2014年11月30日日曜日

1785年(天明5年)8月~12月 菅江真澄『楚堵賀浜風』にある出羽の惨状。 『ハイドン四重奏曲』出版。 ナポレオン(16歳)少尉任官。 松平定信、溜之間詰となる。 伏見奉行小堀政方罷免。 田沼政治改められ始める。 【モーツアルト29歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-11-27
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1785年(天明5年)
8月1日
・フランス探検家ラ・ベルーズ、清と日本に向けブレスト港出港。毛皮貿易促進等目的。
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8月3日
・菅江真澄の紀行文『楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)』より。
8月3日、出羽の境、木蓮寺(もくれんじ)の坂を越えて陸奥国津軽に入った菅江真澄は、海岸伝いに西津軽の村々を歩き、鯵ヶ沢の湊をへて10日に床前という村に足を踏み入れた。村の小道を歩いていると、草むらに雪のむら消えのように、人間の白骨がたくさん散らばり、ある場所では山のように積まれているのが目についた。しゃれこうべの穴という穴から、すすき・女郎花が無心に生え出ている。

百姓の話。餓死者。人肉色の話。
19日、真澄が青森をでて海岸を歩いてゆくと、鍋釜を背負い、持てるだけの家財をもち、幼児をかかえた男女が、わやわやと岡を越えてくるのに出会った。この飢えた漂泊者の群は、「地遁(じに)げ」といって、餓死からのがれるために住みなれた村をはなれて他国へゆくところであった。かれらは、一昨年の飢饉のときは松前に渡って人に助けられたが、こんどはどこへいったらよいか、生きられる所を探してゆくつもりだと真澄に語った。真澄は空恐ろしくなり、このまま浜路をゆけば、自分も同じ運命にあうと考え、もときた道をひき返した。
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8月14日
・旗本寄合いの藤枝外記、吉原の遊女綾衣と雨の箕輪で相対死。
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8月15日
・フランス、マリー・アントワネットの「頚飾事件」に関わったロアン枢機卿、逮捕。
18日、ラ・モット伯爵夫人逮捕。
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8月20日
・ウィーン、コンスタンツェ叔父フランツ・アントン・ウェーバーが結婚式。コンスタンツェ姉アロイージア夫ランゲが立会人。作曲家カール・ウェーバー(1786~1826)の親となる。
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8月22日
・オーストリア、ヨーゼフ2世、永代農奴制を廃止。
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9月
・アムステルダムで3日間に亘り蜂起。宮廷にいる総督ヴィレム5世を脅かす。
この年、オランダ州議会は、諸改革獲得の為、「大衆動員」を指示。
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9月1日
・琉球で大風雨などで凶作が続く。幕府、薩摩藩に米1万石・金1万両を貸し与える。
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9月1日
・アルタリアより6曲のモーツアルト弦楽四重奏曲(『ハイドン四重奏曲』)出版。
1780年代半ばのモーツァルトの音楽活動の中で生み出された最も芸術的なジャンルといえる弦楽四重奏曲。1782年暮~1785年に作曲。ヨーゼフ・ハイドンの前で披露した。

出版した楽譜の冒頭にハイドンへの献辞を掲げる。
「わが親しき友ハイドンに。
広い世の中に、自分の息子たちを送り出そうと決心した父親は、彼らを、幸運によって最良の友となった、今日のもっとも名高い御人(おひと)の庇護と指導とにゆだねるべきものと考えました。高名な御人にして、わが最愛の友よ、ここに彼の六人の息子がおります。彼らは、まことに長くつらい労苦の結実ではありますが、しかし、いくたりかの友人が与えてくれました、少なくとも一部は労苦も報われようという希望が私を元気づけ、またこれらのものがいつかは私にとってなんらかの慰めになるだろうと私に期待させてくれるのです。最愛の友御自身、この都に最近滞在なされた折、あなたの御満足の御気持を私にお示し下さいました。こうしてあなたの御賛意が、とりわけ私を励まし、そのために私はあなたに彼らをおゆだねし、彼らがあなたの御寵愛にふさわしからぬものでなきよう望ましめるものです。それゆえ、御寛大にもすすんで彼らをお引き取り下さい。そして、彼らの父親とも、導き手とも、また友人ともなって下さい! 今後は、彼らに対する私の権利をあなたにおゆずりし、それゆえ、父親の偏愛の眼が私に隠していたこともあろう欠陥を寛大に御注意下さるよう、そして彼らの意志に反しても、私自身がそうでありますようにあなたの寛大な友情を保ち続けて下さいますようにお願いいたします。
                  親しい友、あなたのこの上なく誠実な友
                             W・A・モーツァルト、一七八五年九月一日。」

