2014年7月31日木曜日

明治37年(1904)9月25日~30日 ラフカディオ・ハーン(54歳)没 世界最大陸砲28センチ砲6門が旅順口砲撃 明石元二郎大佐の工作によりロシア反政府・革命派会議(パリ)

平川橋 2014-07-29
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明治37年(1904)
9月25日
・韓国、谷山民擾。黄海道谷山郡、京義鉄道軍役夫徴発反対。日本人7人殺害。
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9月26日
・ラフカディオ・ハーン(54)、狭心症のため没。

前年(明治36年)春、ラフカディオ・ハーンは東京帝国大学の講座を失う(後任に夏目漱石が入る。明治36年4月)。
欧米の新聞雑誌は、日本の最大の紹介者ハーンを遇する方法を日本政府は知らないと言って非難した。アメリカのコーネル大学からは1学期5,000円の報酬で講義の依頼があり、スタンフォード大学からも申込みがあった。
しかし、この年、ハーンは気管を痛め少し喀血したので、旅行は見合せた。
そのかわり、彼は講義の材料を書物(『日本』)にまとめることにした。それは謂わば日本の精神史と言うべきもので、家族制度、祖先崇拝など日本の固有の伝統を紹介して、仏教、儒教の伝来からキリスト教渡来の事情を述べ、更に日本の将来を論じたものであった。

この年(明治37年)春頃、『日本』の原稿がほぼ完成した頃、早稲田大学がハーンを教師として招聘しようとした。
早稲田大学の講師をしていた内ケ崎作三郎は、明治31年9月~34年7月、東京帝大でハーンの講義を聴いた学生であった。
ハーンが東大をやめたのち、彼が日本人の中で最も信頼していた東大法科の教授梅謙次郎博士が、彼を早稲田大学に招くようにと、学長の高田早苗に薦めていた。高田は坪内逍遥に相談して招聘を決め、内ケ崎作三郎を使いにやった。
内ケ崎作三郎は、東京帝大学生の時から、ハーンが客を好まぬことを伝え聞いていたので、私宅を訪ねた事がなかった。

内ケ崎が訪ねたハーンの西大久保の家は、古い家を買って妻の節子の案で建て増した純日本風の邸宅で、前々年の明治35年以来住んでいたもの。ハーンは内ケ崎の顔を覚えていなかった。
ハーンは、和服を着て座蒲団に正坐し、長煙管で煙草を吸いながら、懐から片目の近眼鏡を取り出して、一、二度内ケ崎の顔を眺めた。

話は順調にはかどり、ハーンは早稲田大学に出講することになった。
1週4時間、報酬は年2,000円であった。東京帝大では、1週12時間で、月俸450円であったから、早稲田大学の方がよい待遇であった。ヘルンは早稲田大学が気に入った。

ハーンには節子との間に子供が4人あった。
明治26年生れの一雄、30年生れの巌、32年生れの清と、前年(36年)に生れた長女すず子とであった。
未のすず子が生れたとき、彼は54歳。初めての女の子を喜びながらも、自分は年をとっていてこの子の行末を見てやることが出来ないだろうと欺いて、「なんぼ私の胸痛い」と妻に言った。

早稲田大学へ通い出した頃、日露戦争が始まっていたが、日本の勝利が伝えられる毎に彼は我がことのように喜んだ。
彼は戦時の日本人の態度を説明した「日本からの手紙」という長いエッセイを「アトランティック・マンスリイ」に発表、その中で「これまで日本を最もよく知ってゐる外国人でも日本の底力はよく分ってゐない。攻撃に反抗する力よりも攻撃に耐へ忍ぶ力が遥かに勝つてゐるかも知れない」と述べた。

