2016年4月27日水曜日

應永24(1417)年 上杉禅秀の乱、鎮圧 甲斐は上杉与党の武田氏から逸見氏に与えられる(逸見・武田の抗争続く) ヘンリ5世軍の第2回フランス遠征 教会の大分裂終る(コンスタンツ宗教会議) オールドカースル(40)火刑

鎌倉 長谷寺 2016-04-25
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應永24(1417)年
この年
・敦賀郡木崎郷民、代官や守護役などのことで西福寺と争い、逃散。
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・ヘンリ5世、ロンドン市長、参事会員、「ロンドン市内の売春宿廃止」の布告。
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・バイエルン候ウイルヘルム2世(ギョーム4世)、没。
ネーデルラント継承戦争(ホラント、セーラント、エノー、3伯領の争奪戦)。
ギョーム4世娘ヤコバ(ジャックリーヌ・ド・エノー)、夫グロスタ候ハンフリーと共にイギリスより帰国、エノー・ホランド・ゼーランドに侵攻、1424年10月エノーを占領。
1425年12月ブラウェルスハーフェン(ゼーラント)の戦いで、グロスタ公ハンフリー(ヤコバ夫)の遠征軍、ブルゴーニュ軍に撃破。
1428年7月デルフト協定(フィリップ善良公とヤコバの和解)によりフィリップ善良公、ホラント伯領・ゼーラント伯領・エノー伯領を獲得。
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1月5日
・上杉禅秀の乱、鎮圧。
上杉禅秀・足利満隆ら、世谷原で江戸・豊島氏の軍を破る。
しかし、上方からの討手が小田原まで攻め下り、9日、殆どの者が反禅秀側に寝返る。
夜、持仲・満隆・禅秀は鎌倉に撤退。
10日、満隆・持仲・禅秀(氏憲)・子の憲方と憲春・宝性院快尊僧都・氏春ら、鎌倉雪ノ下にて自害。 *
1月17日
・今川勢・江戸・豊島氏、両方から鎌倉へ乱入。
この日、鎌倉公方足利持氏、鎌倉に戻り、浄智寺に入る。
御所が出来ていないので、3月24日、梶原美作守の館に入り、4月28日、大蔵の御所に入る。

江戸・豊島氏らは上杉禅秀らの没収地を与えられ、大森氏は土肥・土屋の跡を与えられ小田原に移り、箱根別当は僧正に任じられる。今川範政は、京都から副将の臨旨を受ける。
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2月6日
・上杉憲宗、上杉禅秀与党の甲斐の武田信満(禅秀の舅)を攻め、信満は木賊山(甲州市大和町)で自害、弟満春は戦死。

頼朝の時、甲州半国は石沢五郎に与えられ本郡を知行。東郡は加藤氏、西郡は逸見氏に与えられる。
その後、一円を武田氏が拝領し、加藤は武田の被官となり、逸見は鎌倉公方に奉公するようになる。
逸見は武田を排し、甲州一円の守護になるため持氏に忠功を尽くす。
甲斐の武田信満は上杉禅秀の小舅、千葉兼胤は婿であり、持氏寵臣の二階堂氏が逸見の縁者であるので、逸見は二階堂に頼んで甲斐を希望する。甲斐は関東御分国で基氏の頃から鎌倉に出仕しているが、武田信満は上杉禅秀の件のため出仕しなくなる。

