2016年4月29日金曜日

明治38年(1905)10月1日 「文科大学学生生活」(著者XY生=正宗白鳥、今古堂書店)発行 漱石と柳村(上田敏) 『社会主義評論』(河上肇 「読売新聞」連載)と河上肇の煩悶

上野公園 2016-04-26
*
明治38年(1905)
10月1日
・矢野龍渓、「戦時画報 講和三笠画報」で、ルーズベルトが仲裁するからには、予め双方の意思を確認して、成立すると確信した筈。従って、日本は、国民が望んだ様に賠償金と樺太全部のどちらか一方を要求したのだろうと推測。
*
10月1日
・「文科大学学生生活」(著者XY生、今古堂書店)発行
(東大前の森川町に下宿していた正宗白鳥が、東大の教授たちについての噂を下宿の学生たちから聞き集めて匿名で書いた原稿)

■文壇・劇界の状況。
「本郷座で藤沢(浅二郎)木下(吉之助)が不如帰を演じなれば、(明治三十八年五月)俄かに観劇の流行を来たした。高田(実)の己が罪、金色夜叉、さては今日の青年に誂向きの、ハムレットの舞台にあらはるゝに至って、高田、藤沢は忝(かたじけ)なくも大学学生の贔屓役者になって、興行毎に場代半額の初日には五人十人誘ひ合はせて、所謂美に打たれに行く、昔劇通三木竹二先生の芝居道楽を冷笑した講堂で、劇評の囂(かまびす)しい程の変化、同窓の綾目は藤沢の貫一に感服して、失恋家の言語体度はあの通りだと、大に思ひ当る所のあるらしい。(略)芝居も評判の小説を演じたお蔭で学生を呼んだ程だもの、小説の同人間に愛読されることはいふ迄もない。例の不如帰、金色夜叉の出た頃よりやうやく味を覚え始めたので、今日の作家では天外と鏡花が最も人気を得てゐる。一体読書社会の大部分を占むる女学生と其の理想の男子たる大学生を主人公にした小説なら、屹度歓迎されるとの噂で、我が同窓にも『魔風恋風』の東吾を気取り、『新学士』(天外作)の狩村を以て任ずる者がある。鏡花の作は『湯島詣』以来で、篇中の人物は端役に至るまで当時の学生今の文学士をモデルに取つたとの事で評判であったが、其の他の不思議な作まで頻りに愛誦される。写実派の天外と其の反対の鏡花と相並んで喜ばれるとは奇怪であるが、鏡花の方は散文的の頭脳で解せられなくとも、作家其自身を信仰し切ってゐるのだ。」

■教師たち
文科大学は、歴史系の坪井九馬三(くめぞう)博士派と言語学系の上田万年(かずとし)派に分れていて、教授、助教授、講師たちは、その何れかの側に与して対立している、と筆者は名を挙げて指摘。
ただその中で、「無所属の紳士は、夏目(金之助)、藤岡(作太郎又は勝二)、桑木(厳翼)、大塚(保治)」等にすぎない、と言い、また特に「赤門の聖人」という項を設けてケーベルの名を挙げ、「権勢名誉に血眼となれる教授先生」たちの中で珍しい存在として敬意を表した。

「十年も講壇に立ちて毎年毎年変り行く学生の誰にも敬せられ愛せられて、嘗て悪評を下されしことなきケーベル博士の如きは、日本教授に此迄にも例のないこと、昔のリース、ハーンと共に良教師の三幅対にて(略)先生は無妻主義にて、音楽を最愛の妻とし、憂さも悲しみも一曲のピアノに忘れ、(略)そゞろに古の高僧善知識の偲ばるる次第にて、従僕の目には英雄なしといふ格言に背き、其の抱へ車夫まで、涙ながらに先生の憐れみ深さを語」る、と述べる。

