2015年2月15日日曜日

比 マニラ市街戦から70年で慰霊祭(NHK) / [証言記録 兵士たちの戦争] フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~ / マニラ市街戦から70年-当時の状況を伝える大統領府特設写真サイトも / マニラ市街戦70周年追悼式典が行われ、遺族が日本政府に謝罪要求(まにら新聞) : 「 「70年前に起きたことを非難したり、復讐(ふくしゅう)したいのではない。事実を認めて謝罪するよう日本に求めているだけだ」と述べた。また、日本政府に対し「歴史を書き直すのはやめてほしい」と注文をつけた。」       

NHK
比 マニラ市街戦から70年で慰霊祭
2月14日 14時21分

太平洋戦争末期、フィリピンの首都マニラで旧日本軍とアメリカ軍が激しく戦い、市民などおよそ12万人が死亡したとされる「マニラ市街戦」から70年となるのに合わせて慰霊祭が営まれ、生存者たちが凄惨(せいさん)な戦争の記憶を伝える大切さを訴えました。

慰霊祭はマニラ市内に建立された慰霊碑の前で行われ、市街戦を生き残った人たちやアメリカ兵の親族、それに日本で戦争体験者の証言記録に取り組むNPOなどが出席しました。

「マニラ市街戦」は太平洋戦争末期の1945年2月、市内を占領していた旧日本軍とアメリカ軍の間で1か月にわたって続いた激しい戦闘で、両軍合わせておよそ1万8000人の兵士と市民10万人が死亡したとされています。

慰霊祭では、当時7歳だったフィリピン人の男性が、市街戦で多くの民間人が旧日本軍に殺害されたり、アメリカ軍の砲撃に巻き込まれて死亡するのを目の当たりにし、みずからも母親を失った体験を話したうえで、「日本を恨んではいないが、日本にはかつてこの地で何をしたのかを認識してほしい」と訴えました。

また、日本のNPOの代表は「市街戦は残念なことに日本ではあまり知られていないが、歴史を後世に伝え、次世代の対話を紡ぐ努力をしていきたい」と話しました。

マニラでは来月まで写真展や戦争体験者の話を聞く催しが各地で開かれるなど、戦争の記憶を伝える取り組みが続きます。


[証言記録 兵士たちの戦争]
フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~

YAHOOニュース
マニラ市街戦から70年-当時の状況を伝える大統領府特設写真サイトも
みんなの経済新聞ネットワーク 2月14日(土)18時30分配信

第二次世界大戦中の1945年2月3日から3月3日まで行われた「マニラ市街戦」から70年がたった。大統領府は特設写真サイト「Battle of Manila 1945」を設け当時の状況を伝えている。(マニラ経済新聞)

市街戦で廃墟となったマニラ、市民の犠牲者数は約10万人といわれる

マニラ市街戦は3年前に日本軍が占領したマニラを連合国が奪還した戦い。市街戦は1カ月間続き、マニラは廃虚となりマニラ市民約10万人が犠牲となった。当時マニラには約70万人の市民がいたといわれており、約7人に1人が犠牲となる大惨事だった。「市街戦によって市民に犠牲者を出さないように」と日本軍の一部はマニラを放棄したが、残った日本軍はマニラ市を盾に戦い壊滅した。

この市街戦において当時世界で一番美しい街「東洋の真珠」と呼ばれたマニラの市街地は徹底的に破壊された。16世紀にミゲル・ロペス・デ・レガスピがマニラの元となる城壁都市「イントラムロス」を作って以来の350年以上にわたる歴史的建築、遺物、美術品はほぼ全てが失われた。350年の歴史が1カ月で奪われたともいわれる。このマニラ市街戦による首都の喪失が戦後のフィリピンの復興、発展に暗い影を落とし続けた。

特設サイトでは231枚の写真が掲載されており、破壊されたマニラの街並みや生き残った市民の生活、進駐したアメリカ軍の様子がうかがえる。街頭でのインタビューで日本人はあまりマニラの市街戦について学校では教わらないことを伝えると、大学生のアンドレ・メジナさんは「フィリピンではマニラ市街戦の規模や犠牲者の数は小学生でも教わっている。現在、両国は非常に親しい関係にあるが、フィリピン人の日本に対する好意は、マニラ市街戦の悲劇や日本が起こした戦争によって身近にいる祖父や祖母が受けた苦しみを乗り越えてつくられたことを忘れてほしくない。フィリピンは決してマニラ市街戦を忘れないし、日本は忘れてはいけない」と驚く。「私は日本食も大好きだし、日本にも大変興味があり将来訪れたい。日本人にも、もっとフィリピンの歴史や文化に興味を持ってもらえたら」とも。

みんなの経済新聞ネットワーク




まにら新聞 2月15日のまにら新聞から
マニラ市街戦70周年追悼式典が行われ、遺族が日本政府に謝罪要求
[ 970字|2015.2.15||政治 ]

 太平洋戦争末期の1945年2月から1カ月間、旧日本軍と連合国軍との戦闘に巻き込まれ、在留外国人を含むマニラ市民10万人が犠牲になった「マニラ市街戦」の70周年追悼式典が14日、首都圏マニラ市のイントラムロスで開催された。遺族団体「メモラーレマニラ1945」のジョン・ホセ・ロチャ代表は「日本に(加害の)認知と謝罪を求めたい」とスピーチで呼び掛けた。また、同団体が20年前に建立した慰霊碑の前で、日本軍による虐殺現場を列記した記念碑の除幕式も行われた。

  ?追悼式典にはゴールドバーグ駐比米大使やメキシコなどの各国大使館の大使や代表のほか、ラモス元大統領も参加した。日本大使館からの参加はなかった。遺族たちは大統領府に出向き、アキノ大統領に出席を要請したが、実現しなかった。

 母親を含む親族14人を殺害されたロチャ代表はスピーチで「市民10万人のうち、虐殺などの日本軍による犠牲者は7万人に達した」とした上で、「70年前に起きたことを非難したり、復讐(ふくしゅう)したいのではない。事実を認めて謝罪するよう日本に求めているだけだ」と述べた。また、日本政府に対し「歴史を書き直すのはやめてほしい」と注文をつけた。

 日本の市民団体で唯一この追悼式典に毎年招待されている「ブリッジ・フォー・ピース」で理事を務める東海学園大学教授の淺川和也さんは「残念ながら、多くの日本人がマニラで戦争が起きたことを知らない。この歴史を忘れず、また子どもたちを再び戦場に送らないよう、もっと伝える努力をする必要がある」と述べた。

 マニラ市街戦など歴史に関する著作や映像作品を制作する作家や研究者たちが作った組織「AVマニラ」の事務局を務める学術調査員のクリスティーナ・ランチェさん(50)は「医師が患者の受けた傷を癒やすためにはその原因を突き止める必要がある。戦争中に受けた傷を癒やすのも同じで、何があったのか事実を知ることが大切だ」と追悼式典の意義を強調した。

 式典に参加した在比40年を超える高木妙子さん(68)は「71年に来た当初はフィリピン人から『戦争のことは知っているか』と何度も聞かれた。当時、反日感情が強かったが、観光促進に力を入れたマルコス政権の(72年からの)戒厳令で様子ががらりと変わってしまった」と話した。(澤田公伸)








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