2015年1月26日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(57)「宮廷画家・ゴヤ」(4) : 「フランス革命とスペインの異端審問所、それが当時としての現実であった」

北の丸公園のウメ 2015-01-26
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フランスからスペインに流入する不穏文書
「政府と異端審問所の眼から見ての不穏文書は、フランスとの国境地帯や港だけではなくて国中から水が湧いて出るように出て来た。異端審問所が眼をまるくしなければならなかったのは、バレンシアの一司教が、人権宣言や封建諸制度廃止宣言その他の文書をコピーしては人々に配布していたことであった。
郵便局は外国から来るあらゆる小包、手紙の検閲を命じられた。パリ駐在大使は在仏スペイン人にフランスの情況を故国に知らせてはならぬと命じた。それでも文書の密輸と配布は絶えなかった。フランス国民議会は、スペインを標的として積極的に宣伝文書の密輸と配布に努力していたのである。スペイン北部に突如として多数のフランス人研ぎ屋や鋳掛け屋が出現した。リヨンから輸入したマッチには、”自由万歳”と印刷してあった。また田舎では”マドリードで進行中の革命”についての報道等が浸透して行った。・・・
フロリダプランカ伯爵は、ついにスペイン在住一〇年以上の外国人は、王の臣下と見做す、それが厭なら出て行け、一時的旅行者は二週間以内に出て行け、さもなければ臣下と見做す、但し英国人は除外する(商業貿易上の理由による)という、無茶苦茶な命令を出した。同時にパリ駐在大使はフランス政府に革命的文書をスペインへ送らぬよう要請した。フランス政府の返答は、”言論の自由は人間の基本的権利”である、文句があるならフランスの裁判所へ訴えよ、というものであった。」

国内の啓蒙派弾圧
「・・・気負い立った異端審問所は、とうとうサン・カルロス銀行の取締役で、全欧的に影響力をもっていたカバルース伯爵に手をつけた。カルロス四世が彼に伯爵の位を与えたすぐ後である。スペインでも最北西端のラ・コルーニァの港町に追放され、そこで監禁された。これを伝え聞いてスペインを代表する大知識人であるホベリァーノスがカバルース伯爵との友情もあってその不当性を主張した。
ところが四日後に、彼自身、故郷のアストゥーリアスへ帰って、その地の炭鉱業についての報告書を書け、と命じられた。ホベリァーノスはマドリードにいられるあいだに、カスティーリァ評議会議長のカンポマネスにカバルース伯爵のために一肌ぬぐようにと求めた。カンポマネスは、その任にあらずと卑怯にも逃げ出したが、カンポマネス自身、議長職を解かれ、降等されてしまった。
一七九一年の冬には、マリアーノ・ルイース・デ・ウルキーホという二三歳の青年がヴォルテール著のフランス悲劇、シーザーの死なるものを翻訳して拘留された。」

情勢が変わった。フロリダブランカ伯爵は罷免され、アランダ伯爵が後継となる
「(ところが)・・・ルイ一六世が新フランス憲法を承認した。従ってスペインがフランス革命をいつまでも承認しないで敵対的態度をつづけ、戦争にでもなったら、ルイ一六世それ自体の運命が危殆に瀕する。
こうなれば、ブルボン家を守るために、その敵対的態度の象徴であるフロリダプランカ伯爵に出て行ってもらわねばならぬ。
後継者には誰がよいか。言うまでもなく、前フランス大使であったアランダ伯爵を措いては他にいない。
・・・
・・・カルロス三世につかえたときのアランダ伯爵のしたたかな活躍ぶり・・・。エスキラーチェ暴動事件というものを片づけ、イエズス会追放の大陰謀を成功させた・・・。
ウルキーホ青年は助けられた。ヴォルテールはアランダ伯爵の先生でもあり友人でもあったからであり、青年は総理大臣官房秘書官になった。」

皮肉な運命のフロリダブランカ伯爵
「・・・フロリダブランカ伯爵は郷里のムルシアヘ帰り、そこで大歓迎をうけたが、やがて逮捕されてバンプローナの要塞に幽閉された。容疑は公金横領にあるということであった。ということは、理由のつけようがなかったということであろう。
フロリダプランカ伯爵の運命は皮肉なものであった。・・・もし革命なしでの、立憲君主制、国王による憲法承認であったならば、おそらく伯爵も両手をあげて歓迎したであろう。それがカルロス三世に長く仕えて来た啓蒙派全体の理想そのものであったからである。」

異端審問所の総長の苦情
「一七九一年になると、異端審問所の総長は、マドリードの法曹界が、フランスでの経験は悪いものではなかった、などと言い出しているが、と苦情を言い出す。アランダ伯爵が手をつけさせなかった・・・」"

異端審問所は全国的に上を下への大騒ぎをしたけれども、実はそれほどのことでもなかった
「スペインにとっての不穏文書・・・。
・・・そういう文書が何等かの影響を与えうるためには、まず第一に、何よりも文字が読めなければならない。スペイン語に訳されたものはごく少数であったから、フランス語が読めなければならない。
従って異端審問所は全国的に上を下への大騒ぎをしたけれども、実はそれほどのことでもなかった・・・。
それはほんの少数の知識人のあいだでのことであり、一般民衆に影響を与えるものではなかった。このことは銘記しておかなければならない。そうしてこのほんの少数の知識人のなかでも、王の政府と異端審問所に抗してフランス革命の理念と理想を人々に伝えようとした人は、ごくごく少数であった。
そうしてこのごく少数の人々の中にも、現政府を打ち倒して、フランス人たちのように人民自らがおのれの運命を打開するための責任をとる、といった考え方をする人は、まずいなかった。
人口の大部分を占める、文盲の民衆は、自分の住む村、町の外のことは何一つ知りもせず、関心もなかった。
もしフロリダプランカ伯爵があれほどに強力な防疫体制をしかなかったとして、もっと自由に革命宣伝文書が入って来ていたとしても、言うまでもなくそうなればフランス革命に対する同情同感をもつ層はふえたであろうけれども、封建制や貴族制度の廃止といったことまでを考え、これを実行しようという人々は、スペインにはまずいなかった。」

フランス革命とスペインの異端審問所、それが当時としての現実であった
「フランス革命とスペインの異端審問所という対比は、これはまことに異様な、ある意味では言語に絶するものである。中世に向って立つ者と、近世近代に向って立つ者との背中あわせである。・・・
・・・フランス革命とスペインの異端審問所、それが当時としての現実であった。・・・
スペインでは当時の大知識人のほとんどは、みな一度も二度も異端審問所の厄介になっているのであり、かつその全部がゴヤにとっての有難い知人であり友人でもあったし、その大部分の人々の肖像画をも描いているのであったから、ここで当時の異端審問所の活動とそれが知的、芸術的活動に与える深刻な影響とを概略のところで見て行きたいと思う。」

1481年~1808年(327年間)、異端審問所で刑を受けた者:34万1,021人
「ゴヤの友人でもあった異端審問所官房長のフアン・アントニオ・リォレンテの計算によると、一四八一年から一八〇八年までに刑をうけたものは次の通りである。

火刑に処せられた者、三万一九一二人。
人形や似顔絵のみを火刑にし、本人は終身刑にされた者、一万七六五九人。
重刑に処せられた者、二九万一四五〇人。
合計で、三四万一〇二一人。」
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