『ハイドン四重奏曲』ニ短調(K421=K6・417b)は、1763年6月半ばの作と考えられ、この頃、妻コンスタンツェは最初の子供ライムント・レーオボルトを出産した。コンスタンツェの回想によれば、第三楽章メヌエットは出産日の6月17日、出産の最中に書かれたという。

コンスタンツェの第二の夫ニッセンの『モーツァルト伝』(1828年)では、・・・
「彼の妻が最初の子供を産む時の陣痛にあった際、彼は一七八五年にヨーゼフ・ハイドンに献呈した六曲の四重奏曲の第二曲の仕事をしていた。こうした状況はたしかに作曲には向いていなかった。というのは彼はクラヴィーアに向かって作曲はせず、あらかじめ音符を書いて、曲を仕上げ、その上でその曲を試し弾きしていたからである。それにもかかわらず、彼が妻の寝ている部屋で仕事をしていた時には、なにものも彼を煩わすことはなかった。彼女が苦しみの声をあげるたびに、彼は走り寄って、慰め、励ましてやるのであった。そして彼女がいくぶん落ち着くと、彼は再び楽譜に向かうのであった。彼女自身の話では、メヌエットとトリオは、ちょうど彼女の分娩の時に作曲されたものである」
とある。

1829年、ザルツブルクにコンスタンツェを訪ねたヴィンセント・ノブェロとその妻メアリーの日誌によれば、この曲のメヌエットのいくつかのパッセージは彼女の苦痛の叫び声を表わしているということで、コンスタンツェはその箇所の一部を彼らに歌って聴かせたという。
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9月1日
・トーマス・アットウッドに音楽理論を教え始める(練習帳(K.506a))。
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9月1日
・ナンネル、赤子を父レオポルトの手に委ね、夫の元へ帰る。
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9月1日
・ナポレオン(16歳)、 試験に合格して砲兵少尉に任命される。
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9月10日
・プロシア・アメリカ間、修好通商条約が締結。
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9月25日
・ルイ=ニコラ・ダヴー、パリの陸軍士官学校入学。(ナポレオンの一学年下) 1788年、かつて祖父が在隊し、父親が在籍していたシャンパーニュ騎兵連隊に入隊。
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10月
・ナポレオン、少尉としてヴァランスの任地で勤務
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・月末、モーツアルト、オペラ「フィガロの結婚」(K.492)の作曲を開始。完成は翌年4月29日。
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10月16日
・モーツアルト、ピアノ四重奏曲 ト短調 (K478)作曲。出版社ホフマイスターからの依頼。
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10月22日
・盗賊田舎小僧新助、江戸市中引廻し、小塚原で獄門。
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10月29日
・8月14日に遊女と心中の藤枝外記の妻、処罰を恐れて身代わりを立てたが露見。藤枝家は改易。「君と寝ようか五千石とろか、何の五千石、君と寝よ」と巷間でうたわれる。

「士風の廃頽
天明五(一七八五)年には寄合の藤枝外記という者はしばしば女郎屋に通うて、ついにその遊女と心中を遂げた。十月二十九日その家の領邑(りようゆう)四千石を没収せられその母妻らを一族に預けられた。」(辻善之助『田沼時代』)
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11月3日
・ナポレオン・ボナパルト(16)、砲兵少尉としてヴァランスのラフェール砲兵連隊に配属
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11月5日
・モーツアルト、ビアンキのオペラ「奪われた田舎娘」のために、四重唱 <せめておっしゃって、私がどんな過ちを犯したのか> (K479)作曲。
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11月11日
・この日付けレオポルトのナンネルル宛て手紙
「やっと十一月二日付の手紙をお前の弟からもらったが、それも十二行のものだ。あれは大急ぎでオペラ『フィガロの結婚』を仕上げなければならないからと許しを乞うている……私はこの台本を知っているが、とても骨の折れる作品だし、フランス語からの翻訳からオペラにしたり、オペラとして効果を挙げるには自由に改変しなければなるまい」
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11月17日
・モーツアルト<フリーメイスンの葬送音楽ハ短調> (K477)演奏、フリーメイスンの有力者の死(11月6日と7日に相次いで死去した結社員フォン・メクレンブルク大公とエステルハージ伯爵)の追悼式。
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11月20日
・モーツアルト、出版業者ホフマイスターに借金申入れ
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11月21日
・モーツアルト、ビアンキのオペラ「奪われた田舎娘」のために、三重唱「やさしいマンディーナ」(K.480)作曲。
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12月
・末、モーツアルト、クラリネットとバセットホルンのためのアレグロ・アッサイ変ロ長調(K.Anh.95(484b))(断片)、バセットホルンのためのアレグロへ長調(K.484e)作曲。
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12月1日
・松平定信、溜之間詰(幕府政治顧問の詰所)となる。
溜之間は、江戸城中の大名詰所の一つで、家門(将軍家一族)や有力な譜代大名の部屋。定信はここに、中央政界での地位を得た。

