2015年3月24日火曜日

昭和18年(1943)9月11日~9月17日 南方軍稲田正純参謀副長、インパール作戦に不同意のため更迭 「・・・口に和平建国を唱え心に抗日を唱うるは汪(兆銘)なりとの悪評もあり。・・・帝国は国を賭して江と心中する要なし・・・」(「大本営機密作戦日誌」)

アマギヨシノ 2015-03-24 江戸城(皇居)東御苑
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昭和18年(1943)
9月11日
・「各新聞のイタリア攻撃ますます猛烈 -
バドリオの背信許さず - 帝国の抗議通告
ただ遁辞(とんじ)のみ、伊大使館休戦経緯〔?〕を通達
武力に自信なき当然の卑劣手段 - 以上『読売』 -
東亜各地からの留学生を日本的に指導するそうだ。この程度の知識の国民が、他国民などを指導できるものか。
昨日まで「イタリー、イタリー」といっていたのが、今日は文芸欄その他まで動員しての悪口だ。日本の新聞には小学校生徒の常識と論理もないらしい。
ファッシスト新国民政府がイタリーにできた。絶対主義的心構えにあっては、一つの政府をその内容から変えることはできない。常に同志的人物の出現を促してこれを利用する。妥協ではなしに、闘争だ。
ドイツのやり方は全部それであり、日本とても同じだ。国際政局においては、しかしそれは非常に犠牲が多いのである。
晩、国民学術協会に出る。僕が「日本の現状は、これが普通なのか、悪いところが出ているのか」というと、和辻哲郎が「ウォースト(ワースト)」だという。三木清君は、国民の知的レベルが低いからだという。
三木君は現戦争にマルクス主兼の重要性を認め、和辻博士と予はナショナリズムであるという。予は「今、どこの世界において「横(ママ)」の現象があるか。国家と国家との争いではないか」といった。」(清沢『暗黒日記』)
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9月11日
・~12日、ソ連、モスクワ郊外捕虜収容所ルニョヴォ、「ドイツ将校連盟」結成、代表砲兵大将ヴァルター・フォン・ザイリツ・クルツバハ
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9月11日
・フランス、「ベスビアス」(コルシカ島奪回)作戦。ジローの北西アフリカ軍と国内レジスタンスが共同してコルシカ島解放。
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9月11日
・イギリス『ハンドカフ(手錠)』作戦(ロードス島占領作戦)
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9月12日
・シンガポールの寺内総軍司令官官邸、南方軍参謀長会同。
ビルマ方面軍中参謀長、第15軍久野村参謀長・情報主任参謀藤原岩市少佐を帯同。南方軍稲田正純参謀副長、再び第15軍の作戦内容に不同意。
10月1日、稲田、総軍司令部付から第19軍司令部付に転出。後任は大本営第1(作戦)部長綾部少将。東條と富永恭次陸軍次官(中将)の人事。
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9月12日
・ドイツ『オークツリー(樫の木)』作戦(ムッソリーニ救出作戦)。
国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世にアペニン山脈中に幽閉されていたムッソリーニ、ドイツ軍に救出、身柄をドイツに移送
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9月12日
・ドイツ軍クバニ半島から撤退
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9月12日
・連合軍『バタリングラム(破壊槌)』作戦(フランスへの潜入工作員の空輸と回収作戦)
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9月13日
・モロトフ・ソ連外相、9月10日の佐藤尚武駐ソ大使の申入れに対し、独ソ和平の意志なしと拒否。
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9月14日
・フランク・ティース「ツシマ」(下)、日本海海戦誹謗として発禁。
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9月14日
・ブーゲンヴィル島、ブイン航空戦
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9月14日
・「昨日の国際関係研究会で、僕は、ソ連が日本のなし得る唯一の外交対手だから、せめてまず東部戦線の戦況を報ずるのに公平にせよ、それから満州方面で非武装地帯でも造って、大軍を支那に廻せと主張した。
ソ連が宗教を利用しつつあるのは、それだけイデオロギーの色が薄くなった事を示す。日本が一部のファナチック中心に運転されているに一歩を先んじているということだ。」(清沢『暗黒日記』)
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9月14日
・イギリス軍、コス占領
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9月14日
・小規模のフランス軍、サルジニア島に上陸
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9月15日
・南東支隊(佐々木登少将)第13連隊(友成敏大佐)、コロンバンガラ島よりアルンデル島へ逆上陸敢行。連隊長友成大佐・連隊長代理鷹林宇一少佐戦死。
この日、第8艦隊木坂先任参謀がコロンバンガラに来て、撤退を告げる。

