2014年8月30日土曜日

明治37年(1904)11月1日~13日 社会主義協会大演説会(田添鉄二・佐治実然・幸徳秋水) 石川三四郎「小学校教師に告ぐ」発禁  「共産党宣言」(幸徳、堺訳)発禁 剣南(角田勤一郎)の与謝野晶子弁護    

雨にぬれたムクゲ(竹橋) 2014-08-28
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明治37年(1904)
11月
・上海、光復会結成(蔡元培・秋瑾・陶成章・徐錫麟ら、暗殺団母体)。
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・黄興ら、長沙で挙兵を図って失敗。
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・吉野作造「大に黄禍論の起これかし」(「新人」)。日本が「満韓の主人」にあることの正当性。
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・小杉未醒『陣中詩篇』
1月、「戦時画報」特派員として朝鮮半島に渡り従軍、9月に帰国。
近事画報社に勤務しながら、従軍中に画帳に書きためていた詩を整理し、26編を選んで刊行。
従軍し、戦場を見た人間によるリアルタイムの反戦詩。
未醒の意図は「反戦」ではなかったかも知れないが、収録作品は赤十字病院を訪ねた折に作った作品や兵士らの望郷の念を読み込んだものが多い。
この詩集には自作挿絵が豊富に載せられているが、扉に掲げられた「戦後」というタイトルの絵は、戦死した兵士の死骸を喰らう狼もしくは野犬を描いたものだった。机上のィデオロギーではなく、冷徹な写実による「表現」を、この画家は持っていた。
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・この頃、安部磯雄、「資本論」翻訳に専念するとして平民社から遠ざかる。
翌年(明治38年)夏、早稲田大学野球部を率い渡米。
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・正宗白鳥「寂寞」(「新小説」)、坪内逍遙「新曲浦島」(「早稲田大学出版」)、綱島梁川「真理と人生」(「中央公論」)
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・ハンガリー首相ティサ、議会と対決し、反対派を力で抑圧したため国内の危機高まる)
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・マックス・ウェーバー、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」第1章を『アルヒーフ』第20巻に発表。
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11月1日
・ロシア・バルチック艦隊、ビーゴ港出港。
2日、モロッコ領タンジール入港。石炭補給。
4日、スエズ運河通航の独立支隊、タンジール出港。
5日、希望峰迂回の本隊、タンジール出港、ダカールを目指す。
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11月1日
・ジョージ・バーナード・ショーの『ジョン・ブルのもう一つの島』、初演。
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11月2日
・社会主義協会大演説会。神田YMCA。聴衆約1千。
田添鉄二・佐治実然・幸徳秋水、全て弁士中止。巡査と小競合い。

最初の弁士の田添鉄二が中止、次の佐治実然も途中で中止、三番目に登場した幸徳秋水も中止となったところで、警察は解散を命じた。だが、これに納得しない約千人の聴衆が騒ぎ出して大混乱となり、拍手と万歳が三十分ほど続いて警察は何もできず、聴衆は凱歌をあげてようやく解散した。

第一席の田添鉄二は、昔の封建主義社会も今の資本主義社会も、階級制度の下に平民を束縛していることは同じで、昔の常備軍は飼い殺しの武士であったが今の常備軍は無給で徴集された平民……といったところで「弁士中止」。

第二席は佐治実然。四千万人の国民がみな守らねばならぬ法律は、わずか百万人ばかりの有権者が選挙した代議士によって作られている。都合のいい時は挙国一致というが、それほど挙国一致が良いものなら普通選挙を実施するに如くはない。新聞は、満洲の野に戦っている兵士を祖国のために忠勇無双の働きをしていると書き立てているが、あれはただオダテるためか……というところで「弁士中止」。

第三席の幸徳秋水は、国際戦争がいつも経済上の原因から起る所以を説き、現に銀行家や富豪を大蔵大臣の官邸に招聘してその承諾を得てからでなくては、戦争は決定されねではないかというと、またたちまち中止、つづいて解散!

聴衆は憤慨激昂して口々に「横暴」、「解散の理由をいえ」と叫び、演壇の上下で警官隊ともみ合う。いつも臨監の更科警部の制帽を何者かがたたき落し、それをまた誰かがふみ潰す。場内のアチコチで巡査と会衆の小競合がおこる。この喧騒擾乱は三十分間も続いてようやく納まった。
(荒畑寒村『平民社時代』)
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11月2日
・(露暦10/20)ロシア、ペテルブルク、解放同盟第2回大会、立憲主義。
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11月3日
・天長節、国民後援会大会、日比谷、5万。
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11月3日
・植村正久、東京神学社設立。
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11月3日
・鉄幹・晶子、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷村字大通549番地第四荻の家へ転居。明治書院の所有。
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11月3日
・阪鶴鉄道、福知山(京都府)~新舞鶴間と舞鶴~海舞鶴間開通。
鉄道局で舞鶴線として建設し、阪鶴鉄道会社に貸与。1907年7月31日返還。大阪~新舞鶴間直通運転開始。
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11月6日
・清国の山西永済で民衆反乱。
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11月6日
・週刊『平民新聞』第52号発行

石川三四郎「小学校教師に告ぐ」発禁。
9日、編集人兼発行人西川光二郎・印刷人幸徳秋水、朝憲紊乱で起訴。
第1審、印刷人幸徳禁固5ヶ月・編集人兼発行人西川禁固7ヶ月・夫々罰金50円。「平民新聞」発禁。印刷機没収判決。

この号は1周年記念の前号。
石川三四郎「小学校教師に告ぐ」のほか、西川光二郎「社会主義者の教育観」、堺枯川「小学修身書漫評」、小学教師の無価珍子と称する人の「戦争に対する教育者の態度」を掲げ、吾人は本号をもっていささか日本の教育家に呈す--と称して、ほとんど全紙をあげて教育批判号のような形であった。
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この日、平民社で社会主義婦人演説会開催。弁士に寺本みち子。
みち子は、堺の近所に住む福田英子とならぶ平民社を訪れる女性常連客の一人。「たてよ君たたぬ男の子を踏みこえて乙女主義よぶ時なり世なり」という勇ましい歌もつくっていた。
その後、みち子は美容師になり、美容界に名を馳せていた初代遠藤波津子の元で働くようになる。日活の映画監督の小口忠と結婚後、仕事と家庭で多忙になり、しばらく堺たちの前から姿を消していたが、売文社発足後に交流が復活する。
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11月6日
・イタリア総選挙。カトリック、反社会主義の候補者に投票。
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11月7日
・黄興、陳天華ら、上海で挙兵計画。
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11月8日
・大本営陸海軍部合同会議。伊東祐亨軍令部長・伊集院次長・山県有朋参謀総長・長岡次長。
9日午前1時、山県参謀総長名で大山総司令官に203高地(艦隊砲撃の拠点)占領要請電。
大山返電は203高地の戦略的重要性否定。第7師団増派要請。
山縣元帥は第3軍への第7師団増派決定。
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11月8日
・アメリカ大統領選挙、共和党のセオドア・ルーズベルト、民主党のバーカーを破り当選。
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11月9日
・日蓮宗、福岡市博多東公園に完成した元寇記念日蓮銅像前で国祷会挙行。
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11月10日
・第2回6分利付英貨公債1200万ポンド募集、公布。
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11月11日
・第7師団を第3軍戦闘序列に加える下命。
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11月11日
・清国・ポルトガル間で通商条約締結。
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11月12日
・ロシア・バルチック艦隊、北アフリカ仏領ダカール入港。フランス、港外での石炭積込勧告。ロジェストヴェンスキー中将港内積込強行。
16日、ダカール出港。
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11月13日
・週刊『平民新聞』1周年記念号(第53号)発行。
「共産党宣言」訳載(幸徳、堺訳)。
未明、即日発禁。発行兼編集人の西川、翻訳した堺と秋水の3人が起訴される。
滝野川紅葉寺での園遊会禁止処分。

園遊会は、予告記事によれば、会場の滝野川の紅葉寺に団子屋、おでん屋、甘酒屋などを設け、記念撮影を行い、弁当を食べながらさまざまな余興を楽しむ、と書かれている。余興は「人形ボンポコ踊」「仮装行列」など他愛のないものばかり。
そして4日後、社会主義協会も「安寧秩序に妨害あり」という理由で、治安警察法によって禁止を命じられる。

堺も秋水もドイツ語には通じていなかったため、この「共産党宣言」は英訳からの重訳。訳文の前につけた序文で「全篇の誤謬瑕疵、亦定めて多かるぺし」と断っている通り、訳語がおかしいところもあり、第三章は省略されている。
しかし、「一個の怪物欧州を徘徊す」と「ヨーロッパに幽霊が出る」とを比べると、堺らの訳のほうが力強く、読み手の心に響いてくる。
ただ、即日発行停止となったため、この「共産党宣言」は、ごく一部の人々の目に触れただけだった。

幸徳の後年の回想。
「我ながら其佶屈聱牙(きつくつごうが)なのに恥入った。此の失敗は、斯(かか)る世界のクラシックとあって社会問題、経済問題研究者のオーソリチーとする歴史的文書は、成可く厳密に訳さねはならぬといふ考へで、非常に字句に拘泥したのと、荘重の趣きを保ちたい為めに多く漢文調を混じた故である。」(『文章世界』(明治41年3月号)

冒頭は、・・・
「一個の怪物欧州を徘徊(はいかい)す、何ぞや、共産主義の怪物是れ也、今や古欧州の権力者は、此の怪物を退治せんが為めに、挙(こぞ)って神聖同盟に加盟せり、羅馬法王も露国皇帝も、メテルニヒもギゾーも、仏国の急進党も独逸の探偵も
見よ、在野の政党にして、曾て在朝の政敵の為めに、共産主義的なりとして毀傷(きしよう)せられざる者ある乎、又見よ、在野の政党にして、骨て他の急進的在野諸党派に対して、並に保守的政敵に対して、共産主義てふ詬罵(こうば)を投返さゞる者ある乎」

