2015年4月19日日曜日

「沖縄近現代史の中の現在」 (その1) (比屋根照夫 『世界』2015.4臨時増刊) : 「他愛心は人間の情の中でも最も高尚なるもので、劣等民族は他愛心が薄い。自己以外の民族を愛すると愛せざるとは直ちにその国民的品性の高低を測定する尺度になる。この点から見ると日本人はたしかに一等国民ではない」(伊波月城)     

沖縄近現代史の中の現在
比屋根照夫(『世界』2015.4臨時増刊 - 沖縄 何が起きているのか)
1939年沖縄県生まれ。琉球大学名誉教授。著書に『近代日本と伊波普猷』『自由民権思想と沖縄』『近代沖縄の精神史』『戦後沖縄の精神と思想』など。

1 自然への畏敬 古琉球の文化

辺野古の海は限りなく美しく、悲しい。ここは古来海の豊穣を人びとにもたらす沖縄の原風景の一つであると同時に今、野蛮な文明の暴力によって悲惨にも喪われようとしている。辺野古の海の生か死かは、二一世紀の人類の生き方の指標を間違いなく示している。本当にジュゴンが遊泳するあの美しくも母なる海を、コンクリートなど近代の暴力で埋葬していいのか。

思えば、辺野古沿岸の人びとは季節のサイクルにしたがって漁業を営み、生きてきた。海洋民族である沖縄・琉球人はそうした海の恵みを受けてきた。あの辺野古の海にさながら沖縄戦の時のように、海自、海保の埋め立て船が集結し、この海を守ろうとする市民のカヌー隊を暴力的に排除する。この暴力は一体何なのか。想像していただきたい。ここ深海一〇〇mに埋め立て用のブロックが建設され、そこにあらゆる土砂が流し込まれる。思うだに無残で、悲惨な光景ではないか。この国は今一番大事な自然を破壊し、琉球・沖縄文化の根底を破壊しようとしている。

それにしても、日本国家は琉球・沖縄人が海を如何に住民の生活に必須なものとして生きてきたか、そのことに思いを致したことがあるのか。海を殺すことは人間を殺すに等しい。

試みに、悲哀の想念を込めて琉球の古典『おもろそうし』の古代歌謡を見てみよう。そこには自然と一体化した古琉球の人びとの畏敬・畏怖の念が多数歌い込められている。近代の傲慢とはこうした古琉球の文化を平然と抹殺することだ。たとえば以下の琉球の古事歌謡「おもろ」の美しさ、自然と人間の限りない融合を見ていただきたい。沖縄学の先駆者伊波普猷(いはふゆう)の大正末期のおもろ解釈は現代のおもろ学者の解釈よりも原初的で美しい。おもろの真髄に迫る、琉球・沖縄人の自然との融合、自然への崇拝。そこには近代の軍事的暴力、功利主義的な自然の破壊に対抗する古琉球の思想が鮮やかに謳いあげられているではないか。

あがる三日月がふし
ゑ、け、あがる、三日月や
ゑ、け、かみぎゃ、かなまゆみ
ゑ、け、あがる、あかぽしや
ゑ、け、かみぎゃ、かなまゝき
ゑ、け、あがる、ぼれぽしや
ゑ、け、かみが、さしくせ
ゑ、け、あがる、のちくもは
ゑ、げ、かみが、まなききおび

伊波普猷訳
あれ、天なる三日月は、
あれ、御神の金真弓(カナマユミ)、
あれ、天なる明星(アカボシ)は、
あれ、御神の金細射、(カナママキ)、
あれ  天なる群星(ムレポシ)、
あれ、御神の花櫛(ハナカザシ)、
あれ、天なる横雲(ヨコクモ)は、
あれ、御神の白布帯(ヌノオビ)、

伊波普猷の『おもろそうし選釈』は近代日本に大きな影響を与えた。あの柳田国男をして「南島の発見」と言わしめた伊波の輝ける業績である。地平線の彼方に「二ライカナイ」、理想郷、ユートピアを夢みる沖縄の古代抒事詩を、伊波は類まれなる古代的心性によってこのように訳した。これについて伊波は以下のように述べている。

