2015年8月15日土曜日

津田青楓 『犠牲者』 『ブルジョア議会と民衆生活』(下絵) 東京国立近代美術館の常設展 : 小林多喜二虐殺に触発されて描かれた。津田は、「十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにしたいという希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と記す



 津田青楓「犠牲者」

津田青楓「ブルジョア議会と民衆生活」下絵

津田青楓「犠牲者」1933年、油彩
 この作品は、1933年(昭和8年)の小説家小林多喜二(1903-1933)の虐殺に触発されて描かれたものです。津田は、「十字架のキリスト像にも匹敵するようなものにしたいという希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と記しています。
拷問をうけ吊り下げられた男と、左下の窓を通して取り込まれた建設中の国会議事堂が対比されます。プロレタリア芸術運動への弾圧が激しさを増す中、津田自身も家宅捜索の後、一時拘留されました。
《ブルジョア議会と民衆生活》は押収されましたが、幸いこの作は隠し通すことができました。

Wikipedhiaによる津田青楓
津田 青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人。良寛研究家としても知られる。
本名、津田亀治郎。旧姓、西川。津田は母方の姓。最初の妻の山脇敏子も洋画家である。

生涯
華道家で去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれる。兄の西川一草亭も華道家で去風流家元。
はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年、京都市立染織学校に入学。傍ら、谷口香嶠に日本画を師事。同校卒業後、同校の助手を務める。
1899年、関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事。
1904年、兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。
1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にパリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事。アールヌーヴォーの影響を受ける。
1909年に帰朝。
1913年に文展を脱退し、1914年、二科会創立に参加。
1929年、京都市東山区清閑寺霊山町に津田洋画塾を開く。のち友人河上肇の影響でプロレタリア運動に加わり、1931年、第18回二科展に、立派に聳え立つ国会議事堂と粗末な庶民の家屋群を対比させた「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品したが警察当局の圧力により「新議会」と改題させられた。
1933年、小林多喜二への虐殺を主題に油絵「犠牲者」を描いていたところを警察に検挙され、留置を受け、処分保留で釈放される。のち転向して二科会から脱退し、洋画から日本画に転じる。
親友に夏目漱石がおり、漱石に油絵を教えた他、漱石の『道草』『明暗』や森田草平の『十字街』などの装丁を手がけた。

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