2016年4月25日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(96)「戦争の惨禍」(1) 「歴史のかかる光景に接していると、私もがゴヤとともに人間に絶望をしなければならなくなる。 この絶望を越えて、なおも生きて行くことが出来るためには、人間がかかるものであることを身に徹して認識し、表現してかからねばならぬ。」

戦争の惨禍
版画集『戦争の惨禍』(Los Desastres de Guerra)は、大体のところ戦争の最中である一八一〇年から、フェルナンド七世が復位してマドリードに帰り、最悪の反動政治を開始する一八一四年頃までの間に刻まれたものであった。そうして公式の出版は、ゴヤの死後三五年も経た一八六三年のことである。

・・・約一万二〇〇〇のフランス軍団が、まず第一にセピーリアに向けて南下していた・・・(*一八〇八年五月二五日)。この軍団の目的は、直接的にはカディス港内に英国艦隊によって封鎖されていた八隻のフランス艦隊と二三〇〇名の乗員の救出にあった。その後に、訓練が行き届いてからジブラルタル要塞を急襲して地中海の制海権を擁護することにあった。そうしてこの軍団の後衛と病兵が三ヵ所で夜襲をかけられ、目を蔽いたくなるほどの残虐行為がスペイン側の手でなされた・・・。
フランス軍としては、ここで一度停止して態勢をととのえるべきものであったろう。この軍団と、カディスの二三〇〇名の水兵の運命は、悲惨極まりないものとなる。人間の、長い長い戦争の歴史のなかでも、これほどに悲惨かつ残酷なものは他に例がないかもしれない。・・・

フランス軍団は南下をつづけた。コルドバの一〇キロほど手前で、三〇〇〇人を越えるスペイン正規軍と、これよりも多数の志願兵、それに閥牛用の突き槍をもった”騎兵”などから成るスペイン軍と接触があったが、どういうわけか小競合い程度でスペイン側は突如として撤退し、コルドバの南へ引いてしまった。
実戦経験の一度もないフランスの徴募兵たちが敵を蹴散らかした、と思いこんだとしても不思議はない。そうして無防備都市宣言をしたコルドバへ入った途端に、あの狭い迷路のような通りの家々から、教会から零距離射撃を食い、多数の犠牲者を出した。そこへ後衛での残虐事件の報知がもたらされた。”パルデペニァスで、五三人のフランス人が肩まで土に埋められて殺されていた”。また”炙串に刺されて炙り殺されたものがいた”・・・。

こういう報知が兵にどのような反応を起させるか。
コルドバはフランス軍によって略奪された。士官たちは兵を抑えようとした。しかし掠奪暴行をはじめた軍は、それはもう軍ではない。・・・
「神の名において、兵に掠奪を許すな」というナポレオンの命令は破られた。

たしかにフランス軍は掠奪し、暴行を犯したけれども、フランス軍が戦闘に従事した地方での掠奪行為のすべてがフランス軍によって行われたのではないこともたしかである。アルパ公爵家の「ピエドライータ城館の破壊はフランス軍に帰せられている。しかし多くの人々は、最大の損害は土地の者によってなされたと信じている」というのが事実のようである。
ゴヤの掠奪、暴行、強姦などの戦争の惨禍が誰によってもたらされたか。仏軍もゲリラも、英国軍でさえが遠慮会釈もなくやってのけたのである。

コルドバで仏軍司令官は、市評議会の金庫をあけさせ一〇四〇万レアール(約二六〇万ドル)を没収し、別に市民に対して一〇〇〇万レアール(約二五〇万ドル)の賦課金を求めた(・・・)。

六月一五日、フランス軍は、セピーリァから二万五〇〇〇の歩兵と三〇〇〇の闘牛用の槍で武装をしたスペイン軍が発進したことを知る。・・・第一軍はジョーンズと称する一アイルランド人が指揮し、第二軍はド・クービニイ侯爵というフランス人亡命者、第三軍はルダンとも、レディングとも読めるスイス人(!)が指揮をしていた。
コルドバは包囲された。それは地形的に守りにくかった。そこで夜陰に乗じてフランス軍は、掠奪品を車に頼んで、グアダルキビール河に沿って上流へ撤退をした。掠奪品のなかには、コルドバのメスキータ大聖堂の、金、銀の聖器や装飾品が光り輝いていた。そこへマドリードから、トレドまで撤収せよ、という命令が来たが、何故かこの命令は無視される。フランス軍は、ある町あるいは村の方向から攻撃されると、その町、村を掠奪した。たとえばハエンの町がやられた。かくて軍用車に戦利品はうず高く積まれ、その高さの度合いに従って軍は解体して行く。フランス軍に編入されていた一三〇〇人のスイス兵は、スペイン軍中のスイス人指揮者の側へ寝返って行く。