武田信満の次弟信元と嫡男信重は出家し高野山に上る。甲斐は逸見氏に与えられ、逸見氏が甲斐に入国(京都の将軍からに引き渡しでなく、鎌倉公方の決定のみ)。
以降、甲斐を廻り、逸見氏と武田氏の内乱抗争が続く。
翌応永25年2月、信元は高野山から復帰するが間もなく戦死。
その後、抗争は逸見氏の敗北に終わり、応永33(1426)年、鎌倉公方足利持氏は兵を甲斐(武田信満の次男信長)に差向ける。武田氏は屈伏し信長は鎌倉府に出仕。
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2月16日
・和平締結のためトルコ大使、ヴェネツィアへ
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3月4日
・ウルビーノ伯、グイード・アントーニオ・ディ・モンテフェルトロ、ヴェネツィア大議会に加入
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3月10日
・ほぼ聖杯派で固められているプラハ大学、「二種聖餐」は正当との判断を下す。しかしマギステルの間でも、比較的穏健な人々と、徹底した改革を求める人々との食い違いが目立ち始める。
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4月4日
・仏、王太子ジャン(19、シャルル6世次男)、没。弟シャルル(14、シャルル6世末子)、王太子(王位継承者)となる。後のシャルル7世。
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5月13日
・上杉禅秀の婿の岩松満純、残党を集めて上野岩松に蜂起。舞木宮内丞に破れ、この日、満純は瀧口で斬首。
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閏5月14日
・庶民の雲脚茶会。
「晴、台所において雲脚茶会これを始む。侍従局女、地下男共、済々相交る。 順事なり。これ毎年の儀なり。」(「看聞御記」同日条)。
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6月17日
・二種聖餐の農村部への普及に果たす貴族の役割。
東ボヘミアに広大な所領を持ち、南ボヘミアのロジュンベルク家相続者の後見人を務めるヴァルテンベルクのチェニェク、ロジュンベルク家領の教会会議を召集し、全聖職者に対して二種聖餐の実施を命令。
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6月30日
・上杉憲基、5月24日に鎌倉に戻り、この日、再び関東管領に就任。
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7月
・コンスタンツ宗教会議。ハイデルベルク大学出身教会法学者ヨハネス・ウルバッハがポーランドの主張に反論。26日、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世を廃位。
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8月1日
・イングランド(ヘンリ5世)軍、ノルマンディー・トゥーク上陸。第2回フランス遠征。
リジュー、カーン、バイユー、アルジャンタン,アランソン占領。
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8月12日
・コンスタンツ宗教会議。1220年12月の教皇ホノリウス3世の教勅を確認。ドイツ騎士修道会の主張を退ける。
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8月27日
・ナポリ女王ジョヴァンナ2世の傭兵隊長アッテンドロ・スフォルツァ、ローマの傭兵隊長を追放
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9月20日
・ノルマンディ侵攻の英ヘンリー5世、カーン市攻略
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10月9日
・コンスタンツ公会議、教書「フレクェンス(数多くの)」。
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10月28日
・教会の大分裂終る
コンスタンツ宗教会議。新教皇マルティヌス5世(49、位1417~1431)選出。オド(オッドーネ)・コロンナ(ローマ・コロンナ家出身の初めての教皇)。枢機卿23人と各国代表30人がコンクラーベ実施。フランス人を排斥するため、ドイツ人・イギリス人がイタリア人と手を結ぶ。
教皇マルティヌス5世、3年後の1420年にローマ帰還。ローマの治安がひどくジュネーヴよりマントヴァ・フィレンツェと渡り歩く。枢機卿・元老院議員・将軍に一族郎党を任命。
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12月14日
・英、反カトリック、反ヘンリーの抵抗運動組織したオールドカースル(40)、ウェールズで捕らえられロンドンで火刑。
ウェールズ戦役以来のヘンリ5世の盟友・コバム卿サー・ジョン・オールドカースル。カンタベリー寺院での審問会、異端審問でロラード(宗教改革者)と告白。投獄中ロンドン塔から脱走、各地に反カトリック、反ヘンリーの抵抗運動を組織。ヘンリ5世の鎮圧軍に敗れ、ウェスプールの近くで逮捕、再び死刑判決を宣告。
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12月23日
・ジャン無畏公、トロアで王妃イザボーと同盟。王妃イザボーの政府立てる。
ジャン無畏公、アルトワ・ピカルディー・ノルマンディー でイギリス軍と戦い、パリのアルマニャック派(シャルル6世、王太子シャルル)に対決。
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