ラファエル・フォン・ケーベルは1848年生れ、このとき数え年58歳。ドイツ系のロシア人で、モスクワ宮廷の枢密顧問官の子として、ニシニ・ノヴゴロッドに生れた。家庭教師について、普通学科をおさめた後、モスクワの音楽院でニコライ・ルービンシュタインやチャイコフスキー等に学び、優れた成績で卒業。その後、ドイツのイエナに行き、エルンスト・ヘッケルについて哲学を学び、その間にショーペンハウエルの思想に心を奪われ、その弟子ハルトマンの学説にも興味を抱いた。それが縁でハルトマンと親しくなり、カールスルーエに住んで音楽の教師をしていた。
明治26年(1893)、東京帝国大学は哲学の教師を求める手紙をハルトマンに送った。ハルトマンはケーベルを推薦し、その年6月、彼は着任した。彼は哲学概論、哲学史、キリスト教史、カント、ヘーゲルに関する特殊講義などを、その後12年間続けた。その外、ギリシャ、ラテン語を教え、またゲーテのファウストの特別講義をすることもあった。彼の人柄の美しさは、その講義の魅力と相まって、帝大の学生たちに大きな影響を与えていた。
ケーベルはそのほか上野の音楽学枚でピアノを教えた。その弟子の中から幸田延子、橘糸重等が出て、後にそこの教授となった。

■漱石と柳村(上田敏)
明治34年、上田敏(32歳)は「詩聖ダンテ」「文芸論集」等を発表し、文壇や学界からその欧洲各国語にわたる語学力と文章の美しきで知られていた。この年も「明星」「白百合」「帝国文学」等に訳詩を発表しており10月には、これまでの訳詩の集大成「海潮音」を本郷書院から発行した。その集にまとめられた彼の訳詩の美しさ、韻律やスタイルの多彩さは、前人未踏と言うべきものであった。

ヴェルレーヌの「落葉」をこのように訳している。

  秋の日の
  ヰオロンの
  ためいきの
  身にしみて
  ひたぶるに
  うら悲し。

  鐘のおとに
  胸ふたぎ
  色かへで
  涙ぐむ
  過ぎし日の
  おもひでや。

  げにわれは
  うらぶれて
  こゝかしこ
  さだめなく
  とび散らふ
  落葉かな。

漱石は、前年「ホトトギス」に俳句や俳体詩の試作を載せただけで、文学上の仕事が知られるようになったのは、この年に入ってから。「倫敦塔」「幻影(まぼろし)の盾」他の短篇をのぞけば、9月までに「吾輩は猫である」を断続的に6回「ホトトギス」に載せたのみである。それが好評であったとしても、「ホトトギス」は発行部数3千部程度のものである。

しかし、学生たちは、教師・文学者として活躍している人間として二人を較ぺて考えた。彼等は各国語を自由に黒板に書いて教える上田敏を敬遠し、40歳に近づいて、人間味をじかに講義の中で発露させる漱石に親しみを抱いた。駒込千駄木町の漱石の家を訪ねる学生は何人かいるが、西片町7番地の上田敏を訪ねるものはないという評判であった。

二人についてはこのように書かれている。
「明星といふ小雑誌あり、ホトトギスといふ小雑誌あり、一つは醴酒(あまざけ)の如く一つはラムネの如し、どうせ滋養にはならねど、いづれも特色のありて、小範囲の読者に珍重せらる。この二者は全然相容れざる性質を有し、寄稿家も読者も類を異にし、明星の後援者に上田敏先生あり、ホトトギスの客将に夏目金之助先生あり。自(おのず)から相対立し、大学の講堂外に自己の面目を発揮させるは面白し、而して柳村先生の厚化粧の美文を知る者多けれど、漱石先生の粉飾なき散文を知る者少く、学士敏の新体詩を喋々する者あれど、学士金之助の俳句或は俳体詩は、文壇の批判に上らず。」

更に、上田敏が、「アストンの日本文学史の西鶴論を解するには、ダンテを原語で読み得ねばならぬ。西鶴論の結末の一句ムヤムヤムヤはダンテ中のムヤムヤから引用されたもので非常に明言だ」と言ったが、そのムヤムヤの分らない「我々無学者の聴手の方ではあまりよい気特はしない。そのムヤムヤを解し得ねば、とてもアストンを読み得ざるぺしと断念したるが、蓋し日本でアストンを味へるは敏先生只一人ならんか」と皮肉を言った。
あくまでも正系の語学的理解の上に文学の研究を築こうとする上田敏の講義は、その年の若さや美貌と相まってぺタンティックに聞え、語学の力のない学生たちを反撥させた

