2015年9月24日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(76)「『パンと闘牛』・知識人たち」(5) : 「こういう時代に、親フランス派の知識人たちはどう処して行くか。それは中世の闇からようやく出た後進国での、知識というものを武器として人間の世界に出て来た人々の、最初の、悲惨な典型であった。ゴヤもまたある程度において、例外ではありえなかった。」

ゴヤ『気まぐれ』(62番)「誰が信じよう(友情は美徳の娘なのだ)」1797-99

 ・・・この集で彼が描き出した妖怪変化の最秀作と思われる、六二番、六三番、六四番について触れておきたい。

 六二番は、妖怪変化という点ではそれほどのものではないが、人間悪の表出という点ではやはり傑出しているであろう。
・・・幻怪な風景、雲と岩の混合。人知らぬ山の片隅か、混沌の雛型のようなところの、その怖るべき舞台の中央で、宙に浮いた二人の魔女が死闘を行っている。一は他に馬乗りになり、互いに殴りつけ押え込もうとしている。かくて二つの化け物は、暗黒の空をころげまわって行く。人間精神の考えつきうる限りの、一切の醜悪、一切の精神的汚濁、一切の悪徳がこの二つの顔に書き込まれている、この二人の魔女は人間と動物の中間に置かれている。・・・

 ・・・一九世紀フランスでの、ゴヤの最大の知己であったシャルル・ボードレールである。・・・

 ・・・彼自身が書いているように、「ゴドイが何者で、王のカルロスや王妃のことなど何も知らなくても」、「これらすべての歪曲、動物化された顔、悪魔的なしかめ面などは、人間性によってこそつらぬかれているのである」と。

ゴヤ、見馴れぬものにみちし悪夢、
魔法使いの宴の最中に煮られし胎児、
鏡に見入る老婆、悪魔をそそのかさんと
靴下をはき直す素裸の少女たち。

 なおこの六二番の闘う裸の魔女たちの背景の上下には、ここでも二匹の、われわれの側でのモモンガアに似た動物妖怪どもは、実に、魔女とはいえ人間そのものであるものの争闘の激しさに、おどろき呆れているらしいのである。そうして、それが真実である。

ゴヤ『気まぐれ』(63番)「見ろ、奴らは大真面目だ!」1797-99

 六三番の、「見ろ、奴らは大真面目だ!」と題されたものは、これはもう見るだけで人間であることが厭になって来るほどの代物である。そうして夜の空を飛ぶ五人の魔女どもの顔の、その愚鈍さ加減、その飛ぶこと自体のための執心さ加減、これもまた何事かに一途に打ち込むことが厭になって来るほどのものである。

これらの化け物どもはどこから来たか。
言うまでもなく、それはゴヤ自身のものである。

 ・・・悪魔画、魔女画、サタニズムのようなものが全ヨーロッパ的に当時存在した・・・ヒエロニムス・ボッシュ(一四六二〜一五一六)である。
・・・

 しかしボッシュの、・・・人間の「悪徳と狂態」云々、あるいは「想像力のなかにのみ実存する形態と運動」を、ほとんどそれのみを描き切った作品が、どうしていったい異端審問所の網にかかることなく、エル・エスコリアール宮殿に堂々と展観されつづけて来たものであったか。すでに、ベラスケスの師匠であり、また異端審問所の秘密通報員(Familia)でもあったパチェーコ師は、El Bosco (ボッシュのスペイン名)の絵は、途方もない、聖寵からは甚しく遠い、危険な異端芸術であると、画家たちに説き警告しているのである。そうして一八世紀に入ってから、攻撃はますます激化して行っていた。

 こうした警告や攻撃にも拘らず、ボッシュの怪異な作品がエルニスコリアールの壁に堂々と掲げられつづけて来たのは、それがほかならぬエル・エスコリアール宮殿そのものにあったからであった。というのは、これらのボッシュ作品は、エル・エスコリアール宮殿そのものの創設者であった、ハブスブルグ家のフェリーペ二世が好んで集めたものであり、この宮殿付きの聖職者がつねに反論をくりかえして来たからであった。彼らはこのエル・エスコリアールと呼ばれる広大な、宮殿兼修道院兼墓場兼兵営の創設者の好みを審問したりすることを好まなかったのである。

 ゴヤは宮廷画家に任命されるとすぐに、王室所有の美術品の目録作製を命じられていたから、ボッシュの作品はよく知っていた筈である。さらには、彼の友人の美術史家ベルムーデスがその著書に、エル・エスコリアールの司教の一人のボッシュ擁護論、「他の画家たちが人間の外見を表出しようとねがっているとき、彼(ボッシュ)のみが敢て人間の内面に存するものを描こうとしたのである」という文章を引用しているのであってみれば、この友人との話し合いの間にそういう話題が出たことはなくはなかったであろう。それに、ボッシュの描いた人間の悪徳や悪意を体した妖怪や悪魔、さまざまな複合動物とも言うべきものどもは、ゴヤの興味を惹かない筈はないのである。ゴヤ自身もが、実に奇怪な複合動物をつくったのでもあったから。
・・・

