2016年5月14日土曜日

日曜美術館(4月24日) 「裸体画こそアートだ “近代絵画の父”黒田清輝の格闘」 ; “風俗壊乱”と非難を浴びた裸婦像「朝妝」、3女性の裸婦像「智・感・情」、下半身が布で隠される“腰巻事件”を引き起こした「裸体婦人像」など裸体画騒動を主軸に黒田の生涯を概観する。

日曜美術館(4月24日)
「裸体画こそアートだ “近代絵画の父”黒田清輝の格闘」


“近代絵画の父”と呼ばれ、明治の美術界を牽引した黒田清輝(1866-1924)の生涯は、西洋絵画を日本に根づかせるため裸体画問題と格闘し続けた生涯でもあった。

 “風俗壊乱”と非難を浴びた裸婦像「朝妝(ちょうしょう)」、3女性の裸婦像「智・感・情」、そして下半身が布で隠される“腰巻事件”を引き起こした「裸体婦人像」など裸体画騒動を主軸に黒田の生涯を概観する。

 明治28年(1895年)京都で第4回内国勧業博覧会が開催され、その展覧会に黒田の裸体画「朝妝(ちょうしょう)」が展示される。鏡の前で朝の身づくろいをする西洋の女性。
 この絵は風俗を乱すとして世間から激しい批難を浴びるが、黒田は一切反論せず口をつぐんだ。
 「朝妝(ちょうしょう)」


 ただ親しい友人には次のような手紙を送っている。

 「どう考えても裸体画を春画とみなす理屈がどこにある。日本の美術の将来にとっても裸体画の悪いということは決してない。悪いどころか大いに奨励すべきだ。今、多数のお先真っ暗連が何と抜かそうとかまったことはない。道理上、俺が勝ちだ」

 激しい非難にも関わらず当時の責任者の英断で裸体画の展示は続行された。
 ただ、天皇の行幸の際には展示に布がかけられたと言う。

 裸体画に関する黒田の自信はフランスで培われたものだった。
 裕福な官僚政治家の養子だった黒田は明治17年、法律を学ぶため17歳でパリに留学。
しかし、19歳の時、友人たちにすすめられ画家になることを決意。
清輝が師事したのはラファエル・コランという画家で、裸婦を中心に女性像を多く描き、裸婦の画家とも呼ばれていた。
コランの代表作「フロレアル(花月)」

 コランに師事した黒田が最も力を注いだのが裸体画のデッサンだった。
 古代ギリシャ以来、裸体が美の理想を表すという思想を育んできた西洋。当時、フランスで最高位とされた神話画や歴史画を描くためには人体デッサンが最も重要だった。
黒田も多くの裸体画デッサンを残している。5年間、裸体画ばかり描いたと後に回想している。

黒田が24歳の時、「読書」で初めてフランスのサロンに入選する。

 そして、次にサロンで入選したのが日本で物議をかもすことになる裸体画「朝妝」。
 これは9年間の留学の総決算として描いた絵であった(実物は戦災で焼失)。
 
 裸体画騒動の翌年(明治29年)、東京美術学校(現、東京芸術大学)に西洋画科が新設され、黒田はその指導を任される。黒田は自分がフランスで学んだように実際のモデルを使った裸体画の授業を始めた。裸体画こそが美術教育の中心であるべきだという信念を通し、自らもまた新たな裸体画に挑戦した。

日本人をモデルにした裸体画の三部作、「智・感・情」(重要文化財)は、またしても世間の論議の的になった。
 女性たちは7.5等身の理想的な体をしている。黒田は日本人モデルを元にしながら理想的なプロポーションに作りかえていったのではないかと言われている。


また、金の背景にした明確な輪郭線は西洋画にはない特徴である。

 1900年、40ヵ国以上が参加してパリで万国博覧会が開かれ、日本は工芸品や日本画とともに多数の洋画を出品。黒田は「智・感・情」をはじめ5点の作品を展示した。

その一つが「湖畔」(重要文化財)で、油絵で描いた日本的な洋画だと言われている。
 博覧会に展示した日本の洋画家たちの中で、黒田だけが銀杯を受賞した。

 パリ万博の翌年(明治34年)、黒田の裸体画は三度、世間を騒がせることになる。

 「裸体婦人像」

 この絵が風俗をかき乱すと見なした警察は下半分を布で覆ってしまい、下半身を覆った布が腰巻を思わせたため、「腰巻事件」と呼ばれた。
 警察が下半身を隠したことで、かえって騒ぎを大きくした。


 黒田清輝はこの処置に対し新聞紙上で次のように語っている。

 「裸体画は絵画にとって最も高尚なものに属するのに世のわからずやはいまだに分かってくれないので困る。自分で言うのもおこがましいが最も難しい腰のところの関節に力を注いだつもりなのに、その肝心なところに幕をはられたわけだ」

 黒田はその後も裸体画を描くことを止めることはなく、戸外のヌードにも挑んでいる。

「春」と「秋」と題された作品は、隔離された場所での展示となった。

 40代の黒田が精力的に取り組んだ裸体画の大作が「花野」であったが、8年をかけても未完のままに終った。

 50歳になった黒田は次のように語った。

 「私の欲を言えばもう少しスケッチの域を脱して絵というものになるように進みたいと思う。まだほとんどタブローというものを作る腕がない」

 晩年、黒田清輝は貴族院議員になり、さらに帝国美術院長の要職に就いた。まさに日本の美術界の頂点に立った。

 そんな黒田にまたしても裸体画騒動がふりかかる。
 大正13年(1924年)、東京でフランス現代美術展が開かれ、マティスやゴーギャン、黒田の師ラファエル・コランの作品が展示された。しかし警察当局によってコランの絵画やロダンの彫刻などの撤去騒ぎが起こり、黒田は文部省など関係部局との交渉に奔走。その結果、ようやく特別室での展示となった。

 その心労がたたったのか、黒田はフランス現代美術展のすぐ後に亡くなった(58歳)。
 まさに裸体画と格闘し続けた画家であった。

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