2014年8月28日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(76) 「三十八 田園に死す」 (その3終) 「農家の庭を見るに一家相寄り冬日を浴びつゝ稗を打てり、人間の幸福これに若くものなし」

南禅寺 2014-08-13
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荷風は一人暮しだったのでよく自炊した。
米を炊く薪には困らなかった。
手龍をさげて散歩に出て、畑の畦道で枯枝を拾い集めればよかった。
農家の庭先で野菜を買い求めることもあった。

昭和21年5月28日
「余老来好んで菜蔬を食す、蠶豆、莢豌豆、獨活、慈姑の如きもの散策の際之を路傍の露店又は農家について購ふことを得、東京の人に比すれば遙に幸福なりと言はざるべからず」
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荷風は戦争中の軍国主義を嫌っただけでなく、戦後の解放された社会にもまた嫌悪を隠さなかった。
戦後の「日乗」には戦前にもまして近隣のラジオの騒音への苛立ちが繰返されているが、”ラジオの騒音”こそ戦後社会の悪しき解放感そのものに思えたに違いない。
「明治の児」荷風は、急速にアメリカナイズされていく戦後社会への異和感を深めていく。

昭和22年5月3日、
「米人の作りし日本新憲法今日より實施の由。笑ふ可し」。

昭和21年11月26日
田園のなかに出来た中山競馬場に嫌悪感を覚え、「俗悪なる競馬場の建築物いよいよ厭ふ可し」と書く。

戦後社会に距離を覚えれば覚えるほど、美しい田野とそこで黙々と働く人々は好ましく見えてくる。

昭和21年11月19日
「農家の庭を見るに一家相寄り冬日を浴びつゝ稗を打てり、人間の幸福これに若くものなし」

家庭を持たず老いていく荷風が、農家の庭先で一家相寄り稲を打っている姿に心動かされる。
誰よりも家庭を嫌った荷風が、距離を置いて家庭を見たときにそこに「人間の幸福」を見る。

「ついに人間を愛することのできなかった彼も、市中の景況--人間が住むことによって成立する陋巷のたたずまいは愛してやまなかった」(野口富士男『わが荷風』)という”見る人”荷風がここにもいる。
荷風にとっては他者との充分な距離が自分の幸福の条件である。
その意味では、市川は、東京から遠くも近くもなく絶好の距離を持った”隠れ家”だったということも出来る。
戦後の荷風というと必ず浅草通いが語られるが、浅草よりもむしろ市川の田園こそが荷風にとって大事だったのではないか。

荷風が市川の田園に惹かれたのは単に自然の美しさからだけではない。
荷風はそこにかつての東京の姿を見た。
荷風が愛した東京も実は、昔は静かな町だった。
とりわけ隅田川を越えた向島あたりにはまだ田舎が残っていた。

向島生まれの幸田文は、その地を「郊外の農村」(『木』新潮社、1992年)と呼んでいるほど。

市川に移り住んだ荷風はそこにまだかつての向島のような田舎が残っているのを知った。
市川のなかに失なわれた東京を見た。
市川での生活を綴った戦後の名随筆「葛飾土産」(昭和23年)のなかで荷風は市川が昔の向島に似ていると書いている。
「戦災の後、東京からさして遠くもない市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるやうな好風景の残つてゐたのを知ったのは、全く思ひ掛けない仕合せであった」

期せずして、父露伴とともに戦後市川市菅野に移り住んだ幸田文もまた随筆「すがの」(中央公論社『荷風全集』第14巻月報、昭和25年)のなかで「土間の広い百姓家、井戸端に柿、貧しげな牧場、梨の棚。どこの村にもある似たりよったりな風景といえばそれまでだが、菅野と向島寺島村とは似ていると私にはおもえる」と書いているが、荷風もまた市川の田園に往時の向島、ひいてはまだ都市化が進んでいない”昔の東京”を見た。
「市川の町を歩いてゐる時、わたくしは折々四五十年前、電車も自動車も走ってゐなかつたころの東京の町を思出すことがある」

真間川沿いの野の風景が好きになり、子どものようにその下流にまで行こうという”冒険”も試みている。
さらに付近に案外古い神社や寺があるのも荷風を喜ばせる。真間の手古奈堂、弘法寺、菅野の白旗天神、中山の法華経寺、新田の春日神社、国府台の回向院など。葛飾八幡宮で毎年9月に開かれる農具市も気に入って二度はど出かけている。

