2014年12月28日日曜日

昭和18年(1943)7月1日~4日 東京都制実施 昭和塾生大量検挙始る 東條首相タイ、シンガポール、ジャカルタ訪問 クラ湾夜戦 米軍、ニュージョージア島ムンダに敵前上陸 インド国民軍編成(チャンドラ・ボース)

牛ヶ淵 2014-12-26
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昭和18年(1943)
7月
・毛沢東「国民党にただす」発表。
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・十八夏太行作戦(「シ」号作戦)を実施(7月10日~31日)。
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・学徒の「戦時動員体制確立要綱」発表。
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・角田覚治中将、第1航空艦隊司令長官。
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・第31師団師団長佐藤幸徳中将、第15軍牟田口軍司令官に状況報告。
牟田口は佐藤師団長が連れた後方参謀小口徳治少佐に対し、インド侵攻に関連する指示を与える。
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・文部省、大学・専門学校の映画研究会に解散を指示。
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・大日本出版報国団、結成。
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・小林秀雄(41)、「知的協力会議 近代の超克」(創元社)。中島敦「李陵」(遺稿)
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・西インド諸島のフランス植民地の島々、ヴィシー政府離脱・自由フランス参加表明。
日本軍が占領しているインドシナを除く全フランス海外植民地がドイツとの戦いに参加するに至る。
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・フランス、「深夜叢書」第4冊目・エリュアール編集「詩人たちの名誉」出版。
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・フランス、ナチ武装親衛隊フランス隊、創設。
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・英米軍、ハンブルク市を連続集中夜間空襲。市街地壊滅。死者3万余。
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・アルゼンチン、CGT No2に解散命令。
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7月1日
・朝より、米軍、レンドバ島よりムンダ飛行場へ連続砲撃
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7月1日
・府・市の二重行政を一本化、東京都制が実施。初代都長官に昭南(シンガポール)市長だった大達茂雄。
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7月1日
・アジア協会の新井義夫、検挙。
神奈川県特高は、満鉄グループと泊事件関係者を追及し「細川グループ」を作り上げ、このグループの人的繋がりを辿り、昭和塾(昭和研究会の外郭)に辿りつき、昭和塾生大量検挙が始る。
新井は、細川の「植民史」著述を手伝ったことがあり、昭和塾生で、そこには泊事件関係者の友人らしい者も何人かいる。
昭和研究会と、外郭組織として多くの青年を組織する昭和塾には、近衛文麿のブレーンで大政翼賛運動「左派」を代表する主宰者後藤隆之助のほか、風見章、蝋山政道、尾崎秀実、平貞蔵、佐々弘堆、笠信太郎、三木清らが名を連ね、細川嘉六もそれらの人々と交友関係があり、昭和塾講師を勤める間柄で、個人的に近衛とも知り合いの関係にある。
こうなってくると、近衛を頂点として広がるこのような人的構成は、「聖戦完遂」とその為の大政翼賛組織「粛清」を志す軍部ファシズムにとっては、邪魔物であり、その意を体する司法・検察官僚は、折あらば近衛勢力に一撃を加えようと待ちかまえていた。
この狙いの下に、昭和塾生大量検挙が始まる。
7月31日浅石晴世、9月9日、高木健次郎、板井庄作、由田浩、森数男、勝部元、白石芳夫、小川修ら、18日、山口謙三、10月には和田喜太郎、渡辺公平、と計12名が検挙。
塾生数名の足尾ハイキングは、共産主義グループ結成を企らんだ「足尾会議」となり、塾生たちの政治経済研究会・ファシズム研究会、細川との会食、浅石宅での新年会まで、共産主義の協議活動とされ、近衛文麿をかつぐ昭和研究会-昭和塾の全てが「擬装共産主義」集団として暴力的に染めかえられてゆく。
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7月1日
・地方行政協議会令、朝鮮証券取引所令公布
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7月1日
・国鉄、急行列車の自由乗車制廃止、指定制とする
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7月2日
・南海支隊(佐々木登少将)、ニュージョージア島ムンダ進出。
第6師団(神田正種中将)第13連隊第3大隊、コロンバンガラ島上陸。
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7月2日
・ラバウルの日本陸軍第20飛行団、レンドバ島攻撃。
4日、レンドバ島爆撃。重爆7・戦闘機1失う。以降、陸軍はソロモンに出動せず。
7日、草鹿第11航空艦隊司令長官は、今村第8方面軍司令官にニュージョージアへの1個師団増派を要請するが、今村軍司令官は「中央協定」により拒否。

米軍機、質量両面で優位。
零戦の運動性・重装備は依然米軍機の脅威ではあるが、零戦の及ばない高度を飛ぶP38、急降下速度で優れるP40、全ての点で零戦と優劣を競いうるグラマンF6F、F4Uコルセアが現われる。また、これまで日本機が優勢を誇りえたのは、13、20mm機銃弾が破壊力の大きい榴弾だったことにもよるが、操縦士の背後に厚い防護板をつけ、燃料タンクに工夫が施されると、撃墜は困難になる。B17、B25など大型機のタンクは、天然ゴム、牛皮、人造ゴムを三重に貼り合わせた懸吊タンクで、ジュラルミンの機体に大穴をあけても、三重の壁を突き破るのは難しい。徹甲弾では、貫通しても弾丸は冷却され、ガソリンを引火させる力はない。
一方、日本機は防御面は殆ど考慮されず、一撃で火を吹く場合が多い。また、搭乗員不足の為、1日に数回の出撃もしばしばあり、疲労が損害を増加させることにもなる。
こうした状況から、海軍としては中部ソロモンを米反攻阻止の要地と看做したにもかかわらず、航空攻撃は効果をあがらず、又も消耗戦の様相を帯びる。
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7月2日
・「上海共同租界を支那に還す。在支日本人はおそらく不平をいうだろうし、国内の右翼も憤慨するだろう。領土占領以外に、実際問題として何の支那問題ありや。領土拡張を目がけて、ここに至れるを彼らは心外に思うならん、そして東条首相に不平が集まらん。彼らは、
一、東条という軍部代表者を以てして、上海租界、治外法権を還附せざるを得ない事情を反省することはできないであろう。
二、武力政策が結局大損をすることも反省し得ないであろう。
三、世界および支那は、この日本の譲歩を、必ずサイン・オヴ・ウィーキネスと息うだろう。
四、形式的なことに重要性を置く現代日本の思潮がここにも現れている。すなわち形式問題を形付ければ(治外法権その他の還附)それで支那人は喜ぶだろうと思うことこれだ。彼らの欲するものはパンだ。法律ではない。
五、しかし一度、これを還附すれば、もはや永遠に権利は去ったのだ。これが果して支那と、世界のためだろうか。治外法権は別として、租界は支那に害悪を与えたりや。
六、共同租界を還附したことは、支那人の内争問題からみても、謬りであったと予は思う。ただし、どうせいつか還さねばならぬ。今還すことは結局いいだろう。この政治をやっている以上は。
昨夜のラジオで五大地方長官出現を知る。府県ブロックを破るために地方区域を作るのだ。これは間接には、政府が府県ブロックを破り得ず、その解決策としてここに出でた告白である。思想が封建主義となれば、国内と地方の事情も封建主義的となる。思想は孤ならず。」
(清沢『暗黒日記』)
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7月2日
・米政治調査部のJ・W・マスランド(スタンフォード大学教授)、領土問題小委員会に対して琉球戦後処理に関する3つの選択肢を提示。
(1)日本の非軍事化を条件として日本による琉球保有を認める
(2)上の理由から琉球を国際的管理下に置く
(3)琉球を中国に移譲。
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7月2日
・ドイツ『ギュンター』作戦(スモレンスクにおけるソ連パルチザン掃討作戦)
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7月4日
・東条首相兼陸相、タイのブビン首相訪問。
5日、シンガポール到着。
7日、ジャカルタ訪問。

