2014年10月23日木曜日

1784年(天明4年)3月 演奏会や作曲活動に多忙を極めるモーツアルト(K449~K452) 世直し大明神(田沼意次の長男、若年寄田沼意知が江戸城で佐野政言に斬りつけられる。田沼の勢力凋落の契機) 【モーツアルト28歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-10-16
*
1784年(天明4年)
3月
・この月、モーツアルトはクラヴィーアと木管のための五重奏曲変ホ長調(K.452)作曲。
貴族の館で演奏したり、音楽会に出演。
四旬節の水曜日ごとに開催された、トラットナー邸での予約演奏会で毎回新作のクラヴィーア協奏曲(K.449,450,451)が演奏される。
*
3月1日
・モーツアルト、ヨハン・エステルハージー伯爵邸音楽会。

3月3日付のレオボルト宛手紙に見えるこの頃のモーツアルトの演奏会日程。
「ほとんど手紙が書けないのをお許し下さらねはなりません。でも時間がないのです。というのは今月の十七日に始まって四旬節には毎水曜日に三回トラットナーの広間で予約演奏会を三回開きますが、これにはもう百人の予約者がおり、当日までにはまだ三十人は集まるでしょう。 - 料金は三回分で六フロリーンです。本年中に劇場で多分二回音楽会をやることになるでしょう。 - ところで、ぼくがどうしても新作を弾かなければならないのは容易にご想像いただけるでしょう。 - だから作曲しなければならないのです。 - 午前中は全部生徒たちのためにつぶれてしまいます。 - それに晩はほとんど毎日弾かなければなりません。 - 以下、ぼくが確実に弾かなければならない音楽会全部のリストをご覧下さい・…‥。
二月二十六日 木曜日 ガリツィン邸
三月一日 月曜日 ヨハン・エステルハージー邸
四日 木曜日 ガリツィン邸
五日 金曜日 エステルハージー邸
八日 月曜日 エステルハージー邸
十一日 木曜日 ガリツィン邸
十二日 金曜日 エステルハージー邸
十五日 月曜日 エステルハージー邸
十七日 水曜日 ぼくの最初の私的演奏会
十八日 木曜日 ガリツィン邸
十九日 金曜日 エステルハージー邸
二十日 土曜日 リヒター邸 トラットナー邸
二十一日 日曜日 ぼくの最初の劇場演奏会
二十二日 月曜日 エステルハージー邸
二十四日 水曜日 ぼくの第二回私的演奏会
二十五日 木曜日 ガリツィン邸
二十六日 金曜日 エステルハージー邸
二十七日 土曜日 リヒター邸 トラットナー邸
二十九日 月曜日 エステルハージー邸
三十一日 水曜日 ぼくの第三回私的演奏会
四月一日 木曜日 ぼくの第二回劇場演奏会
三日 土曜日 リヒター邸 トラットナー邸
充分にやってはいませんか? - これじゃ練習もできないと思います。」
*
3月11日
・インド、マイソール王国、マンガロール条約調印。
イギリスとの第2次マイソール戦争終結。
*
3月15日
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲(第15番)変ロ長調(K.450)作曲。
次の第16番K.451とともに「汗をかかせられる協奏曲だと思います」と父への手紙(5月26日)に書く。
*
3月17日
・モーツアルト、トラットナーホーフの広間でコンサート(「ぼくの最初の私的演奏会」)。
新作のピアノ協奏曲K.449を演奏。
トラットナー邸での予約演奏会では毎回、新作のピアノ協奏曲が1曲づつ発表。
「今月十七日の最初の音楽会はうまくゆきました。会場はあふれんばかりにいっぱいでした。 - それにぼくが弾いた新作の協奏曲はものすごく評判でした。おまけにどこに行ってもこの音楽会をほめてくれます。」
*
3月18日
・イギリス、のちのネルソン提督、28門フリゲート艦ボレアス号指揮。
*
3月20日
・アメリカ独立戦争でのイギリス・オランダ両国の単独講和条約成立。イギリスはネガパタム(マドラス)オランダ領獲得。
*
3月20日
・モーツアルトより父への手紙。
自分のコンサートの予約者174人の名前を列記し、それはリヒターとフィッシャーを合せたよりも30人も多いと伝える。 予約は一人6フローリンで、全部で千フローリンの収入になった。
ただ、その後、劇場での最初の発表会を開こうとしたところ、リヒテンシュタイン侯爵が自分の邸でオペラを催し、貴族のおもだった人達や、オーケストラの最良のメンバーも引き抜かれ、モーツァルトの発表会は4月1日に延期。
しかし、5年後には、モーツァルトのコンサートの予約者はヴァン・スヴィーテン男爵たった一人になる。

