2015年7月30日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(71)「マドリード画帳 - 一つの裂け目」(2終) : 「この画家は、壁を破ってある場所へ突き抜けたか、と思うと、いつの間にかまたもとの場所へ戻ってしまうのである。サイクルを描いて、螺旋形に、ゆっくりと頂点へと達して行く。」

 ゴヤ『飛翔する魔術師たち』1794-95

ゴヤ『魔女の集会へ』1794-95
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「・・・ゴヤは実にいそがしい。
・・・一七九七年の黒衣のアルバ公爵夫人像からはじめて一七九九年の版画集『気まぐれ』発売まで、今度は主としてマドリードの開明派の知識人たちの肖像画を次から次へと二二枚描き、なかにサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会穹窿の大フレスコ画をも含めて、実に八面六骨の大活動を開始するのである。
そうしてわれわれの注意を惹くのは、この宮廷画家は、一七九一年の最後のタピスリー用のカルトンを描いて以後、実に一つも宮廷の仕事をしていないのである。・・・
・・・王妃マリア・ルイーサの怨敵アルバ公爵夫人のためには、二つも肖像画を描き、おまけにいまは、王妃にとっても、またアルバ家にとっても、もう一人のライバルであるオスーナ公爵家のために、魔女どもを描く六枚一組のものを制作している。」

ゴヤ『魔女の集会へ』1794-95
ゴヤ『飛翔する魔術師たち』1794-95

「オスーナ公爵家の別邸アラメーダのための六枚の空想画は、『悪魔のランプ』、『飛翔する魔術師たち』、『魔女の集会へ』、『魔女の集り』、『魔女の台所』、『石の客(ドン・ファン)』と題された、いずれも四二センチ×三〇センチの小さなもので、いずれも当時の芝居や小説に題材を求めたものである。
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けれどもそこに描かれた魔女たちの、その表情の愚鈍・無智、蒙昧さ加減は、これを仔細に見て行くとき、やはり肌に粟を生じさせるだけのリアリズムである。魔女の何のというよりも、これだけの人間観察が出来るということは大抵のことではなかった。
その点を除けば、これはタビスリー用カルトンの、その魔女版である。構図などもかつてカルトン用に使ったものをかなり流用している。
・・・『飛翔する魔術師たち』・・・、この股引きのようなものをはいて空中を浮遊する上半身裸の、三人の魔術師たちは、人間の屍とおぼしい肉体を運んでいて、それは不思議に浮遊という実感効果を発揮してい、しかもこの浮遊群の下に、それとまったく無関係に、一人の男が頭から布をかぶって一匹の驢馬をしたがえて歩いている。その無関係さが、かえって浮遊効果を強調する結果を来している。
そうしてこの男と驢馬が、タピスリー用カルトン『冬(吹雪)』からの応用か流用であることは、誰の目にも明らかであろう。」

「この画家は、壁を破ってある場所へ突き抜けたか、と思うと、いつの間にかまたもとの場所へ戻ってしまうのである。サイクルを描いて、螺旋形に、ゆっくりと頂点へと達して行く。」
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