訪問に先立ち、タイのピブン首相に英国に取上げられていたマライの北部4州・東部2州をタイに返し、その上で大東亜会議出席を呼び掛けようと画策、東條は南方軍総司令官寺内寿一に打診するが、寺内は、「タイの協力態度は怪しい。日本側の勝利にも疑念をもっている。そうしたタイに、旧英国領を与えても有難迷惑だろう」と、東條の案を一蹴。
東條は、バンコクでビプンの儀礼的な歓迎を受け、日泰共同声明が発するだけで、シンガポールに向かう。

シンガポール市民の空気は冷たく、南方軍総司令官官邸での東條の訓示は、寺内や幕僚たちから嘲笑される。寺内は東條を嫌い、幕僚も東條を中傷する者が多い。
幕僚稲田正純の日記、
「東亜民族大同団結をするという一入合点の、冷かせば悪足様きの弁」と大東亜会議を酷評。

東條は、シンガポールにビルマのバーモ首相を呼び、独立準備を確かめ、新しく英国領だった2州をビルマ領にすると約束。バーモは東條の言を受け入れ、大東亜会議出席を約束。
更に、チャンドラ・ボースとも会う。ポースは、「自由インド国民軍にぞくぞく入隊志願者が殺到している」と東條に感謝を伝え、強力支援の継続を要望。

独立運動を続けるスカルノとハッタが日本の占領地行政に不満を洩らしている事が、東條の耳に入り、それを確認する為、ジャカルタ訪問は突然決まる。
独立運動の闘士たちは、東條の、緩やかに独立を認めるとの議会演説に失望し、しかも民族の誇り無視する日本軍の統治は、国民の日本への期待を急速に萎ませている。

独立運動を支える陸海軍将校や民間人は、東條にこの苦境を伝えられないか考えていたが、そんな折り、青木一男大東亜相がインドネシア視察に来たので、独立運動指導者4人(スカルノ、ハッタ、デハントロ、マンスール)は、日本軍将校と民間人の助言で、東條宛ての要求書を作る。
①戦後のインドネシアの地位の明確化。当面の日本陸海軍政の一本化。
②民族旗掲揚、独立歌高唱許可。
③日本人の粗暴な態度を改める。
日本側将校は、これを「海軍」の便箋にタイプを打ち、青木に渡し、青木はこれを東條に渡す。東條は、この運動の背後に海軍が糸を引いていないか調べ、結局、海軍の若い士官や民間人が、独立運動を熱心に応援しているだけとわかり、東條は、憲兵に彼らの動きの監視を命じる。
東條は、陸軍将校に要求書の事実を確かめ、独立運動が行き過ぎて反日運動に転化しないように、厳重に釘をさす。
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7月4日
・クラ湾夜戦。
~6日、コロンバンガラ島増援部隊と米艦隊の遭遇戦。第3水雷戦隊全滅。日本駆逐艦2、米軽巡1。

秋山輝男少将は、コロンバカラ島・ニュージョージア島への陸軍増援部隊輸送の為に、麾下の艦隊を支援隊、第1次輸送隊、第2次輸送隊の3個部隊に編成し出撃させる。
5日午後11時5分、コロンバカラ島・ニュージョージア島間にあるクラ湾を航行中、「新月」が米艦隊を探知、午後11時36分、ウォーデン・エインスワース少将率いる第18任務部隊軽巡「ヘレナ」のレーダーが日本艦隊を捕捉。
米艦隊のレーダー射撃は「新月」に集中、艦橋を直撃され秋山少将以下第3水雷戦隊幕僚全員が戦死。「新月」被弾直後、「涼風」「谷風」が砲雷撃を開始、「ヘレナ」沈没。その後、米艦隊は反転再攻撃しようとするが見失い戦闘終了。
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7月4日
・米軍、ニュージョージア島ムンダ東方海岸と裏ムンダのライス湾に敵前上陸。
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7月4日
・インド独立連盟大会、シンガポール、ビハリ・ボース引退(最高顧問に)。新総裁チャンドラ・ボース。
5日、.正式にインド国民軍編成発表。
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7月4日
・ポーランド亡命政府首相兼最高司令官シコルスキ将軍、ジブラルタル海岸沖で飛行機事故・死亡。
13日 後任にミコワイチェク、就任。
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