ブーゲンビル島ブインからコロンバンガラ島への食糧補給が絶え、9月25、26日頃には尽きる見通しとなり、米軍がニュージョージア、アルンデル、ベララベラに分散している今の内にこれを叩くとの結論を出す。しかし、戦車に対抗する砲はなく、機関銃・小銃・手榴弾の肉弾攻撃では海岸線2kmを死守するのが限度。

撤退は、21日アルンデル島の13連隊をコロンバンガラに撤退させ、28日コロンバンガラの陸軍、10月2日コロンバンガラの海軍と司令部の順となる。
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9月15日
・イタリア降伏に関する日独共同声明、同盟を再確認。
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9月15日
・産業組合中央金庫、農林中央金庫に改組。森林組合系統も加入対象となる
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9月15日
・イタリア共和政府が樹立
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9月16日
・方面軍、十八秋冀西作戦(「オ号作戦」)を実施、第1軍、駐蒙軍の一部が参加(~12月10日)。
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9月16日
・東方問題研究所「日本戦争経済の再編成」(中・下)発禁
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9月16日
・「昨日、汽車中でアーネスト・サトーの『幕末回想録』(訳)を読み終う。非常に面白かった。いかなる一つの書よりも、豊富に幕末のことがこの書に盛られている。かれは各方面の人と交った。西郷・大久保・勝・中井〔桜州〕その他ことごとくかれの友人だ。そこから話しを開くのである。ミカドに大権が行くのを努力した。それにしても英人は勉強する。
サトー、ミットフォード、アダムズ、オリファント、オルコック、いずれも大部な書冊を後世のために残している。彼らは若くして日本に来て、その地で勉強したのだ。
日本は伊大利の変節を観て憤慨するが、イタリーがこういったらどう答えるだろうか。
一、日本は、戦争のため、どれだけ助けてくれたか。
二、日本は満州事変以来、旧条約は新事態に適応しない場合には、いつでも破っていいという立場をとっているではないか。今回のイタリーの場合がそうであった。
三、ムソリーニ没落はすなわちイタリー政策変改の論理的結論だ。しかるに日本の新聞は勝手に希望的観測を書いていた。これは日本自身の責任で、そんなことにまでイタリーは責任は負えぬ。
市原君(嶋中君の親類で機関長だった人)、嶋中君の山荘に来ているが共に旧軽井沢に赴く。
大洋丸は千数百人の内、二十数名しか助からなかった。輸送船の場合には陸軍の中佐が司令官であるが、この人の司令の下に船長はある。しかるに彼らは船の事は知らぬ。船が異変ある際、陸軍中佐が命令するのである。太洋丸の場合にも、その処置について争ったらしい。船長も司令官も死んでしまって知るに由ないが。
この命令系統については、海事裁判の時にも、一切触れてはならぬと命ぜられている。船長は海軍大尉担当官だが、陸軍々属になって、一切陸軍の支配下にある。そうしたことから不必要なる犠牲も出るものらしい。 - 沈没した事情は全然口外することを禁ぜられている。そういうわけで謬りが正される機会は全くないのである。」(清沢『暗黒日記』)
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9月16日
・ビルマの防衛軍、国民軍と改称
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9月17日
・汪兆銘の評判。
「・・・口に和平建国を唱え心に抗日を唱うるは汪なりとの悪評もあり。汪の対重慶工作を云云するは、之によりて帝国の重慶工作を妨害し、明哲保身を図らんとするに在るは明瞭なり。帝国は国を賭して江と心中する要なし・・・」(この日付「大本営機密作戦日誌」)。
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9月17日
・「ムソリーニは共和ファシスト党を結成して五ヶ条の宣言をなした。かれは公然伊国皇帝を否認するのである。しかし皇室中心主義の日本が、共和ファッシスト党を後援してそれで筋が通るのだろうか。時勢に押されて、日本と相容れない立場をとることが、やがて大問題になることを指導者は考えているだろうか。」(清沢『暗黒日記』)
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9月17日
・ソ連軍、ブリヤンスク占領
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9月17日
・連合軍、サレルノで突破
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