「至って単純ではあるが、さながら希伯来(ヒブライ)の詩篇を誦する心地がする。ありきゑとのおもろさうし中に収めてあるところから見ると、これは多分南島人の祖先が夏の夜の航海中、熱帯の蒼穹を仰いで、星昴(せいぼう)の燦爛(さんらん)たるを観、覚えず声を発して、その美の本源なる神を讃美したものであらう。調自ら整うて、宛然奥妙なる音楽を聞くが如き思ひがある。しかもその想像の雄渾満天なる、到底梅ケ枝に鶯の声を聞いて喜ぶところの詩人が想ひ及ぶ所ではない」

それに反して、古代から連綿として続く沖縄の原風景を破壊しようとする軍事的・政治的野望と今我々は対峙している。あの豊穣の海に数トン級のコンクリート・ブロックを沈めることで、その果てに広がる母なる海の荒廃。これこそが琉球の固有文化の破壊であり、このような強権による琉球文化の破壊は明治以来かつてない規模だ。内外の海洋学者や生態学者や歴史学者がこぞって埋め立てを人類の遺産への破壊とし、その保護への警鐘を鳴らしているのは、事の深刻さを世界に訴えるためである。

2 日本の国家統合の危機

そして、その破壊を阻止することが今回の翁長知事登場の重要な意味の一つだ。その誕生劇はまさに体制変動とも言うべき沖縄の民意革命であった。それは単に政党間の政権交代という意味よりも沖縄がその変動を通じて、日本政府および日本のあり方を問うものであった。

考えてもみよ、あの権勢を誇る安倍政権が全国を制覇した中で、沖縄だけが日本全体で全く異質な方向を選択した。全国を席巻したアベノミクスの声高な経済成長路線の中で、沖縄の選択は明確であった。辺野古への新基地建設にノンの選択を強烈に提示したのであった。

今回の衆議院選挙はまさに辺野古の新基地建設への賛否が最大の争点であった。辺野古への新基地建設は、太田、稲嶺両県政でも、住民運動の高まりによって、実現しなかった。それは亡き我が旧友岸本建男名護市長の、基地建設への厳しい条件の提示によって阻止されたと言ってもいい。それはともあれ、そもそも仲井眞前知事は普天間基地の辺野古移転に反対し、県外移設を唱えて二期日の当選を果たした経緯がある。そればかりではない。沖縄自民党、国会議員に至るまで、辺野古移設反対、県外移設を公約として掲げたのである。とりわけ、公約を破棄し、政権中枢へとなだれ込んだ四選挙区の自民党所属議員の落選は、戦後沖縄の歴史が民意や信義に基づく公約を如何に重視しているかを鮮やかに表明したものであった。あえて指摘するが、戦後沖縄の政治の根幹は、何よりも主義や政策への節義・節操への道義的な姿勢であったといえる。

安倍政権へと全国が収斂される中でなぜ沖縄だけがその潮流とは逆に自主・自立・自己決定権の道を選んだか。もし沖縄の勝利がなければ安倍一色の日本はどうなったか。日本の民主主義は、沖縄という抵抗の拠点をなくしてはまさに崩壊寸前の政治状況になっていたであろう。しばしば言うのだが、日本は藤田省三がいう「安楽の全体主義」を謳歌し、福島や沖縄を忘れ果て、享楽の世界になだれ込んでいる

その中で、異端の沖縄は日本国家に今限りなく異議申し立てをしている。がしかし、その限界点を超える潮流が急速に台頭している事態を日本政府は肝に銘じるべきであろう。今、日本は佐藤優が鋭く予言しているように、「国家統合の危機」を迎えている。

それにしても、沖縄の民意革命を象徴する翁長知事が面会を求めても安倍首相以下の政府閣僚は今日まで知事と面接さえしようとしないというのは一体何を意味しているか。この際明確にしなければならないのは、日本の安保体制の重荷を背負った沖縄県知事がその公約・辺野古への新基地建設の中止ないし撤回を表明する場さえ与えられていないという事である。そのような日本国のありように沖縄はほとんど絶望の断崖の上に立っている。

思えば、日本という国家は沖縄にとって何であるのか。いま、繰り返し沖縄の人びとの脳裏をよぎるのはそのことだ。この問いに答えるために沖縄の近代から現在への歴史に戻ろう。そのことによって生々しく近現代沖縄の現在の姿が映し出されるであろう。

沖縄近現代史には画期・転換点と称すべきいくつかの歴史的時点があった。たとえば、琉球処分・沖縄戦・そして日本復帰などが典型的な事例だ。それらの事例はいずれも沖縄が日本国家に屈服・服従する事例であった。しかし、今回の事態をあえて画期とするにはそれだけの歴史的な理由がなければならない。その歴史的な経過を今改めて確認して見よう。まず琉球処分問題である。