ウィリアム・ジョージ・アストンはアイルランド生れのイギリス人。元治元年公使館通訳として日本に来、明治17年に再び来朝、明治22年帰国した。日本語に精通し、「日本文法」、「日本文学史」、「神道」等の英文の著書がある。

この時期の漱石の生活について・・・。
「日常生活はホトトギス誌上の『吾輩は猫である』といふ一文によりても、一斑を窺ひ得べく、久しい間神経胃弱で、外界の騒がしき刺戟に堪へず、可成(なるべく)世を離れて気楽に暮らさんとするのか終生の目的。従って人の訪問をも喜ばず、いやな奴が来て、長座すると、終に理へ得られなくなって、露骨に『君は帰って呉れ玉へ』といひ引留言葉などつひぞいひし事なし。」
西洋の大文学書を西洋人と同じやうに解釈するはとても出来得べきことではない。諸君は自から感じたる所のみを味はへばよい。西洋の批評家がかくいったからとて、強ひて其の通りに感じようと勉める必要はないのだ。」と言っているが、「さりとて一字一句の注意を怠ることなく、決して粗雑の読みやうはしない。和漢文学も一通りは心得、殊に俳句に巧みなれば、其のなだらかの講義の自ら滑稽趣味を帯び楽しく面白く聴きなさる。(略)先生も元から今の如く大悟せしにあらず、熊本の高等学校にありし際は随分学生を苦しめて得意顔せし事もあったさうな。」

上田敏の弱点
江戸っ子で東京外に出たからないが、「此処に面白い一例は先頃横浜の某学校の依頼により止むなく演説に出掛ける時、妻子に対し離別の情に堪へず、殆んど水杯もしかねまじき有様にて、一度門口に出た後、再び後戻りして妻君と愛女瑠璃子嬢の顔をつくづくと眺め、涙ぐんで出られたさうである。」
*
10月1日
・『社会主義評論』(「読売新聞」連載)。~12月10日まで。翌年1月、単行本として刊行(同年9月に改訂第5版発行)。
著者は「千山万水楼主人」と署名(河上肇)。

河上肇は、東京で学生生活を始めた頃から、木下尚江、内村鑑三、島田三郎、田口卯吉、田中正造、安部磯雄、西川光次郎、河上清、幸徳伝次郎等の講演を聞き、中でも木下尚江と内村鑑三に心を惹かれた。彼は何度か木下尚江を訪問し、敬愛の念を深めたが、内村鑑三は寄りつきにくい気がして訪問しなかった。彼は内村の「聖書之研究」を購読し、「バイブル」を読むようになった。
「バイブル」の中でも特に「マタイ伝」の一節に惹かれた。
「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんぢを訟へて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。」
彼は、こういう絶対的な非利己的態度が、人間の理想でなければならないと感じた。一方で、彼は、そんな態度ではとても此の世に生きて行くことができない、すぐにも身を滅すであろう、という声も湧いていた。これが彼の糖神的煩悶のはじまりであった。

明治34年暮、渡良瀬川の農民救済運動をしていた潮田千勢子たちの講演を聞いて、彼は、身につけている以外の衣類を全部行李に詰めて送り届けた。
彼が寄附した着物の中には、母が蚕を飼い、糸を紡いで織ってくれた羽織などもあり、そのことを手紙で母に伝えると、母は大変怒った返事をよこした。彼は、「バイブル」通りに身を処して行くならば、父母の心を安んじることもできないと気づき、しばらくは、世間人並みの生活をしなければならないと考えた。

