冤罪に陥り投獄せられしもの尠からず。殊に火災保険の事に関し放火犯の疑を受けて入獄するものあるは屡聞るところなり。これに比すれば余が自炊気儘の残生はどよきものはなかるべし」

荷風は、文学報国会に加わることはなく、年齢からいって従軍作家になることもなかった。
時局のなかでただ沈黙を守り、市井の文士として不自由な日常を淡々とやり過ごしていた。
俳句や川柳で気をまざらすことはあってもその憂いは深いものがあったろう。

昭和18年1月1日
「日乗」にある「唯生きて居るといふのみなり」という一行はその意味で重い。

せめてもの慰めは、相変らずの下町歩きだろうか。
戦時下の昭和18年、19年にも、荷風はしばしば玉の井や浅草に出遊している。
戦時景気で案外玉の井がにぎわっているのに驚いたり、浅草の人出が以前とさほど変らないことに共感したりしている。

戦時下の下町歩きで荷風は面白いことを発見する。
下町のほうが、山の手よりも物資が不足していない。おそらくこれは下町には軍関係の工場が集中していたこと(そのために下町は昭和20年3月10日の東京大空襲の犠牲になる)。
それと、浅草が京成線と東武線によって千葉や栃木などの近所田舎と結ばれていたためだろう。

荷風は下町にまだ食料や日用雑貨が売られているのに気づくと、その買出しに出かけて行く。
町歩きが買出しになる。趣味が実益を兼ねるようになる。
独身の下町散歩者の生活の知恵といえばいいだろうか。
「家に在る時は炭の入用多くなればなり」(昭和16年1月2目)とあるように、外出したほうが余計な炭を使わずにすむという荷風らしい計算もあった。

昭和16年9月5日
「玉の井廣小路に鑵詰間屋あり。市中にはなき野菜の鑵語など此店に有り。小豆黒豆の壜詰もあり。其向側の薬屋には蜂蜜有り。北海道より直接に取寄せる由店の者のはなしなり。此日淺草にて夕飯を喫し鑵詰買ひに行きぬ」
玉の井の陋巷に思いがけず、まださまざまな缶詰を売っている店があった。そこで荷風は、ある日、浅草から玉の井へ、缶詰の買出しに出かけていく。

下町散策者の思わぬ発見であり、余得である。以後、荷風はしばしば下町に買出しに出かけている。

昭和16年9月18日
「水天宮門外に漬物屋二軒並びてあり。いづれも品物あしからず。人の噂に梅干もよき物はやがて品切となるぺければ今の中蓄へ置くがよかるべしと云ふに、今夕土州橋まで行きたれば立寄りて購ひかへりぬ」

昭和17年2月18日
「午後淺草向嶋散歩。實は場末の小店には折々賣残りのよき鑵詰あり又汁粉今川焼など賣るところもあれば暇ある時處定めず歩みを運ぶなり」

昭和18年1月17日
「淺草仲店にて蕪千枚漬を買ふ」

同年1月20日
「風静にて暖なれば今日もまた食ふものあさらむとて千住に行く。大橋のあたりには曾て軒並に名物の佃煮賣る店ありしが今は残らず戸を閉したり。葛餅賣る問屋のみ一軒もとの如く人々列をなしたり」

同年2月5日
「(浅草の)唯(ト)ある漬物屋に惣菜の筍賣るを見たれば購ふに百〆一圓なりと云ふ。余淺草邊を歩む時には必風呂敷に包みたる重箱を携へよさゝうな物あれば購ひかへるなり。漬物惣菜のたぐひは我家の近くよりも淺草邊の陋巷に却て味好きもの多し。玉の井中島湯の向側なる煮〆屋にも時々味よきものあり」

同年2月17日
「午後淺草より入谷を歩む。野菜煮〆を得んとてなり」

下町散歩の折りには、重箱を風呂敷に包んで持ち歩くというのも単身生活者の小さな生活の知恵だろう。重箱をかかえて浅草や向島、千住を歩いている荷風は、これはこれで随分楽しそうではないだろうか。

日々の食料品を買うために、暇を見ては、浅草、向島、玉の井、千住、入谷あたりの下町を歩く。どこも歩き慣れた町である。曾遊の地が、いまや買出しの地になる。それもまた一興、楽しからずや。
東京の下町をこんなふうに、日常の食料品の買出しの地と見た人間はおそらく荷風が最初だろう。今日私たちが上野のアメ横や、鳥越のおかず横丁、濹東の橘銀座に惣菜や乾物を買いに行く感
覚に似ている。

買うといっても贅沢なものではない。
無論、この時代、贅沢なものなどほとんどないし、そもそも荷風自身が高価な美味にこだわらない。食に関しては庶民派である。野菜の煮しめ、筍の惣菜、漬物が手に入ればそれでもう充分。なおそのうえ汁粉か今川焼が食べられれば甘党の荷風としてはもういうことはない。

昭和19年3月27日
「言問橋にて過行くバス乗客多からざればそれに乗りて玉の井に行く。京成鐡道線路跡の空地に野菜の芽青く萌出でたり。唯(ト)ある空屋敷の庭に蕗多く生じたれば惣菜になさむとてこれを摘む。食物なき時節柄とはいへ淺間しくもあはれなり」「旧道に出で白髯橋の方に歩む。電球屋にて電球一ツ懐中電燈を購ふ。又下駄屋にて下駄を買うふ。これ等のもの我家の近くにては皆品切なるにこの陋巷にては買手あれば惜し気なく賣るなり。此日の散策大に獲るところありしを喜びつゝ来路をバスにて言問橋に出づ」

昭和19年10月23日
「乗合自働車にて公園裏より白髯橋に至り梅若塚の堤を歩す。小工場激増したり。玉の井に至る裏町の荒物屋に土鍋はうろくなど麻布邊には既に賣り切れてなき物多く並べたり。焜爐の灰落し●(「木」へん+「夕」)子を買ふ」

かつて「濹東綺譚」の舞台となった色里がいまは物資調達の場になっているのが興味深い。
玉の井の空屋敷の庭で蕗を見つけ惣菜にしようとこれを摘んでいる姿は「淺間しくもあはれなり」といいつつも、どこか風雅の感さえある。これまでに何度も足を運んだ浅草や玉の井の陋巷で日常の必要品を買う。色里探索とはまた別の意味でこの下町散策は荷風にとって楽しい忘我の時だっただろう。

昭和16年1月1日のこんな言葉が思い出される。
「時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道つたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり」

この言葉を思えば窮屈で不自由な戦時下の暮しのなかで、下町への買出しだけは荷風にとって日だまりのような穏やかな時間だったと思う。

昭和20年3月10日の大空襲で、住み慣れた偏奇館を焼かれてしまう、あのクライマックスへ向かう戦時下の「日乗」のなかに、こういう穏やかな日々があったことは、読者にとってもかろうじての救いである。
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