 一七九九年二月、版画集『気まぐれ』が発売された。刷られた部数は、全部で二六七部である。
発売所であるゴヤ家の真向いの酒屋に、どういう連中が寄って来るかと、おそらくゴヤはたのしみにして窓辺に立っていたものであろう。

 ところが、である。ゴヤはほんの数日で全部を引き揚げてしまうのである。ゴヤ自身は後に「たった二日間しか人々に売りませんでした」と書くのであるが、実際には一二日間ほどで、とにかく二週間もしないうちにたちまち引っこめてしまった。この間に売れた部数は二七部・・・そのうち四部はオスーナ公爵がまとめて買った。残りの二四〇部をアトリエへ引き揚げた。
なぜか・・・。

 ・・・マドリード市中に、一つの音のない爆発のようなスキャンダルが生じてさすがのゴヤも怱々に引っ込めざるをえなかったものであろう。異端審問所だけではなくて、警察、あるいは世俗裁判所までが動き出す可能性があったであろう。・・・
彼の親しい友人たちが集って鳩首協議、といったこともあったかもしれない。・・・

 そうして、ゴヤはこの年の一〇月に、彼の友人でもあり、一時的に王妃の寵を失ったゴドイに代って総理大臣になったウルキーホの仲介によって、バイユーの死後空席となっていた首席宮廷画家に任命されるのである。この任命もまたきわめて政治的なものであろう。異端審問所に嫌疑をもたれているかもしれぬ画家を、わざわざ首席宮廷画家に任命するということは、要するに審問所の動きを牽制する作用をするであろう。

 それにもう一つ、ゴドイがゴヤの後援者であったことも忘れてはならない。ゴヤを首席宮廷画家とすることは、影の、真の実力者であるゴドイを喜ばせることにもなるであろう。

 この開明派のウルキーホが総理大臣をしていた時代、それはほんの二年はどしかつづかないのであるが、これがゴヤの友人の知識人たちにとってのピークの時代であった。ウルキーホは異端審問所を廃止しようとさえした。ホベリァーノス、メレンデス・パルデース、イリアルテ、モラティンなどの人々は、みな高位の公職についていた。ゴヤは彼らすべての肖像を描いた。けれども、彼らの運命には、つねにナポレオンと異端審問所の暗い影がついてまわって、怒涛のような時代の変転に翻弄され、そのほとんどが悲惨な最期をとげることになる。

 彼ら開明派は、別にフランス派とも呼ばれ、革命の方法の残酷さを非難しながらも、その革命を是とし、そこに学んですべてに後れたスペインを改革しようとしている。しかしフランスはすでに革命フランスであるよりも、すでに軍事大国としての、ナポレオンのフランスに変質しかけているのである。
やがて彼らが師とし先進国として認めているフランスからナポレオン軍が入って来、スペイン民衆は一斉にゲリーリァ戦に立ち上り、彼らの知識人たちをも含む上層部は右往左往の大混乱となり、それでもジョセフ・ボナパルトはマドリードに入ってスペイン王ホセ一世となる・・・。彼らは牢獄から呼び出され、埃をはらって再び要職に登用される。

 やがてホセ一世はまた追い出されて一大反動期が来る。こういう時代に、親フランス派の知識人たちはどう処して行くか。それは中世の闇からようやく出た後進国での、知識というものを武器として人間の世界に出て来た人々の、最初の、悲惨な典型であった。ゴヤもまたある程度において、例外ではありえなかった。・・・

 一七九九年一二月三一日、アランホエース離宮において首席宮廷画家の任命式があった。ウルキーホが読み上げる。

陛下は、貴下の傑出せる功績を賞し、かつすべての画家たちを励ますべきあかしとして、また高貴なる絵画芸術における貴下の才能と知識に鑑み、ここに貴下を…‥・。

という次第である。年俸五万レアール(約一万二五〇〇ドル)と相当額の支度費つきである。

 宮廷画家に任命されて一〇年日である。これまでにわれわれもが立ち会って来たように、この人の運命、あるいは機会は、つねに二重性をもって彼に訪れて来る。開明派、フランス派ともっとも近くなり、もっとも痛烈にスペインそのものについて批判的になったときに、その腐敗と堕落の根源であり、核心である宮廷の、その首席画家に任命される。

 異端審問所は、しかし、それでも追及をやめなかったようである。そうしてマドリード市中には、『気まぐれ』の一つ一つについてのモデル詮索がずっとつづいていたようでもある。「死ぬまで(雀百まで)」と題された、皺だらけの歯抜けの老婆が鏡に向って化粧をしている、あれは王妃マリア・ルイーサだ・・・、云々。
世俗裁判所さえが動きはじめていたかもしれない。不敬罪、名誉毀損・・・。
ゴヤは決断をしなければならない。
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