予約者(貴族、外交官、市民)
親しい友人たち:ヴァン・スヴィーテン男爵、フォン・トラットナー夫人、ゴットフリート・イグナーツ・フォン・プロイヤー、フォン・ヴァルトシュテッテン男爵夫人、ヴェッツラル・フォン・プランケンシュテルン男爵、ヨハン・エステルハージー伯爵、ガリツィン侯爵、マリーア・アンナ・ホルテンジア・フォン・ハッツフェルト伯爵夫人など、
貴族:アウエルスベルク公爵、ヨーゼフ・ロブコヴィッツ公爵、カウニッツ=リートベルク侯爵、シュヴァルツェンベルク公爵、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公など
フリーメイスンの指導者イグナーツ・フォン・ボルン、
当時の政情、社会情勢に関する貴重な資料を残しているカール・ツィンツェンドルフ伯爵など
*
3月22日
・モーツアルト、クラヴィーア協奏曲(第16番)ニ長調(K.451)作曲。3月31日に初演。
*
3月23日
・ブルク劇場でクラリネット奏者アントーン・シュタードラー(1753~1812)の演奏会。モーツァルト『セレナード 変ロ長調』(K361=K6・370a)演奏。『グラン・パルティータ(大組曲)と称される。
*
3月24日
・世直し大明神
この日の昼頃、田沼意次の長男、若年寄田沼山城守意知(おきとも、36歳)、江戸城で新御番組佐野善左衛門政言(まさこと)に斬りつけられる。
26日、没。
4月3日、佐野善左衛門、評定所に切腹を命じられる。
これを契機に、田沼意次の勢力は弱まる。

意知は肩先に長さ3寸ほど(約9cm)、深さ7分ほど(2cm)の傷を負い、逃げようとして倒れ、さらに腰に長さ3寸5、6分、深さが骨に達するほどの傷を負わされた。意知は傷を処置され、退出したものの、そのまま死亡した。切りつけた佐野は、大目付松平対馬守忠郷らに押さえられ、取調べののちに切腹させられている。

原因については、意知が佐野家の系図を借りたまま返さなかった、あるいは意知が佐野に御中納戸の職を世話するといい、たびたび金品を受け取ったにもかかわらず、約束を守らなかったためとも言われるが、実際のところは不明。

しかし、庶民の同情は佐野に集まった。
切腹した佐野の遺体は、浅草の徳本寺に葬られたが、ここには庶民の参詣が相次いだ。
中には「世直し大明神」と記した旗を立てて墓参する者もいた。
これは当時高値で庶民を困らせていた米価が、事件のあった時期に一時的に下がったことによるが、人々はこれを佐野のおかげと考えた。
幕府は「当寺に無縁者の参詣を禁ずる」という高札を立てたが、効果はなかった。

一方、4月7日の意知の葬送の際には、待ち受けて行列に石を投げる者もいた。
田沼家の家臣が犯人を捕え、町奉行所に引き渡したものの、彼らは疫病送りをしていたところ、偶然葬列が通り合わせただけで、自分たちは全く知らずにやったことだと主張し、町奉行所はこれを認めて無罪にしたという。
葬列が寺につくと、今度は門前で菰をかぶった乞食が多数集まって来た。家臣たちが叱ると、斬るなら斬れ、寺で死ぬのは本望だなどと叫んだ。
しかたなく1人に銭50文と白飯1盆を与えてようやく解散させたという。
これらの逸話は、田沼父子が大きな反感を持たれていたことを示すもの。

(当時の落書)
桂馬から 金となる身の嬉しさは 高上りして 歩にとられけり
金銀をだましてとったが 桂となり 飛香(ひきよう)ともいふ 歩角(ふかく)ともいふ
佐野さんが 若年寄を殺さずば これぞ世上の邪魔城の守
親子して 己が田沼へ水をひき 血汐ながして 佐野が邪魔しろ(『江戸時代落書類聚』上)

(田沼政権転覆のための陰謀説)
当時、この暗殺事件を田沼政権転覆のための陰謀とする説があった。
長崎のオランダ商館長イザク=ティツィングは、著書の中で、意知を暗殺した理由として、父意次は年をとっているので、時が来れば自然に亡くなるが、子の方は、まだ若く新政策を推進する余裕があるから、今のうちに倒すべきと考え、佐野がこれを実行したと述べている。
いずれにしても、後継者意知を失った意次の打撃は大きく、事件以降、田沼政権は崩壊の道を歩み始める。

