2016年2月16日火曜日

知命 (茨木のり子) / ほぐす (吉野弘)

北の丸公園 2016-02-10
*
知命    茨木のり子


他のひとがやってきて
この小包の紐(ひも) どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏(はさみ)で切れいと進言するが
肯(がえん)じない
仕方なく手伝う もそもそと

生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびればてて

ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで


         (第五)詩集『自分の感受性くらい』(1977年3月 花神社刊)


「知命」は「五十にして天命を知る」(『論語』)ところから五十歳の称。
この詩の初出は1976年8月『新潮』で、詩人50歳のとき。
吉野弘さんの詩に「ほぐす」というのがあり、この詩と同じ流れにあるように思える。
よく似てる。


ほぐす    吉野弘


小包みの紐の結び目をほぐしながら
思ってみる
- 結ぶときより、ほぐすとき
すこしの辛抱が要るようだと

人と人との愛欲の
日々に連らねる熱い結び目も
冷(さ)めてからあと、ほぐさねばならないとき
多くのつらい時を費すように

紐であれ、愛欲であれ、結ぶときは
「結ぶ」とも気付かぬのではないか
ほぐすときになって、はじめて
結んだことに気付くのではないか

だから、別れる二人は、それぞれに
記憶の中の、入りくんだ縺(もつ)れに手を当て
結び目のどれもが思いのほか固いのを
涙もなしに、なつかしむのではないか

互いのきづなを
あとで断つことになろうなどとは
万に一つも考えていなかった日の幸福の結び目
- その確かな証拠を見つけでもしたように

小包みの紐の結び目って
どうしてこうも固いんだろう、などと
呟きながらほぐした日もあったのを
寒々と、思い出したりして


    第五詩集『北入曾』(1977年1月、青土社)
    初出;『現代英語研究』1972年5月号

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