琉球処分は琉球王国の圧倒的な多数の意思を無視して強行的に日本へと併合された事件である。これに対する琉球士族・民衆の抵抗は実に明治末期まで続いた。ここで琉球処分に抵抗した志士たちの声を聞いてみよう。

3 琉球処分の真実

近現代沖縄史は包摂・併合・分断・排除の歴史である。このキーワードの中に沖縄の苦難の歴史の一つひとつが無限に刻み込まれている。日本と清国の狭間にあって独自の国家として存在していた琉球王国。これを単に「国民国家」の「帰属問題」として琉球王国の国家意思を無視した明治政府。そもそも、「帰属」するとは、領土問題だけに止まらない問題であった。重要なことは、それまでの五世紀にも及んで独自に構築した琉球王国住民がどこに「帰属」するかの自己決定権にかかわる問題であったはずだ。しかし、明治政府はそれを一切無視し、強権的に琉球王国を包摂・併合、そこに日本帝国の境界線を引いた。それが一八七九(明治一二)年四月に断行された琉球処分の真実である。

明治政府は、その過程で琉球王国を「文明開化」に徹底的に背く「固陋(ころう)ノ幣」、「固陋偏癖旧章」、「頑癖固陋旧軍ヲ致墨守」と激しく論難し、明治日本の包摂に抵抗する琉球側に苛立ちをみせた。そのクライマックスが琉球処分官・松田道之の明治一二年六月の「沖縄県士族一般ニ告諭ス」である。松田は琉球士族を前にしてこのように言い放つ。いわゆる、「首里城明け渡し」のうすら寒い光景だ。

「子等ハ猶ホ悟ラズシテ旧態ヲ改メザルトキハ新県ニ於イテハ到底用ュルヲ得可ラサルモノトナシ百職皆ナ内地人ヲ取リ遂ニ此土人(琉球人)ハ一人ノ職ニ就クヲ得ル者ナクシテ自ラ社会ノ侮慢ヲ受ケ殆ド一般卜区別サルルコト恰モ亜米利加ノ土人(インディアン)北海道ノアイノ(アイヌ)ノ等ノ如キノ態ヲ為スニ至ルベシ」(カッコ内は筆者)

これが明治政府の端的な沖縄像の表明であった。アメリカのインディアン、日本国内の少数民族としてのアイヌ、それに類似する琉球 - 。事柄の本質はインディアンにしろ、アイヌにしろ、「国民国家」 の巨大な権力によって侵攻され、すべての価値を剥奪された民族の悲しい運命であった。まさに、琉球・沖縄の近代史への登場はこれらと同様にすべての価値を剥奪された形での登場であった。価値剥奪とは何か。インディアンやアイヌがもつ民族的な自負、伝統、アイデンティティを剥奪したと同じように、琉球・沖縄はその伝統的な価値、琉球・沖縄人としての人間的な価値を剥奪された。
まさに、松田が「百職皆ナ内地人ヲ取リ遂ニ此土人ハ一人ノ職ニ就クヲ得ル者ナク」と威圧するように、琉球処分以後の政治・社会状況は、「内地人」優位、より本質的には薩摩閥によって壟断される状況であった。このような琉球処分の強権的な価値剥奪の諸様相に画面する時、近代以降の「日本」と「沖縄」の関係をどのように捉えるかとの根源的な問いがうかび上がってくる。

4 断たれた友好の回路 士族知識人の抵抗

沖縄近現代史はまさにこの「関係」をめぐって展開された血のにじみ出るような苦闘の歴史であった。その苦闘の歴史を今いくつかの言葉で要約すれば以下のようになるであろう。憧憬・幻滅・離反・反逆 - 。これらの言葉の一つ一つが沖縄近現代史の時空間でそれぞれの経験と結びつき、そこに様々な「日本像」を描き出していく。とりわけ、この問題をめぐる知識人の苦悩は果てることなく、近代から現代へと無限の航跡を描きながら続いている。近現代沖縄精神史とはこのような苦悩の集積の上に成立する「物語」にはかならない。