この年9月19日午後3時頃、彼は突然狭心症の発作を起したが、迎えにやった医師が到着する前に狭心症の痛みは消えた。
しかし、26日、再度の発作を起こし息絶えた。

彼はアメリカにいた頃、新聞記者のかたわら、1882年に「クレオパトラの一夜、その他」を出版。以後、小説、紀行等で8冊の本を出していた。
日本に来てからは、「知られざる日本の面影」(明治27年)、「東の国より」(明治28年)、「仏土の落穂」(明治30年)、「異国情趣と回顧」(明治31年)、「影」(明治32年)、「日本雑録」(明治34年)、「日本お伽噺」、「骨董」(明治35年)、「怪談」、「日本」(明治37年)等がある。

彼の父、アイルランド系軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンは、ギリシャ在任中、ローザ・テッシマという女性と結婚して、ラフカデオを産んだが、数年後に離別した。ハーンの記憶にある母の面影は、髪が黒く小柄で、東洋の女性そっくりであった。彼が青年時代から東洋に強い関心を抱いていたのは、この母の記憶が原因であった。彼はその母の面影を小泉節子に見出した。彼は、母が父に棄てられたことを心の疵としていて、家庭を持ってからは、妻と子供を大切にし、抱え車夫を雇う時にも、妻を大切にする男であることを第一の資格とした。

ハーンの葬式は、西大久保へ移る前に住んでいた牛込区富久町の高台の家の隣にあった自証院という天台宗の寺で仏式で営まれた。この寺は通称を瘤寺と言って、ハーンが富久町に住んでいた頃、樹木の多いこの寺は大変彼の気に入っていた。墓は、ハーンが好んで散歩した雑司ヶ谷の共同墓地に決められた。
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9月26日
・林董駐英公使、近いうちに韓国の外交関係引受の措置を執るべき事を英外相に申し入れ。
外相諒解。
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9月28日
・奉天、ロシア満州軍司令官クロパトキン大将、南進決意。
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9月28日
・津田梅子・大山捨松、社団法人女子英学塾理事となる。
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9月28日
・徴兵令改正。後備兵役5年を10年に延長。
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9月28日
・啄木(18)、上京に先立って北海道行。~10月19日。
詩集刊行資金調達のため小樽の次姉トラ宅(夫山本千三郎は小樽中央駅駅長)等を訪問。トラが病床にあり、果たせず。

9月28日午後、渋民村発、青森県尻内に着。
29日、尻内~野辺地(下車)~青森に着。
30日、函館に着、谷地勘九郎宅に宿泊。
10月1日午後、海路小樽に向う。
2日、小樽着。北海道鉄道小樽中央駅駅長の義兄山本千三郎(姉トラの夫)宅に滞在。病気の姉の看病のかたわら、学校や小樽新聞社を見学。
10月19日、帰宅。

「生は去月末旬より三週間許り北海の秋色に旅して二三品漸く帰村した。渡島・後志(しりべし)・胆振(いぶり)の山また海、我をして送迎に遑なからしめたる蝦夷が島根の詩趣は我これを携へて、都門兄に逢ふの日の土産とせん。」(金田一京助助宛10月23日書簡)
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9月29日
・この日の遼陽軍司令部饗宴の席上において、鴎外は「ひくほまれ」という詩を朗読。

勝つ我を 勝ち足らはずと
外国(とつくに)の 人は罵(の)るとふ
引く敵(あた)を いしくも引くと
外国の 人は誉むとふ
・・・
をのこわれ 豈(あに)引かめやも
罵らえつつ 勝たんとぞ思ふ
勝ち足らふまで

鴎外が戦おうとしているのは、ロシア軍ばかりではなく、偏見を持って黄色人種の小国を眺めている欧米のジャーナリスト、黄禍論を唱える帝国主義列強の市民たちこそが、鴎外が「勝ち足らふまで」勝ちたいと思う対象であった。
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9月30日
・世界最大陸砲28センチ砲6門、旅順口砲撃開始。
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9月30日
・~10月5日(露暦9/17~22)フランス、パリ、ロシア反政府・革命派会議。
フィンランド積極抵抗党ジリアクスが明石元二郎大佐の資金で動く。
エス・エルのチェルノーフ、アゼフら出席。
明石大佐は2月よりストックホルムでロシア国内の情報収集・諜報工作に従事。
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