・・・すでに七月に入ったアンダルシーアの太陽は、ときに四〇度に近い炎熱のなかに両軍を投げ込む。一つの井戸をめぐっての白兵戦が、くりかえされる。
かくて歴史に著名なバイレーンでのフランス軍の”降伏”が訪れる。

・・・この”降伏”には、・・・実に解きがたい謎があまりに多すぎる・・・。第一に、両軍の戦闘といっても、別に一大会戦が行われたわけでもなく、フランス軍は大砲を一発も射っていない。ただ、彼らはこの不正規軍の、不正規な動きに昼も夜も翻弄され、疲れ果ててしまったのである。彼らは夜寝るわけにも行かず、後衛が襲われつづけたために糧食さえもなかった。本当のところは、戦う必要もなかったのである。トレドへの撤収命令がすでに来ていたのであるから。・・・。
軍はすでに軍ではなかったのである。掠奪暴行はそれほどにも軍を解体させる毒素となる。

パイレーンでの”勝利者”と”敗者”の会談が三日にわたってつづけられ、”降伏”のための議定書が作成された。
・・・
しかし、・・・フランス側の某将軍の書類のなかから、マドリードへの帰還命令書が出て来た。これではカディス経由で進んで帰国するなどというのは真赤な嘘ではないか!
一切は御破算、になった。"

一方、コルドバとハエンでの略奪の噂のみが高くなって行き、スペイン人たちの憤怒はその熱を・・・急激に高めて行った。
第二回目の協定では、武器と荷物は現在地に置いておくこと、乗船時にそれは返還される、ということになった。すなわち武装解除である。敵地にあって武装を解除された軍隊の運命が如何なるものとなるか。

”死の行進”が開始される(・・・)。六〇〇〇から七〇〇〇の兵がまったく無意味な死を死ななければならなくなる。士官だけが武器携行を許される。
アンダルシーアの支配者であるモルラ将軍は、スペインそのものの名誉ある伝統に背いて第一の協定も第二のそれも無視する。またカディスにもマラガにもこの悲惨な軍隊を帰国させる船などはない、と言う。
八月の真に殺人的なアンダルシーアの暑熱のなかを、赤い土の埃で真赤になった虜囚の大群がのろのろと歩いて行く。目的地は北に向けての大西洋岸のラ・コルーニァと、南のマラガとカディスである。マラガへ下って行く部隊は途中で二〇〇〇メートル近い高さの峠を越さなければならぬ。
この三つの非武装の部隊は昼も夜も道路沿いの住民に襲われる。坊主どもとフェルナンド派を自称する人々に煽動された結果である。特に女性たちがおそろしく手の込んだ残虐行為の先頭に立った。目の玉をえぐり取ったり、性器を切り取ったりした。負傷兵は繃帯をむしり取られた、その下に掠奪した金製品をかくしているかもしれぬという理由で。落伍兵は遠慮会釈なく切り刻まれる。
二〇〇〇人の病兵負傷兵がカディス近くのある修道院に押し込められた、薬も糧食も、水さえも与えられずに。そのほとんどがそこで死んだ。とにもかくにも歩ける兵たちは、しかし、いたるところで武装をした徒党に襲われ、殺されつづけた。死んだ者の臓腑は犬に与えられた。何分にも反キリストなのであるから。これらの残虐行為のほとんどは聖職者の容認、いや奨励をさえうけていた。あるところでは二人の坊主に引率された連中がナイフで七五人の喉を掻き切った。神の名において……。