その劈頭を飾るものこそ、以下に述べる琉球処分期の「亡国」の哀史であり、そこに近代日本に包摂・併合されることに敢然と抵抗する琉球士族知識人群像の姿がある。彼らは前記のキーワードを一気に駆け抜け、その最終局面、反逆へと向かった。そのうちの一人、幸地朝常は明治政府の強権的な琉球処分の断行に対して、断固たる抵抗の姿勢をとるべきことを訴えた(後多田敦「幸地朝常(尚徳宏)が与那原良傑(馬兼才)へあてた手紙」『うるまネシア』第8号参照)。

「日本官吏空勢ヲ張り凶兵銃器ヲ振テ改革ヲ迫ルト雖モ恐ル可カラズ屈ス可カラズ」。日本政府がたとえ武力でもって抵抗を抑えようとしても、それを恐れるな、屈するな。これが幸地ら急進派士族の抵抗の呼びかけであった。さらに「今般日本政府ノ令スル所百憂熱考シテ容易軽忽ニ事ヲ成ス可カラザルハ勿論」と述べ、「命ヲ絶チ其体ヲ切断粉骨スルモ領承」すべきではないと主張した。「百憂熱考」・「切断粉骨」。この言葉に社稷(しやしよく)滅亡の危機に瀕する琉球王国に一身一命をかけて守り抜こうとの烈々たる志士的心情が吐露されている。

また、幸地らと共に清国で琉球処分阻止運動を展開した亀川盛棟も帰国後逮捕され、那覇の獄中で官態の峻烈な尋問を受けた。亀川は「郷(くに)に回(か)えれども/家尚(なお)遠し/苦しみを受けて/恨み愈いよ探し」と日本政府への怨恨を謳いあげた。そればかりではない。亀川は「何ぞ随(したが)わん 新教化/改めず 旧衣冠」と日本政府の新しい沖縄教化政策に追従することを拒否し、琉球王国の伝統(旧衣冠)を断固として護持することを誓った。

これら王国末期の士族知識人にとって最大の事件は林世功の清国における自死であった。林世功は琉球処分が断行された翌明治一三年(一八八〇)、明治政府の提議による琉球分断条約を阻止すべく抗議の自死を北京で遂げた。この条約案は沖縄本島を日本の支配下に、宮古・八重山群島を清団に割譲する琉球分断を画策するものであった。

この条約案は明治国家の沖縄へのむきだしの暴力、国家エゴイズムを明示した近代史上最大の事例であった。そうした中でも、わずかに自由民権派の急進的理論家植木枝盛が、琉球王国の一体性に着目し、この琉球「分断」策を「野蛮不文」、「残忍酷虐」と厳しく批判したに過ぎないほど朝野の世論は冷淡であり、国を挙げてこの「分断」策を積極的に支持した。

他方、北京に亡命していた林世功は明治国家のこの暴力的な境界線の線引きに対し、一命を賭して琉球王国の社稷護持に殉じた。その辞世の詩には「国を憂い家を思いて既に五年/一死猶を期す社稷の存ずるを」との憂国思想家の想いが切々と謳いあげられている。

琉球処分から一二〇年余、「日本」と「沖縄」の関係は果たしてどう変わったか。そのアポリアは乗り越えられたのか。米軍基地問題で苦悩する沖縄の現実を目前にして脳裡をよぎるのは、「百憂熱考」し、「切断粉骨」の決意で琉球問題に献身した琉末志士たちの思いである。彼らの身体を貫く「国民国家」の境界線の重圧は、琉球とアジアの関係性へと連なっていく。

こうしてみると、アジアと沖縄の関係に大きな軋みを生み出し、決定的な断絶に導いたのは、明治一二年の強権的な琉球処分の断行であったことが了解されるだろう。これによって琉球とアジアを結ぶ五〇〇年に及ぶ友好の回路は絶たれた。

とりわけ、清国との伝統的な友好関係は明治政府の厳命で禁圧され、歴史の闇の中に葬り去られた。だが、歴史の地底から響いて来る琉末志士たちの声は、この厳命が国際社会における信義に反し、国と国の交流を無視するものであるとのメッセージを今も切実に伝えている。明治政府の命令に従い、清国との交流を絶つことは、「信無く義無く」、「禽獣」と何ら変わる所がない。これが琉球人としての彼らの矜持であった。