「この定信が溜間詰となったのは、田安の宝蓮院の願によるという事である。宝蓮院というのは田安宗武の室であって、即ち定信の嫡母に当る。定信が溜間詰となったから田沼が段々に勢力を失ったのではなかろうかと思う。」(辻善之助『田沼時代』)
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12月12日
・モーツアルト、ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 (K481)作曲。完成後すぐホフマイスターから出版。
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12月16日
・モーツアルト、ピアノ・コンチェルト 変ホ長調 (第22番) (K482)作曲。ブルク劇場12月23日の音楽家連盟の第2回クリスマス演奏会で幕間音楽として初演
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12月27日
・伏見奉行小堀政方、罷免。田沼政治改められ始める。

辻善之助『田沼時代』より(段落、改行を施す)
「天明五〔一七八五〕年の十二月二十七日になって、即ち定信が溜間詰となってから一ヵ月経たぬ内に、伏見奉行の小堀政方というのが罷められた、この一件の如きはいわゆる一葉落ちて天下の秋を知るというべきものではなかろうか。田沼の勢力はこの小堀の罷められたので察する事が出来ると思う。

この小堀政方の罷められたのは有名な文殊屋九助の一件から出て来たことである。はじめ、この政方が伏見奉行になった時には、頗る善政を行うて、旧来の弊習を破壊して、久しく結んで解けなかった訴訟なども、小堀が任命せられてから、直ちにその是非を判別して、大に民心を安んじたものである。そこで名奉行が任命せられたというので、人民大に喜んでおった。ところが段々襤褸(ぼろ)を出して、遂には極端から極端に走って、大に伏見の人間を苦めた。

はじめ、政方が大坂の城番であった時に芸妓を寵して、頗る遊蕩に耽った。或時は暁に達して家に帰るということが露れて、大に面目を失おうという時に、家臣これを憂えて、窃に同僚に賄賂をして、その過を蔽わんと図った。小堀家には古くから一つの茶壷を持っておった。それは在中庵と名け、足利義政が明から得たという物で、伝家の重宝となっておった。背に腹は換られめというので、窃にこれを千両の質に入れて、これを賄賂の資とした。これで以て漸々政方の遊蕩の事を隠すことが出来た。

その後伏見奉行になってから、或時京都の所司代久世出雲守というのに逢うて話の序でに、その有名な在中庵茶壷の話が出た。出雲守がどうかこれを一覧いたしたいという。これは有名な天下の重宝であるので、観せないという訳にもいかず、政方大に困った。帰ってこれを家来どもに相談したところが、近臣が皆どうしたら宜いか途方に暮れた時に、政方の妾に半井芳子という者があった。この芳子というのは元と江戸の医者で半井立仙という者の娘であって、頗る才色あり、和歌俳諧を善くしたけれども生来浮気で幼さい時から外に出て歩いて両親らもこれを子として見なかった。政方はたまたま芳子を途上に見てその美色を悦び、召して侍妾とした。この芳子が今の話を聞いて、なにそんなに困ることはない、宜しく人を大坂にやってこれを買戻すべし。僅か千両位の金ならば、これを町内の豪家から御用金で取上げれば宜い、これを返すのにはまたその時になってから法もあろうからそんなに心配するに及ばぬという。政方も大に喜んで、即日伏見の豪商二十余人を召して、旨を伝えて、忽ちにして千金を弁ずる事が出来た。そうして遂に襤褸を出さないで、所司代の久世出雲守に伝家の重宝たる茶壷を観せる事が出来た。これから芳子はますます政方の御気に入りになって、権勢が日々に盛んになった。

そこで段々奢を極めて、その結果遂に重税を伏見の人民に課して、かの文殊屋九助の訴訟となるのである。九助はその訴が容れられないところから、遂に江戸まで上って訴え出るという事になった。そうして長年の間、江戸に逗留して、訴訟のために奔走しておったけれども、取納れられなかったが、遂に天明五〔一七八五〕年の十二月二十七日になって政方の伏見奉行は免ぜられ、そうして文殊屋九助の訴が聴容れられたのである。

これによって見るとこの前年即ち天明四年に田沼山城守意知の難あってから、段々に田沼の失政が露われて、遂に定信が溜間詰となり、漸く将軍の信任を得て、田沼の権力が下り坂に向うようになったのだろうと思う。この小堀政方というのは、元と田沼のために登庸せられた者であって、一説には田沼の妾と小堀の妾とが姉妹であるところからその情誼によって小堀の悪事も久しく糾明せられないで済んでおったのだという。」
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