訳語は、たとえば「ブルジョアジー」を「紳士閥」、「プロレタリアート」を「平民階級」と訳している。
「共産主義者」をすべて「共産党」とし、「剰余価値」を「剰余価格」、「交換価値」を「交換の価格」とするのに反して、「商品の価格」は「商品の価値」となっている。
また「工場制手工業」は「工場制度の製造業」、「生産要具」は「生産機関」、「第三身分」は「第三級団」、「小市民」は「小町人」((一)紳士と平民)と訳されている。
「(二)平民と共産党」では、「亡命者」が「移民」、「資本は共同の産物」というべきを「資本は生産物の集積」とされ、「労働者は祖国を有せず」とあるべきを「労働者は国家を有せず」とし、「全生産様式を変革」が「全生産方法を革命」などと誤って訳されている。

当初の計画では、紙面を12ページに増して、『宣言』全文を訳載する予定であったが、前号の発禁事件やなにかで編集事務が阻害され、やむなく紙面を10ページにとめ、かつ原文(三)の「社会主義及び共産主義文献」の一項を省略することにした。この一項はエンゲルスの序文中にもあるごとく、1848年当時現存していた諸潮流を批評したものなので、ヨーロッパの形勢が当時とまったく変化した今日において大して有用でないからという見地に立って省略した。

堺利彦「日本社会運動史話」
「『共産党宣言』と『資本論』との名は、幾度も平民新聞で紹介されたが、実を云へば、誰もまだ本当に読んでは居なかった。然るにー周年記念号の材料が問題になっている中、小島龍太郎君が『共産党宣言』を推薦してくれた。小島君は自由党左翼系の、『前期の運動者』であったといふばかりでなく、又平民社時代の財政的援助者であったと言ふばかりでなく、現に我が実際の運動史上に於ける思想的発展の一指導者であったと言ふ事もできるわけである。・・・
反訳は幸徳と堺が担任した。『予等倶(とも)に独逸文に通ぜざるを以て、英訳に依りて重訳し』た。『思ふに共産党宣言の如き貴重の経典は、之を訳する、一字一句決して荀くもすべからず』『予等の浅学不才、任務の光栄を感ずると同時に、窃かに僭越の罪過るる所なきを知る、全篇の誤謬瑕疵、亦定めて多かるべし』
とは二人が『和訳序』に記した言葉である。

実際、誤謬は少なからずあった。又第三章を欠いて居た。そして発行の即日、禁止となったので幾許可(いくばく)の人の目にも触れなかったわけである。
然し明治三十九年三月十五日発行された月刊雑誌『社会主義研究』第一号には、幸徳、堺合訳の『共産党宣言」が全文チャント載っている。それは、『古の文吉は如何に其の記載事項が不穏の文字なりとするも、単に歴史上の事実とし、又は学術研究の資料として新聞雑誌に掲載』するのは差支ないと言ふ理由からである。そしてこの時には、第三章も(幸徳米国行不在の為、堺一人の手で)反訳された。然しそれが間もなく、他の多くの社会主義的出版物と共に、一切禁止されてしまい、今日でも『宣言』だけはやはり厳重な禁止である。尤も、その後、幾回も、何人かの手に依り、それの秘密出版が行はれている。……」
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11月13日
・評論家剣南(角田勤一郎 1869~1916)、大町桂月の与謝野晶子攻撃(「太陽」)読んで反論。
剣南は、晶子が桂月に対して反論した「ひらきぶみ」(「明星」12月号)を「言ひ得て好し」と晶子の肩をもっている(「読売新聞」11月13日)。
桂月は「ひらきぶみ」に対して何も答えていないのに、剣南には12月号の「太陽」誌上で答え、それに対し剣南は「理情の弁」(「読売新聞」12月11日)として答えている。

「理情の弁」(「大町桂月子に与ふ」)による剣南の結論は、晶子詩は理性を加えない刹那詠嘆の情を表白したもの、というもの。
この詩に表現されているものは、偏に、弟に死ぬなという詠嘆の情を痛切に寄せているにすぎない。だから理性の調摂がなく、ために思想とみることはできない。国家的観念があるかないかを連想する必要がなく、あえて危険な思想とも感じる理がないと信じる。情理の調摂がどうかによって、思想ができ、思想ができて後に見解があり、見解があってその後に是非の論がある、という。

剣南は、桂月がすぐれた判断力や広い知識を持ちながらも、往々に国家対個人の問題にたいし、このような説諭のみえるのは、偏に「国家主義に密着する思想のしからしむるところ」であろうか、と評している。
「理情の弁」は論理的で熱っぽく、迫力がありしかも普遍性がある。晶子の作詩精神をみごとに分析もしている。
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11月13日
・ポーランド人民連合成立。ワルシャワ、ポーランド社会党(パリ)、最初の武装デモ組織。
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