そこに琉球処分という非常事態に抗いながら、国際社会における信義・道義を重んじる琉球士族の姿勢がある。この切なる思いは明治日本に容れられることなく、彼らは「頑迷固陋」、「未開野蛮」の名の下に、近代日本の中から排除されていく。そして、近代沖縄は清国との五世紀にも及ぶ伝統的な友好の伝統を遮断され、ついに「脱亜」の荒野を彷徨することになる。まさに琉球処分の断行こそ、明治国家によって強要された「脱亜」への道であった。

5 奴隷的境遇の打破 伊波月城の声

そのアジア・沖縄関係史を真撃に追求した人物こそ、伊波普猷の実弟月城(普成)であった。アジアの植民地諸国に痛切に連帯の意思を表明した月城の言論は抑圧された沖縄の歴史を踏まえたものであり、それだけにその言論はアジアと沖縄の経験を通底するものであった。同時に、それは抑圧の歴史を受けた沖縄の経験から発するアジア観の表明でもあった。

近代沖縄の歴史を「奴隷の歴史」・「虐待の歴史」と捉えた月城は、それゆえに自己以外の民族への「他愛心」をこのように説いた。

「他愛心は人間の情の中でも最も高尚なるもので、劣等民族は他愛心が薄い。自己以外の民族を愛すると愛せざるとは直ちにその国民的品性の高低を測定する尺度になる。この点から見ると日本人はたしかに一等国民ではない」

このように日本人の「他愛心」の欠落を衝いた月城は、日韓併合に対して批判の声を上げない明治日本の知識人を痛烈に批判し、「権力の前に頭を下げて、憐れむべきものや、敗北者や、失意の人々のために一滴の涙さえ注ぐこと」が出来ないと述べた。

月城は日本の現状を批判しただけではなく、西欧列強のアジア侵略にも鋭い批判の目を向けた。とりわけ、フィリピンを植民地化し、アジアへと膨張するアメリカに対して「半獣的」国家へと転落したと断定し、「自由平等をそっちのけにして帝国主義を標榜」していると厳しく批判した。明治末期にアメリカを「帝国主義」国家と捉えた月城の鋭敏な視点は、その実相をこのように映る。

「殊に人道のために、又は奴隷解放のために、平等のために自由のために、多大の犠牲を払って戦った北米合衆国は今やワシントン建国の大精神をないがしろにして比律賓(フィリピン)を占領し、これに加え支那や朝鮮にまでも手を延ばそうとしている」

月城はこのように、人道・自由・平等の理念を高々とかかげ独立戦争を戦い、新興国を鼓舞した建国初期の輝ける理想と「半獣的」・「帝国主義」的な国家へと変化したアメリカの現状との矛盾を激しく打つ。

そこには、アメリカ革命に裏切られた月城の深い絶望の思いが漂っている。やはり月城にとって帰るべきはアジアしかなかった。大正初頭にノーベル文学質を受賞したインドの国民的詩人タゴールに対する月城の関心がそのことを示している。彼はタゴールの文学活動に寄せて、「印度民族自覚の時機は来た。例え彼等は過去に於いては頽廃していたにせよラビンドラナス・タゴレの出現に由来する印度民族の覚醒は、少なからず現代世界の人を驚嘆せしめた」と高く評価し、イギリス植民地下のインドの民族的な目覚めに深い共鳴を寄せた。

そこに近代日本の中で抑圧された経験をもつ沖縄の言論人ならではの「民族問題」への理解の深さが示されている。朝鮮・中国などをめぐって「歴史認識問題」が問われている今、アジアへの架け橋になろうとした沖縄言論人の言説こそ顧みられなければならない。沖縄とアジアを結ぶ太い線は、被抑圧者としての共通の体験だからである

その被抑圧者としての共通の体験は、近代沖縄においてどのような言説として実際に立ち現れたか。まさに、月城の以下の悲痛な叫びは、中国の魯迅が自国民の奴隷根性を解き放つべく言論活動を開始した位相に通底するものではないか。

「沖縄の青年諸君、諸君は二〇世紀の沖縄を双肩に負うて立つ可く生まれながらに運命づけられたのである。諸君にして今覚醒せずんば沖縄人は奴隷としてのみその生存を認めらるゝ境遇に陥るのは言はずして明らかなることではないか」

奴隷的境遇の打破 - 。これが二〇世紀初頭の沖縄で発せられた現状変革の声であった。この声は沖縄の現状に照らして病切な意味を持っているように思える。沖縄の現状は果たして奴隷的存在を離脱したと言えるのか。

(つづく)






















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