昭和22年1月26日、
こうした散策の折り、偶然、葛飾駅(現・京成西船駅、昭和62年に改名)近くの村道の路傍に敬愛する江戸の文人大田南畝等の古碑を見つける。
老榎のそびえたつ路傍に古碑が建っている。古井戸があり、碑に「葛羅之井」とある。よく見ると広告の紙が幾枚も張られた下に「南畝」の字が見える。「大に驚き」井戸の水でハンカチを潤し張紙を洗ってみると、そこに、南畝が文化九年にこの井戸の由来を書いた文字が出てくる。偶然とはいえこの発見も、かつての砂町の元八幡の発見と同じように、荷風の散策好きと深い教養の結果である。

市川に来る前、荷風は昭和20年9月1日から昭和21年1月15日まで短期間、従兄弟の杵屋五叟を頼って熱海に仮寓した。頼りない流浪の身の荷風を慰めたのは、偶然にも熱海が、景仰する成島柳北ゆかりの地だったことだった。

市川に来てからは、偶然にも、かって「大田南畝年譜」(昭和8年)を作るほど敬愛した大田南畝(萄山人)の碑を見つけた。市川が南畝ゆかりの地であることを知った荷風がいよいよこの一農村に親近感を抱いた。
しかも、ついに会うことはなかったが、すぐ近くには、同時代の文学者として一目も二目も置いている露伴が移り住んできていることも知った。

種村季弘は期せずして市川で死去した二人の文人、露伴と荷風に触れて、市川のような「都の東郊」は旧幕臣の心情を持つ者にとっては親しい土地だったと次のように興味深い指摘をしている。

「そういえば露伴は谷中の後にも、京橋、向島、上総横田村と、概して都の東へ東へと居を移している。西から押し寄せる『江戸の破壊者』(『一国の首都』)の勢いを避けて、川と海のある東郊に逃れたかのよぅである。陸は文明開化の東京に占領されても、川と海は旧幕時代の面影をのこして江戸からの逃亡者を匿ってくれる。根岸党時代の青年客気、向島時代の釣り三昧の壮健はもはや昔話としても、露伴の市川住まいはその最後の帰結であったといえなくもない」「敗戦後のほぼ同時期に荷風も市川に仮寓した。都の東郊はもともと江戸人の寮(別荘)の多いところで、旧幕ゆかりの人の最後の隠棲地たるにふさわしい、戦中戦後の混乱のなかでみずから望んだ住まいではなかったとしても、土地柄としては露伴の終の栖であって一向にふしぎはなかった」(「シティボイス」NO1 2市川市、平成4年)

荷風が市川に来ていちだんと露伴に惹かれたのは、この、市川を「旧幕臣ゆかりの人の最後の隠棲地」と見る思いがあったからこそだろう。
露伴は昭和22年7月30日、80歳で長逝した。
「日乗」にはこの日「今暁露伴先生菅野の寓居に逝くと云」とある。

さらに8月2日、
「午後二時露伴先生告別式。小西小瀧の二氏と共に行く。但し余は禮服なきを以て式場に入らず門外に佇立してあたりの光景を看るのみ」

幸田文は随筆「すがの」で、告別式の日に荷風がすぐ家の近くまで来て黙礼して帰ったとあとで知り、その荷風の心づかいに、「向島とお雪さんが、疲れた私の感傷にからす瓜の蔓のようにからんだ」と書いている。

一般に晩年の荷風は不遇だったとか、作家としての生活は終えていたと否定的に見る人は多い。奇人変人ぶりも取沙汰された。しかし、市川の田園のなかに古き昔の東京を見ることが出来た荷風は、人が思っている以上に幸福だったのではないだろうか。


あとがき

「断腸亭日乗」を読んでいると、じっとしてはいられなくなる。
荷風とともに東京の下町を歩きたくなる。荷風が歩いた荒川放水路に出かけたくなる。堀切橋を見たくなる。「断腸亭日乗」にはそういう、人を町へと誘い込む魅力がある。

野口富士男は『わが荷風』のなかで「ついに人間を愛することのできなかった彼も、市中の景況-人間が住むことによって成立する陋巷のたたずまいは愛してやまなかった」と書いているが、荷風は終生、東京の小さな町を愛し続けた。

その徹底ぶりは生半可なものではなく「山の手の人間が傍観者として下町を眺める」という紋切型の批判を厳として寄せつけない深さ、緊張があった。
荷風の陋巷へのこだわりは、あの時代に生きることの断念、張りつめた諦念から生まれた本質的に孤独なものだったと思う。
深川の堀割、砂町の新開地、荒川放水路の茫漠荒涼とした川べり、あるいは玉の井の路地。
荷風はそれまで誰にも語られなかったすがれた風景のなかに、寂しい美しさを見ていった。
その意味で荷風は「風景の発見者」ではあったが、決して、表立って「発見者」になろうとはせず、むしろ、風景のなかに自分を溶けこませていくこと、消していくことのほうを望んだ。

荷風に惹かれるのはこの消滅願望のためである。

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