セピーリァの地方評議会としてもこの民衆の ー ・・・ - 暴行に堪えかね、そこで卑怯にもモルラは、フランス軍がバイレーン議定書に違反したからだ、という逆の声明を発した。事態は、場合によっては死を賭しても名誉を守るスペイン人としては、あまりに非スペイン的である。
しかし、フランス軍の悲惨は、カディス、マラガ両港へ着いたところで終るのではない、むしろそこから始まるのである。約八〇〇〇人の生残りは、一〇隻の、屋根も何もない平底のダルマ舟に押し込められて、湾内にプカブカと浮かされていた。横になって寝ることなど不可能である。湾外には英国艦隊が眼を光らせている。
これはもはや強制収容所そのものである。夏は眼もつぶれそうな光りと熱、冬は身を切る寒風。
スペインはその独立戦争、すなわちゲリラ戦の創始者として後年フィヒテによってその『ドイツ国民に告ぐ』のなかで称えられる栄誉をもつのであるが、同時に彼らは強制収容所の創始者でもあった。
大西洋側のラ・コルーニァ港へ送られたフランス兵二〇〇〇名は、古いガレー船に詰め込まれ、一人あたりのスペースとして一メートル平方以下しか持てなかった。
カディス港内に封鎖されていた二三〇〇の水兵たちはカナリア群島へ棄てられた。
一八〇九年五月に、この浮ぶ強制収容所から五〇〇〇人がマジョルカ島に送られ、ここでも住民は残酷な暴行を受け、脱走を試みた者は、南北に七キロ、東西に五キロの、岩だけしかない岩礁に棄てられた。ここでは人が人を喰って生きのびた。

一八一〇年にふたたびスペインを占領しセピーリアからカディスをフランス軍が包囲したとき、一縷の望みが出て来た。けれども英国艦隊によって砲や弾薬を補給されたカディスを落すことが出来なかった。・・・
六年後の一八一四年六月、一万二〇〇〇のアンダルシーア軍団と二三〇〇の水兵中、生き残った三三八九人がマルセイユへ帰りついた(マルセイユで彼らは”皇帝万歳”と叫んで、あやうくもう一度コルシカ島へ送られそうになった。ナポレオンはもういなかったのである)。

・・・ポルトガルを占領したジュノー将軍・・・、この将軍の軍も、ウエルズレイ将軍、後のウエリントン卿の英軍によってリスボン港内にプカブカ浮かされていた。しかし英国は約束を守ってフランスへ送りかえしたものであった。とは言え、だからと言って英国が紳士的であったわけではない。残虐行為を煽った者の背後にいたのは英国にはかならない。それからもう一つ、英国に関してであるが、コルドバ、バイレーンなどでの”おかしな戦争”の際に、スペイン正規軍がこの不正規軍に参加していたのに、いちどもフランス軍と顔を合せていないことの、その裏にも英国がいたのである。正規軍は温存しておかねはならぬ・・・

ゴヤ『戦争の惨禍』27「お慈悲」1808-14

歴史のかかる光景に接していると、私もがゴヤとともに人間に絶望をしなければならなくなる。
この絶望を越えて、なおも生きて行くことが出来るためには、人間がかかるものであることを身に徹して認識し、表現してかからねばならぬ。

それでもなお絶望は克服されつくしはしないであろう。人間はこのあとあとも戦争の惨禍をくりかえし、南京大虐殺からアウシュヴィッツ、原子燥弾までも投げつけるのである。ベトナムのミィ・ライ事件のこともある。墓のなかまでもって行くよりほかに道はない。
かかるものとしての人間と知ってみれば、版画集『戦争の惨禍』の終りから二枚目、八一番の怪獣としても、一旦は食べた人間どもをゲーツと吐き出したくもなったであろう。
ゴヤの『戦争の惨禍』には、微妙なかげりがある。

二七番の「お慈悲」と題されたものは、裸に剥かれた屍をゲリラとおぼしい農民たちが穴に放り込んでいるの図であるが、そこに悪鬼か亡霊のようなゴヤ自身が登場して天の一角を睨みつけている。
英雄的、愛国的、祖国独立のための、独立戦争、人民戦争などという美辞麗句にだまされてはならないのである。・・・
なるほどフランス軍はコルドバで、ハエンで人も殺し掠奪もやった。しかし厖大な残虐行為を先にやったのはスペイン側である。
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