2015年8月8日土曜日

中村研一 『コタ・バル』 国立近代美術館(常設展示 「誰がために戦う?」)

竹橋の近代美術館
「誰がためにたたかう?」というテーマのもとに、収蔵する戦争画(戦争記録画)が展示されていて、話題になっている。

以下は、その中の一つで、対英米戦争で初戦を飾ったコタバル敵前上陸を扱ったもの。



【美術館の説明】
1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まったと記憶されていますが、その1時間ほど前に、マレー半島北端のコタ・バルへの上陸作戦は始まっていました。対英米開戦を告げる記念すべき作戦を描くにあたって、中村は、深夜の月の光を受けて突進する兵士の姿を、敵側の視点から描き出すという構造上の工夫を凝らしています。第一回大東亜戦争美術展に出品されて朝日文化賞に輝いた本作品は、画家の最高傑作とも称されています。

「画家の最高傑作」と、そこまではは言われたくなかったろうな。ご本人も。

Wikiによれば、・・・(以下)

中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている。(Wikipedia

さて、コタバル敵前上陸作戦って、どんなものだったのか?
「黙翁年表」の昭和16年12月8日にある【マレー・シンガポール作戦】を以下に引っ張ってくると・・・。

12月8日
【マレー・シンガポール作戦】

タイ進駐作戦;
8日1200頃、タイ国と軍隊通過協定を締結。近衛師団はインドシナ方面よりタイ領を通過。

コタバル上陸;
8日午前0時45分(真珠湾空襲の1時間20分前)、第18師団(牟田口廉也中将)先遣隊歩56連隊(那須義雄大佐)基幹の歩兵第23旅団長佗美浩少将率いる先遣部隊がマレー半島東北端コタバルに敵前上陸。英歩兵第8旅団主力の兵約6千が海岸一帯に防御陣地構築。
午後9時30分、侘美部隊、コタバル飛行場占領。上陸以来戦死320、戦傷538、損耗率16%。上陸用舟艇沈没15・損傷10。
この間、上陸船団「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」が被弾、護衛艦隊指揮官橋本少将(第3水雷戦隊)は一時避難し、再度の揚陸作業。
佗美支隊はその後、11日補給基地トンバット、12日ムロン、13日航空基地タナメラに進撃。

コタバル上陸成功の知らせは、南方軍総司令部を通じ大本営から各地に飛び、香港、フィリピン、グアム、ウェーキなどの攻略部隊は一斉に活動を開始。

シンゴラ上陸;
午前1時40分、第25軍司令部(山下奉文中将)と第5師団(松井久太郎中将)主力。
佐伯捜索連隊を先遣部隊として前進開始、第9旅団長河村参郎少将指揮下に入れ、速やかに国境を突破させる。

バタニ上陸;
午前2時、第5師団歩42連隊安藤(忠雄大佐)支隊、上陸。

上陸地点にシンゴラ、バタニ、コタバルの3地が選ばれたのは、夫々に幹線道路と鉄道を押えながら南進する為。
ただ、第18師団担当のコタバル・ルートは、初め鉄道沿いに進むは筈が、途中で計画変更し、東岸沿いにクアンタン占領、ついで2隊に分かれ、1隊は半島を横断してクアラルンプールへ、1隊は更に海岸沿いにメルシン~ゼマランを経て、西に方向を変えクルアンで主力と合同となる。

山下第25軍がひたすらな南下突進を基調とした理由は、半島の地形と味方兵力の弱小による。
①マレー半島には河川が多く、進撃予定路の到る所に橋が架かっている。マレー作戦で工兵部隊が修理した橋梁は、主なものだけで約250と記録され、進撃の成否と速度は橋の確保いかんにかかる。第25軍配属の主力、第5・近衛両師団は機械化師団で、機械化部隊のスピードは橋にかかっている。
②第25軍は、第5、近衛、第18師団、付属部隊を合せれば総員12万5408人、車両7320台、馬1万1516頭の大部隊であるが、勢揃いはシンガポール攻略直前で、それ迄の半島縦断作戦では逐次増強の予定になっている。
上陸兵力は、第5師団3個連隊(シンゴラ、バタニ)、第18師団1個連隊(コタバル)、計約2万6640人、うち戦闘部隊は1万7230人。対する英印軍は8万超。しかも、進撃路は車輌2台が辛うじて並ぶ狭さで、敵が道を封鎖し、両側に布陣すれば、縦列で進む味方は三方から挟撃され、包囲される危険も多い。

マレー半島の守備状況:英極東軍総司令官サー・ロバート・ブルックポーハム空軍大将。
▽英極東軍(A・F・バーシバル中将):英軍(19600)、オーストラリア第8師団(K・G・ベネット少将、15200)、インド第3軍(サー・ルイス・ヒース中将、3万7千)、マレー義勇軍(F・キース・シモンズ少将、2個旅団、16800)。
▽英東洋艦隊(サー・トマス・フィリップス中将):戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」巡洋戦艦「レパルス」巡洋艦3、駆逐艦4、砲艦3、その他。
▽英極東空軍(C・W・H・プルフォード中将):バッファロー戦闘機(60)、ブレンハイム爆撃機(47)、ビルデビースト雷撃機(24)、ロッキード・ハドソン爆撃機(24)、カタリナ飛行艇(3)、計158。予備:戦闘機52、爆撃機15、軽爆撃7、雷撃機12、飛行艇2 計88。

パーシバル将軍は、陸兵8万8千のうち、マレー義勇軍と英軍の一部をシンガポール防衛にあて、イソド軍・オーストラリア軍・英軍など総兵力の2/3以上をマレー半島に展開。南部のジョホール州防衛にオーストラリア軍を、その北部一帯をイソド第3軍に守備させる。英軍の大部分は、インド軍1旅団(3大隊)のうち1大隊が英人部隊となるようインド軍に混入。

この年8月、ブルックポーハム総司令官は、日本軍のマレー攻撃に対処する戦略として「マタドール」計画を策定。
日本軍の侵入に備え、タイ・マレー国境のシンゴラ、バタニー両港、付属飛行場を占領し、マレーに通ずる鉄道・道路を閉鎖する計画で、実施には歩兵2旅団・爆撃後4戦隊・戦闘機2戦隊が必要。しかし、要請した増兵は認められず、「マタドール」を一部変更し、いざという時に、歩兵1大隊基幹の「クロコール」部隊を、マレー国境からバタニーに向かって30マイルの「レッジ・ライン」に配備、同時に、インド第6、15旅団をシンゴラに進出させるか、「ジットラ・ライン」で頑張らせる事にする。
「ジットラ・ライン」は、国境18マイルのアロルスター飛行場外郭に、コンクリートの機銃トーチカ、対戦車壕、鉄条網を張り巡らせ、マレー半島随一の堅陣にする計画であったが、工事を請負ったケダー州公共事業局の仕事がはかどらず、日本軍攻撃時点で、半分も完成していない。
また、「ジットラ・ライン」だけでなく、マレー半島でパーシバル将軍が及第点をつけられる陣地は皆無。口径10センチ以上の火砲は、シンガポール要塞以外には無く、戦車は1台も無し。更に、イソド軍は未訓練兵が多く、空軍も劣悪。

午後6時30分、ブルックポーハム大将・バーシバル中将連名の軍官民に対する布告。
「・・・われわれの用意はできている。われわれはすでにたび重なる警告をうけ、われわれの準備は完了し、かつテストずみである・・・われわれは、長年にわたり、日本がわれわれに加えた非礼と無礼の数々、それに耐えた隠忍の年月を忘れることはできない・・・いまや、日本自身がその過ちに気づく時である・・・。われわれは自信に満ちている。われわれの防備は強力であり、われわれの武器の効果は大きい・・・。敵はどうか。日本は支那にたいする無法な侵略戦争の泥沼にはいり込み、疲れはてている・・・」

(年表おわり)

コタバル上陸作戦の位置付けの大きさがよくわかる。

戦争画についてとか、この『コタバル』の秀逸さとかは、もう少し他の戦争画について見てゆきながら考えたいと思う。

キイは「兵士」に描き方じゃないか、と今は思ってる。

マレーシアには5年半駐在していたことがあるが、残念ながら、コタバルには行ったことがない。
が、そのすぐ南にあるトレンガヌというところには、ウミガメの産卵観察に行ったことがある。

コタバルもまた、ま、そういうような南洋のビーチのハズである。


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