辻善之助『田沼時代』
「佐野善左衛門一件
天明四年の三月二十四日に、佐野善左衛門という新御番組の者があって、これが私怨を以て田沼山城守意知に殿中において斬付けた。同日九ツ時頃、意知が同輩の若年寄連中と共に殿中より退去せんとしたところ、新御番の善左衛門が桔梗間に控えておって、それが俄かに走り出でて山城守意知に飛掛って、覚があるだろうと三度声を掛けて中之間へ出る処において斬付け、肩先に長さ三寸ばかり深さ七分ばかりの傷を負わした。意知はそのまま桔梗間の方へ逃出して、善左衛門がこれを追詰めた。意知の倒れたところを善左衛門は腹だと思って突いたところが、それは股であって、三寸五、六分の傷を負わして、深さ骨に達した。意知はこれで大に弱って、廊下の暗い処へ逃込んで倒れた。善左衛門は意知を見失って、中之間の方へ取って返したところを、大目付松平対馬守が走り出でて背から抱き擁えて、御目付衆と大声に呼んだ。早速目付の者が飛出して来て、善左衛門から脇差を受取り、即刻意知は下部屋から差遣わされた御番の医者の薬をもつけて、それから駕寵に乗って退出を致した。善左衛門は揚り屋へ入れられた。意知は二十六日の暁になって、遂に死んだ。四月三日になって、善左衛門乱心という事になった。しかしながらその負わせた手創(てきず)によって意知が死んだというので、切腹を仰つけられる。」

「意知のみじめな有様
善左衛門は此の如く世人に歓迎せられたに反して、田沼意知の方は、また惨(みじめ)な者であった。意知は四月十二日に葬礼をした。寺は駒込の勝林寺であった。この寺は今に駒込に存している。葬列が神田橋の屋敷を出た時は、暮の六ツ半であった。しかるに三河町一丁目あたりから、乞食が八、九人も出て来て、何か下されという、ところが一文も呉れない。段々乞食が怒って、石を投げる者が夥しい。その先その先と乞食の中に普通の町人なども交って、悪口を叩いたり石を投げたりする者が、雨のようであった。辛うじて勝林寺へ納める事が出来た。また二人の乞食があって、一人は七ツ星の紋を着けた酒樽の古い菰を被って、怪しい姿をして駆け出ている。一人は鍾馗(しょうき)の姿をして、己、悪魔逃さないぞと言って追詰めて、大刀で以て斬殺す真似をして、白昼到る処の町々を廻り歩いた。これを観る者は誠に痛快な事として喜んだという。・・・」

流行作家・山東京伝が黄表紙『時代世話二挺鼓』を書いてこの暗殺事件を諷刺したのをはじめ、この事件をあてこんだいくつかの作品がつくられた。

暗殺事件のあと米価が一時下がった事情
幕府は事件の翌4月、大坂町人の買持米19万6,440石を摘発し、その1/3の6万5,480石は没収するが、特別に1石につき銀70匁で代金を下付し、残米13万960石は自由に売買させた。そしてその没収額のうち3万石は江戸、1万石は京都へ廻送し、2万5千石は大坂はじめ3都の下層町人に買い請けさせた。
江戸廻送分については、運賃その他諸経費を1石につき5匁3分余と計算し、1石あたりの代金79匁で町々に払い下げたが、大坂町人から石70匁の廉価で買い上げて79匁7分で払い下げれば、運賃その他諸経費5匁3分余を除いても、4匁余は幕府の利益になる。幕府は江戸廻送分3万石の払下げ代金12万7,283両3分と銀3分7厘1毛を奥金蔵に納めたが、このなかには1,500両余の利益が含まれていた。
しかも江戸廻送分のうち、2万8,068石余がまず到着したため、米価は下落しはじめ、町売り白米は銭100文に1升2、3合にまで下がったので、払下げ米石当たり79匁余では、町売り米より高くつくので、幕府は後送の分を蔵納めにしてしまった。町売り米より高くつくなら、その価格まで引き下げて払い下げるのが救済というものだが、幕府にそのような配慮はなかった。
*
3月24日
・モーツアルト、トラットナーホーフの広間でコンサート。新作のピアノ協奏曲K.450を演奏。
*
3月25日
・イギリス、議会解散。続く総選挙で、小ピットが大勝。
*
3月30日
・モーツアルト、自作目録第4番となる、K.452 ピアノと管楽器のための五重奏曲(変ホ長調)作曲。
モーツァルトが「これまでに書いた最上の曲」と考えたもの。(4月10日の父への手紙)
*
3月31日
・モーツアルト、トラットナーホーフの広間でコンサート。新作のピアノ協奏曲K.451を演奏。
*
*

0 件のコメント: