2015年10月26日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(20) 「10 人の命のあるかぎり」 (その2終) : 《午睡一刻覚めて後今春四月頃筆とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ。このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり。》(『断腸亭日乗』昭和19年10月14日)

 十八年に入ると九月二十五日には《一昨年執筆せし為永春水論》が訂正され、十一月十八日には音楽映画台本『左手の曲』が浄写されて、同月二十一日には小品文『枯葉の記』が草され、十二月三日に書きはじめた『雪の日』を九日に脱稿しているが、『枯葉の記』と『雪の日』は用紙割当て制の影響で廃刊寸前にあった籾山梓月主宰の俳諧誌「不易」に辛うじて掲載され、『左手の曲』は《其筋の検閲を受け不許可》という理由で十九年二月十二日に川尻清潭から返送された。また、『為永春水』は戦後になってから「人間」に発表されたが、いずれも反戦または抗戦的な内容のものではなかったから、戦意昂揚に役立たぬ不急不要の文字とみなされた結果に相違ない。

 ・・・。荷風ほどの大家までが発表慾の一念から小品文や映画台本を埋もれさせまいと当時の時代相からいえば悪あがきにもひとしい努力をしているありさまには、涙ぐましいものがある。

 つづいて書かれたのが『踊子』で、十七年四月十五日の条に《机の曳出しを整理す小説戯曲の腹案を識せしもの二三種あり。その中にて稍採るべきもの備忘のためこゝに写し置く事とす。》として《小説筋書》なるものが掲げられている。浅草の楽士とその妹ならびに兄の愛人である踊子のかかわりを追うものであったらしく、構想も人物もちがっているものの、あるいはそれなどが『踊子』腹案の最初の試行錯誤の跡をしめすものであるかもしれない。

 そして、前記の『枯葉の記』と『雪の日』執筆の中間に相当する十八年十一月二十五日の記載中《枕頭の手帳に小説の腹案を書留む。盖(ケダシ)備忘のためなり。》とみえ、三日後の二十八日に《燈下小説起稿。》と記されているのが、その第一着手と受け取れる。そのあとには十二月十四日の条に《晡下浅草に至りオペラ館楽屋に憩ふ。蹄子山井晴代といふ女小説をかきましたから直して下さいとて草稿を示す。》として《小説踊子の一節》なるものが掲げられているが、これはこんにちわれわれがみる『踊子』には採用されていない。これ以外、年内には執筆に関する記述はみとめられない。

 十九年に移って《夜小説執筆。》と最初にあるのは一月八日だが、はじめはやや難航の気味で、十二日には《終日机に憑りしが小説筆すゝまず。》とあったのち風邪をひき、二十三日に至って、《十七日より殆一週間門を出でず。小説踊子筆稍進む。》と記される。が、いちど調子の波にのれば、墨客または趣味人というわれわれのイメージにもかかわらず、荷風の筆は早い。

 二十八日には《終日小説執筆。》、二十九日には《燈下小説執筆。その傍フローベルのマダムボワリーを再読す。盖し其手法文章を窺ひ参考にせむと欲するなり。》とあって二月をむかえる。そして、一日には《連日小説執筆。》、二日には《小説踊子の草稿大半筆にするを得たり。晩四時寝に就く》、五日には《立春。終日執筆》とあって、十一日《燈下小説踊子の稿を脱す。添刪暁の四時に至る。数年来浅草公園六区を背景として一編を草せんと思居(ママ)ひゐたりし宿望、今夜始めて遂ぐるを得たり。欣喜擱くべが(ママ)す》ということになる。

 これほど荷風が自己の作品完成に手ばなしでよろこびを顕わしている文章はめずらしいから、よほど長いあいだ気にかかっていたのだろう。そう思って詠むと、六年も以前の十三年三月八日の『日乗』に《浅草公園を背景となす小説の腹案相成れるが如き心地す。》とある記述も、それが『おもかげ』脱稿直後のものであるだけに、『踊子』と無関係ではないように思われる。また、《欣喜擱く》べからざるものがあったのは、筆を取り上げられたにひとしい暗い時代背景の前においてみるとき、いっそう実感をおぼえさせられる。

 そのよろこびの余熱が、とどまっていたせいだろうか。脱稿から六日後にあたる二月十七日の『日乗』に《連日家に在り。小説踊子浄写。》と記している荷風は、それからわずか二日後の十九日に《小説二人の客起稿。深更台所に氷を見る。今春第一の寒気なるべし。》と書きとめている。十八年五月十三日と十九年六月二十九日に路上へ積みおかれた配給用の炭俵から木炭を盗んでいる荷風は、冬のあいだ《炭を惜しむがため正午になるを待ち起き出で》(十八年一月一日)るような日常をすごしていたのだから、《今春第一の寒気》のなかで書きはじめたこと自体、よほどおさえがたいものがあったことを表わしている。『二人の客』はのちの『来訪者』で四月四日に擱筆しているから、所要日数は五十日弱で、モデルが平井呈一と猪場毅であることはすでに前述した。

(*『二人の客』の顛末始め)
 二人はともに佐藤春夫の紹介で偏奇館へ出入りするようになったが、『日乗』十四年六月十九日の記述によれば、猪場の《先考は号を晹谷といひたる書家にしてまた篆刻をよくしたり。》ということだし、平井は上野の名高い和菓子店うさぎ屋の店主=谷口喜作(怙寂子)の実弟で、谷口は青木書店から出版された岡本かの子の『巴里祭』その他に題簽(ダイセン)を揮毫しているほどの趣味人であったから、ともに出自にはいやしからぬものがあった。特に荷風は江戸文化や古書に精通していて能筆であったばかりか多くの翻訳もある平井には眼をかけて、十三年六月十一日には《断腸亭日記筆写副本をつくる事を依頼し、初の二冊を交附》したあと、すぐまた二十二日にも《日記三巻四巻を交附》し、十四年三月十一日にも《断膓(ママ)亭尺牘及日(ママ)かげの花草稿を交附》している。そして、同年七月四日には平井から寄せられた書簡の『ひかげの花』に対するオマージュの部分を『日乗』に筆写して《これ亦知己の言。感謝すべし。》と記し、同月十四日には《晡時平井君来話。余の旧作ひかげの花一篇を浄書して示さる。》というような交際をつづけていた。

 誰に対しても心を許したことがないとみられる荷風としては、ほとんど信じがたいまでに警戒心を解いて近づけているから、二人はよほど巧妙に取り入ったものと想像するほかはない。猪場からは彼がそこに勤めていた関係もあって冨山房百科文庫版『下谷叢話』出版の斡旋を受け、平井には岩波書店の企画した「荷風全集」の交渉をまかせているばかりか、岩波文庫版『雪解』の解説まで執筆させているほどだが、十四年の秋ごろからそうした信頼関係もついえていく。『日乗」によって、記述の一、二をみておこう。

 《本郷春木町三番地西田利一といふ人より猪場毅に関して中傷の文句を連ねし葉書を送り来れり。思ふに猪場は余の偽筆短冊及原稿を作りて売りしものなるべし。油断のならぬ世の中なり。》(十月七日)

 《過日西田某の送り来りし葉書の件(短冊原稿高価にて売るといふ事件)に付直接西田に宛返書を出したり。過日平井氏のはなしによれば平井氏余の偽筆をつくり短冊色紙の外小説原稿紫陽花其他を猪場に委託し猪場の手にて金にしたるなりと云ふ。猪場の人物につきては余既に某氏より注意せられしことありしが果してその通りなりき。平井はまさかと思ひ居たりしがこの人も余に何の断りもなく原稿の偽筆をつくりて売るが如き事を敢てするを見れば猪場氏と変りはなし。》(十月十五日)

 この当時すでに平井は千葉県安房郡富崎村布良に移住し、猪場は市川真間手古奈堂境内に居住していたことまで『来訪者』には写し取られているので、事件としての経過は作品にゆだねて事実関係のみを追えば、《猪場の許に絶交の返書を郵送す。》とあるのは十五年七月七日で、平井との交渉はその後もつづき、以下の記述がみとめられるのは十六年十二月二十日だから、事件発覚以来二年余が経過しているわけである。

 《夜平井程(ママ)一氏来訪。過日余が方より手紙を其居房州布良に出せしところ返書なき故其親戚なる上野の菓子商うさぎ屋方へ電話にて問合せしことありき。然るに同氏はいつの頃よりか本所石原町辺に僦居する由。但し番地は明言せず。奇怪千万と謂ふべし。この頃坊間の古本屋に余が草稿浄写本短冊色紙また書画の偽物折々発見せらるゝ由なれど、右は大抵この平井とその友人猪場毅二人の為すところ、実に嫌悪すべき人物なり。平井は去年中岩波書店及び中央公論社にて余が全集刊行の相談ありし時余が著作物の整理及全集編纂を依頼したるを以て相応の利益をも得たるに係らず窃に偽書偽筆本をつくりて不正の利を貪りつゝあるなり。今日までに余の探知するもの××四畳半襖の下張、短篇小説紫陽花、日かげの花、濹東綺譚其他なり。これ等は皆余が自筆の草稿の如くに見せかけ幾種類もつくり置き、好事家へ高く売りつけるなり。平井との交遊もまづ今日が最後なるべし。余一昨年頃までは文学上の後事を委詫(ママ)することもできる人の如くに思ひ大に信用せしが全く誤なりき。余年六十三になりて猶人物を見るの明なし。歎す(ママ)べく耻づべき事なり。》
(*『二人の客』の顛末終り)

 のちに『来訪者』と改題された『二人の客』が脱稿された十九年四月四日から二十日とも経過していない同月二十二日に、荷風は《燈下新にまた短篇小説の稿を起》したのにもかかわらず、五月十八日には《腹候佳ならず。執筆興なし。》、六月十日には《腹候佳ならず疲労甚し。読書執筆共に興なし。》と記して、さらにしばらくの空白期間をおいたのち、十月十四日に《午睡一刻覚めて後今春四月頃筆とりかけし小説夢の夢の稿を次ぐ。このまゝ筆とり続くることを得なば幸なり。》とあって、十一月十日に《食後ひとりごと続篇の稿を脱す。》、同月十三日に《小説ひとりこど(ママ)正続とも校訂浄写。》ということになる。

 すなわち、『夢の夢」はこの段階で『ひとりごと』と改題されているが、さらに戦後に至って『問はずがたり』となった。なお、現行の『問はずがたり』文末には《上巻昭和十九年十二月脱稿》、《下巻昭和二十年十一月脱稿》と記されてあり、本文も《上の巻》、《下の巻》と二分されているが、作品の序文に《あくる年の冬熱海にさすらひける頃後半を改竄して増補するところあり。》と記されていることによっても明らかなように、十九年十一月に全篇を完結しているわけではない。内容的にも戦後になってからの事柄が書き足されている。その点が、おなじく戦時中に執筆して戦後発表された『勲章』、『浮沈』、『踊子』、『来訪者』などと相違している。

 こうして荷風は昭和二十年をむかえるが、三月十日払暁には大正九年五月に竣工した麻布市兵衛町の偏奇館を空襲によって焼かれ、いったん従弟(父=久一郎の五弟=大嶋久満次の長男)の杵屋五叟こと大嶋一雄方に避難ののち、四月十五日に中野区住吉町二十三番地にあった菅原明朗居住の国際文化アパートに空室が出来たのを機に移ると、五月二十五日の空襲で再度罹災し、菅原夫妻とともに明朗の郷里である明石を経て、岡山までながれていくこととなったが、そこでもさらに宿泊中の松月旅館が焼亡するという不運にみまわれて、岡山市内で敗戦の日をむかえた。

*
*

0 件のコメント: