2015年1月27日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(9) 「5 麻布十番までの道」 (その1) : 「私には『狐』における裁判に対する疑惑や、『花火』における《良心の苦痛》や《甚しき羞恥》というような表現を彼一流の弁疏ないし文学的修辞とみて、あまりまともに受け取ろうとする気が起らない。振り廻されることを避けて通り過ぎるほうが、無難だという思いが強い。」

ウメとメジロ 2015-01-27 江戸城(皇居)東御苑
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 「《私は御存じの通り其後偶然にも欧羅巴の空気に触れた。耳新しい様々な響は此れまで保つて居た私の思想を滅茶々々にかき乱してしまった。私はもう二度とあの当時のやうなしめやかな感興で、深川の水と島田の娘を見る事ができない。今日もし私が洲崎の水楼に上つて夜半の絃歌を聴き、図らず一点の暗涙を落し得たとするならば、それは掛言葉で飾られ、七五の調子で綴られた憂川竹(うきかわたけ)の恨(うらみ)の唄そのものが私を泣かせるのではない。同じその唄を聴いて心の底から泣く事ができた十年前の私の身の上を、今の私が泣くのである。滅びた時代の思想をば押移つて来た次の時代から振返つて見た時、こゝに生ずる無限の暗愁は・・・・あゝ然(さ)うでした。私は巳に「深川の唄」と云ふ小篇 - お読みになりましたか - 私はあの小篇の中にも書いて居た。》

 『冷笑』の第四章『深川の夢』における作中人物吉野紅雨の述懐という形をかりてはいるものの、荷風のいわゆる花柳小説が、こうした心境のもとに書かれたものであることを看のがしてはなるまい。とくに、ヨーロッパの空気によって思想をかき乱された自分が、《もう二度とあの当時のやうなしめやかな感興》を取り戻すことができない人間になっているという点には注目を要する。先まわりして言っておけば、花柳情緒に陶酔する感受性がすでに磨耗してしまった地点で、彼の花柳小説は書きはじめられているのである。」

 「荷風には、自己自身の文学についての解明的な文章がすくなくない。そして、それがエッセイにのみとどまらず、たとえば右の 『冷笑』とか、『濹東綺譚』 のような作品のなかにまでみいだされるのが一特徴である。」

 「ここに取り上げることすら気はずかしいほどしばしば引き合いに出される例の『花火』のなかの、彼が大逆事件の容疑者を護送する囚人馬車をみて、《世の文学者と共に何も言はなかった》おのれを恥じた結果、《自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。》という記述なども、私にはまともにのみくだすことがためらわれる。がんらい荷風には、自身のいかなる言動に対してもなんらかの理由づけをせずにいられぬ性情がある一方、健康状態などについても誇張癖がいちじるしいが、囚人馬車をみても痛憤の念を一字も書きあらわさなかった心のいたみが花柳小説に筆をそめる動機であったなどとは、いかに時間的な符節が合っているとはいえ、こじつけも度が過ぎるというものだろう。」

 「なるほど文明批評家というきわだった一面をもつ荷風は、他の同時代作家に比して段ちがいに社会的関心がふかい。前章でも引いておいた《九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な「明治」》というようなきわめてアクのつよい反権力的言辞は、いたるところに見いだされる。が、それらはいずれも一社会人としての冷静な批判ではなく、まことに一方的な個人的気質から発したイヤミ、ないしは私憤的な様相をおびていて、正常な意味での思想的煩悶や痛苦などはカケラほども感じられない。どだい荷風は、社会主義的な世界観など持たぬ、政治社会の進歩改良というような精神とはまったく無縁の存在なのである。したがって、私には『狐』における裁判に対する疑惑や、『花火』における《良心の苦痛》や《甚しき羞恥》というような表現を彼一流の弁疏ないし文学的修辞とみて、あまりまともに受け取ろうとする気が起らない。振り廻されることを避けて通り過ぎるほうが、無難だという思いが強い

 それにくらべれば、『花火』とまったく同一主旨のことをのべていても、昭和七年に書かれた『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』のほうがはるかに穏当で、妙なこじつけがないだけ自然な説得力をもっている。

 《大正改元の頃にはわたくしも年三十六七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。(略) 日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持ってゐる。わたくしは専(もつぱら)これ等の感慨を現すために「父の恩」と題する小説をかきかけたが、これさへやゝもすれば筆を拘束される事が多かつたので、中途にして稿を絶つた。わたくしはふと江戸の戯作者又浮世絵師等が幕末国難の時代に在つても泰平の時と変りなく悠々然として淫猥な人情本や春画をつくつてゐた事を甚痛快に感じて、ここに専花柳小説に筆をつける事を思立った。「新橋夜話」または「戯作者の死」(=のち『散柳窓夕栄』と改題)の如きものは其頃の記念である。》

・・・私は右の一節のうちでも特に《筆を拘束される事が多かつた》ことから《江戸の戯作者又浮世絵師等》を想起したという点に注目したい。そし当時の彼がこうむった自著 - 『ふらんす物語』(四十二年三月)、『歓楽』(同年九月)に対する打ちつづく発売禁止処分こそ、かえって意地になって花柳小説におもむかせた直接の動機ではなかったろうかというふうに考えてみたい。・・・(同じ文章の続き)

 《わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮気兼をする事がなくなったので、おのづから花柳小説「腕くらべ」のやうなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好みは追々芸者を離れて演劇女優に移りかけてゐたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、其生活風俗を描写して置かうと思ったのである。カツフヱーの女給は其頃には猶女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見られてゐたが、大正十年前後から俄に勃興して一世を風靡し、映画女優と並んで遂に演劇女優の流行を奪ひ去るに至った。しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では女給の流行も亦既に盛を越したやうである。是がわたくしの近著「つゆのあとさき」の出来た所以である。》

・・・、風俗小説といえども、けっして流行の波にのって執筆するのではなく、むしろその潮がひいてからのちに自分は対象に立ちむかっているのだと力説しているのであって、『腕くらペ』や『つゆのあとさき』にかぎっていえば、たしかに彼の言うとおりに相違ない。が、外遊以前の芸妓ものや、名作のひとつである明治四十二年七月の『牡丹の客』などは別として、一般に荷風の花柳小説ともくされているもののうちの最初の作品群にあたる『新橋夜話』一連の諸短篇は、かならずしもそういうものではなかった。・・・」

 「・・・大正五年から翌六年にかけて執筆された『腕くらべ』の第七章『ゆふやけ』のなかにも《千人近い新橋の芸者》とあり、第十章『うづらの隅』には《新橋南北壱千八百有余名》という記述がみられる。《南北》の《南》は南地、すなわち鳥森で、他土地といえばいえぬこともないにせよ、これを『近世日本世相史』中の明治四十一年度における全東京の芸妓総数三千八百という数字に照合すれば、花柳界の灯はとぼしくなっているどころか、いっそう煌々ときらめきわたっていたとみるほかはあるまい。」

「・・・『新橋夜話』は、そうしたいわば全盛期の花柳界を背景として次々に制作された諸短篇にあたえられた総題で、『新橋夜話』という作品があるわけではない・・・」
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