翌明治35年、東京帝大政治学科を卒業(24歳、専攻は経済学)。
この年、大塚秀子と結婚し、1年後には長男政男が生れた。

明治36年から東大の農科大学実科の経済学の講師となり、その後更に専修学校、台湾協会専門学校、学習院等の講師をも兼ねて、学者として順調な道をたどりはじめた。
だが生活が安定した彼のところに、伯父の息子と、更に二人の伯父の娘が預けられた。従弟や従妹の友達が集まって賑やかに騒ぐので、彼は夜更けてから勉強をはじめ、朝になって寝床に入る、という生活となった。
彼は、そういう家庭の空気が自分の研究生活を乱すように感じ、翌年、家庭をしばらく解散して研究生活に没頭することにした。妻と子を郷里の父母のもとに預け、自分は食事つきの室を借りて移り住んだ。

「読売新聞」主筆足立北鴎は同郷の山口県人で、その縁で明治38年、千山万水楼主人という筆名で、「社会主義評論」を「読売」に連載した。それは伝統的な経済学の立場から当時の社会主義者たちの思想や人となりを論じたものであった。この評論は大変好評で、そのために「読売新聞」の部数が増えたとも言たれた。

だが連載しているうちに、彼は糖神的不安に襲われはじめた。
マタイ伝の一節が、また至上命令となって彼の心に去来するようになった。自分が学んだ経済学研究は、結局、学位を得て出世するという一身の名利を追う方向へ自分を進ませるに過ぎず、「バイブル」の示している絶対的な非利己主義の理想と正に相反するものではないか、と思われて来た。彼は経済学の研究を放棄したくなり、街を歩きまわって自分の心を満たすものを求めはじめた。
その頃、九段坂下に、近角常観(ちかずみじようがん)の経営する求道学舎があり、彼はそこで近角常観の話を聞いた。
近角常観は、日露戦争前後の社会主義の勃興と、その弾圧との続いた時代に、精神界の指導者として知識階級に強い影響を与えた浄土真宗系の人物の一人であった。

この時代、さまざまな系統の精神界の指導者がいた。キリスト教系の代表的人物として内村鑑三近角常観の先輩の清沢満之(まんし)伊藤証信、坪内逍遥の古い弟子である綱島栄一郎(梁川)らがいた。

綱島梁川は明治28年「道徳的理想論」書いて東京専門学校を卒業したが、卒業後肺を患ってから、キリスト教に入った。彼は小説、文芸評論を書いていたが、明治35年1月、「悲哀の高調」を発表して、宗教感情を描いた美文の作家として名が売れた。
その後、主に宗教論を書くようになり、病床にあって思索生活をしていたが、明治37年7月~11月に三度神の存在に接触した体験を持ち、翌明治38年5月「予が見神の実験」を発表して大きな反響を呼んだ。またこの年7月、「梁川文集」を出し、10月には「病間録」を出版した。
大町桂月ですら、「とも(この2書)に近時の大著述なり。梁川文集は学者、識者、論客としての梁川を知るべく、病間録は一種の予言のおもかげを見る」と評した。

社会主義運動のような実践性のあるものの禁圧と、戦争による死の体験やその見聞が、青年たちを、これ等精神主義者の著作や実践に引きつけていた。

近角常観は、本願寺系の僧侶の出であったが、東大を卒業した文学士であり、彼の思想を受け入れた学生たちをその求道学舎に寄宿させて指導していた。はじめ本郷の森川町にその求道学舎があったが、後それを九段下に移した。

河上肇は、近角の思想に満足せず、救世軍の集会に出かけて行って山室軍平の説教を聞いた。また、内村鑑三、植村正久と並ぶキリスト教界の指導者であった海老名弾正の説教を本郷教会へ聞きに行った。海老名弾正は異様に禿げ上った狭い額、細長い皺に包まれた顔、長く伸ばされた顎髭、底力のある錆びた声の長身痩躯の立派な人物であった。彼は黒の紋付に仙台平の袴をつけていた。その立派な服装が河上肇の目には邪魔になった。「なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」という「バイブル」の言葉の通りに生きたら、こんな立派を服装をしていられる筈がない、と彼は考えた。
*
10月1日
・小村寿太郎、バンクーバー着。
2日、発。
*
*


0 件のコメント: