2016年6月20日月曜日

明治38年(1905)12月 中里介山「送年の辞」(「新潮」)。「社会主義を捨てた」理由を説明 森田草平が初めて漱石宅を訪れる(誕生からの概観) 

鎌倉 明月院 2016-06-14
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明治38年(1905)
12月
・本間雅晴、陸士入学。第19期生。
今村均・河辺正三・塚田攻・喜田誠一・田中静壱(この5人は大将に昇進、本間は中将で予備役編入)。
この年は、日露戦争の火急に間に合わせるため期間を短縮して、3月に第17期生、11月に第18期生が卒業。また、採用数も急増した第18期生が969人であったが、第19期は更に1083人に増える(第19期は中学出身者だけを対象とする召集)。
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・福田英子「わらはの思い出」出版。「妾の半生涯」が好評のため。
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・白柳秀湖「わが徒の芸術観」(「火鞭」)12
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・中里介山「送年の辞」(「新潮」)。「社会主義を捨てた」理由を説明。
①「狂乱せる愚民の」日比谷焼討ちを見て、「多数の力によって主義の実行を望む社会主義の企画に甚だ危険を感じたり」。
②8月27日「直言」のトルストイの記述「社会主義は人間性情の最も賤しき部分の満足(即ち其の物質的の幸福)を以て目的と為す、…」による。介山は、後トルストイアンとなる。
1906年「都新聞」主筆田川大吉郎の勧めで同紙入り、1909年より紙上に小説発表。
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・東京府立一中留学生同盟休講。朝鮮人に高等教育不要との新聞報道抗議。
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・漱石(38)、4女愛子誕生。
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・森田草平の出現
森田草平が初めて漱石宅を訪れる。

この月のある日、森田米松(25歳)という身体の大きな東大生が、千駄木の漱石を訪ねて来た。書斎に通された森田は大学の英文科の学生であると名乗り、近く上田敏先生の主宰している雑誌「芸苑」(第二次)に自分の「病葉」という小説が出るから読んで頂きたいと口ごもりながら言った。
森田は明治14年(1881)3月19日、岐阜県鷺山村の地主の家に生れた。

明治24年、数え年11歳の春、父を失った。更にその年10月27日、濃尾地方の大地震に遭遇した。
少年の頃、叔父が岐阜で女郎屋を経営しており、森田はしばしばそこへ遊びに行き、一人の遊女に弟のように可愛がられた。

15歳の時、海軍軍人になる目的で上京し、攻玉社(こうぎよくしや)海軍予備校に入った(攻玉社は海軍兵学校予科に当る中等学校)。

明治28年夏、帰郷した際、岐阜の町で、以前に叔父の女部屋にいた遊女に逢った。叔父は女部屋の経営に失敗して、女はよその女郎屋に移っていた。森田は大柄で、大人と同じような背丈になっていた上、古い小説類で遊女の恋愛に関心を持っていたので、この遊女のところへ遊びに行って関係し、夏の休みじゅう毎日のように自分の村から舟を漕いで通い続けた。昼間のことなので、母に知られずに済んだ。

8月未に上京する際、彼は汽車に乗ったふりをして女郎屋に行き、一週間滞在し、古風な起請を女と取りかわした。それは、小指に傷つけて、その血で同じ文言の二通の文を書いて一通ずつ身につけて持っているというものであった。

上京して1年間、彼は女と文通を続けたが、翌年、女からある老人の妾になったという手紙が来た。森田は絶望したが、夏に帰郷するとまた女に逢った。彼は女の裏切りをなじり、夫婦になろうと言いはった。
彼は女と四日市の近くの湯ノ山温泉で1週間一緒に過した。女は近く旦那と一緒に北海道へ移住するので、もう逢えぬと言って別れた。

森田は海軍に入るのかいやになり、二三の学校を移り変った後、数え年18歳のとき、杉浦重剛の経営する日本中学5年生に編入試験を受けて入った。

明治32年3月、19歳の時、日本中学を卒業して、郷里へ帰っていたが、その間に親戚の一少女と恋愛した。
その年7月、彼は金沢の第四高等学校へ入学した。
その年11月、その女性が彼を追って金沢へ来た。その女と逢っていたことが発覚して、彼は担任の国文教師藤井乙男に叱られ、諭旨退学になった。

その年末から翌年春まで、彼は名古屋で放浪生活をした。そのとき、彼は森鴎外の「水沫集(みなわしゆう)」を買った。それは明治25年7月に春陽堂から発行され、初期の鴎外の小説「舞姫」、「うたかたの記」、「文づかひ」の外、小説戯曲の翻訳を載せ、外に訳詩集「於母影」や、またその後の鴎外の十数篇の訳詩を載せた、鴎外の初期の全業績をまとめた代表作集であった。森田は、本当の文学とはこのようなものであるとの感を深くし、その書を持ち歩いて繰り返し耽読した。

明治33年、再び上京し根津権現の境内のある下宿屋にいた。そこで彼は詩人河井酔茗と同宿になり、知り合った。7月、彼は第一高等学校の入学試験を受けて合格した。

この年(1903年)、南アフリカでボーア人とイギリス人との間に戦争が起り、その報道が新聞に載った。森田はイギリス帝国主義に反抗するボーア人の軍隊に義勇軍として参加すると言い出した。河井酔茗が彼に忠告して、それをあきらめさせた。

9月、彼は第一高等学校に入学した。同級生には、生田弘治、栗原元吉、川下喜一等の文学好きな生徒がいたので、それ等の仲間と「夕づつ」という廻覧雑誌を作った。
明治35年、22歳の森田は千駄ヶ谷の新詩社に与謝野寛夫妻を訪ぬ、「明星」の仲間に加えてもらった。また「文芸倶楽部」に投書して20円の賞金をもらった。

翌明治36年6月、彼は第一高等学校を卒業した。8月、彼の親戚の女森田つねが、郷里の村で彼の子、亮一を生んだ。彼は上京したが子女を遠ざけ、そのことを内緒にしていた。その年9月、彼は東京帝国大学英文科に入った。

その年一高から東大英文科へ入った学生の中では、森田が一番成績がよかった。当時、一高から大学に入った者は、それぞれの科で一番にならなければならぬという不文律の伝統があって、英文科では森田がその責を果たす立場にあった。しかし、彼の同期には、三高で三年間首席を通し、シェイクスピアの全作品を読んでいると言われた中川芳太郎がいた。とても中川にはかなわないと思って、森田は一番になることをあきらめ、英文科の講義をあまり熱心に聞かなかった。また彼は、同級生に、その中川の友人で鈴木三重吉がいることも知らなかった。

森田は難解で有名な漱石の「文学論」の講義に出席せず、シェイクスピアの作品の講義だけを聞いたが、彼にはシェイクスピアそのものが面白くなかったので、出席したのは三分の一ぐらいであった。大学1年の時、彼は一高時代の廻覧雑誌仲間の栗原元吉に伴われて、飯田橋に近い牛込区弁天町の馬場孤喋(36歳)を訪ねた。旧「文学界」同人の一人であった馬場は、樋口一葉の生前、最も一葉に親近した一人であった。彼は一葉が死んだ翌年の明治30年、それまで勤めていた彦根中学をやめて上京し、以後日本銀行に勤めていた。馬場は森田に、ロシア文学の魅力について語り、ガーネットの英訳したツルゲーネフの「ルーティン」を貸した。ツルゲーネフは森田を熱狂させた。ロシア文学の、人を根本から動かす力に較ぺれば、英文学は小市民の小さな諷刺や小さな情感を描いた小文学に過ぎない、と彼は思った。ロシア文学こそ純文学そのものであると彼は考えた。

この明治36年暮頃、森田は、素人下宿屋を捜して、本郷の西片町の崖下の、丸山福田町4番地に1軒の小さな家を見つけた。6畳2間と4畳半と台所だけの家で、50あまりの寡婦が1人で住んでいた。彼はその6畳間を借り、食事は大学構内の食堂で食べることにした。森田がそこへ移ったことを栗原が馬場孤蝶に告げたとき、馬場は、どうもその家は樋口一葉の旧宅のような気がする、と言った。森田が馬場を訪ねて話を聞くと、そのとおりだということが分った。次の日曜日に、馬場がその家へやって来た。森田が借りている6畳間は、一葉が「にごりえ」「たけくらべ」を書いた室であり、明治29年11月23日に、一葉が息を引き取った室であった。馬場は一葉に対して強い懐旧の情を抱いていたので、それ以後、3日にあげず森田の下宿へ訪ねて来るようになった。森田はそれを自分への親愛の現われと考えてこの先輩の好意に感謝した。森田が一葉の旧居へ下宿したという話が大学内に伝わって、文学好きな学生たちは次々とその室を見に来るようになり、そのために森田は大学生の間で名を知られるようになった。

翌明治37年春、森田たちの仲間は、その家で一業の記念祭を行うことにした。馬場の世話で、吉江政次の妻になっている一葉の妹の邦子を招待した。また大学で森田の先生である上田敏の外、与謝野寛・晶子夫婦、河井酔茗、蒲原有明、小山内薫と妹の八千代などが参会した。森田の仲間では生田弘治、川下喜一、五島駿吉、中村蓊(しげる)、栗原元吉などが集まった。会場の設備としては、友人の描いた一葉の肖像の木炭画を室の正面に掲げ、森田の使っている机をその前に据えて、貧弱な供物を並べただけであった。そして一同は庭に並んで記念の写真を撮った。
それ以後森田と馬場の交際は急に親しみを加え、森田は馬場の家へ行って、その蔵書を次々と借り出し、馬場の書斎を自分の書庫であるかのように考えていた。森田が、この本を貸して下さい、と言うと、馬場は、「ああいいとも、持ってけ背負ってけ」と言って少しも惜しむ風がなかった。森田は馬場の家へ通って、そこにあるツルゲーネフの英訳書を全部読み、更に馬場の紹介で田山花袋、柳田国男を訪ねて、英訳のあるものを読んだ。更に彼は馬場にすすめられてメレジコフスキイの「人及び芸術家としてのトルストイとドストエフスキイ」を読んだ。それは彼のロシア文学に対する熱狂をほとんど頂点まで高めたものであった。この頃この書は僅かに田山花袋と馬場孤蝶などが持っていたもので、島崎藤村もそれを読みたいという手紙を花袋に書き、この翌年の明治37年1月にはじめて借りて読んだものであった。彼はこの本に導かれて、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読み、ドストエフスキイの「罪と罰」の英訳を読み、いよいよ英文学から遠ざかった。そして森田は、トルストイよりもドストエフスキイに感動した。彼は、自分こそ、いまの世界の新文学の第一線の作家に接している日本人だと考えながら英訳のあるものを捜して、「白痴」を読み「虐げられた人人」を読んだ。更に彼は馬場の書斎にあったフローベルやゾラの作品を全部読み、英文学に関するものはほとんど読まずに大学3年の大半を過した。

明治38年、漱石が「吾輩は猫である」をはじめ、次々と創作を発表し、それが文壇の反響を得つつあったとき、小説家志望の森田は、教師としてよりも文士としての漱石に近づきたい気特を強く抱きはじめた。森田の一高からの同級生の野村伝四(英文科)は小山内薫等の「七人」の同人であり、更に、五高で漱石に習ったことのある先輩の野間真綱の同郷人だった関係で、漱石宅に出入りしていた。森田は野村が「七人」の同人になっていることは羨しいとは思わなかったが、彼が漱石宅に出入りしていることを羨んだ。

この年10月、上田敏は「海潮音」を刊行し、その直後、「芸苑」復刊を企画した。上田はこの雑誌の編輯所を、本郷区西片町の自宅に置き、発行所は京橋区銀座3丁目の左久良書房に頼んだ。編輯兼発行人には「文学界」当時の旧友孤蝶馬場勝弥の名を借りた。そのため、馬場と親交があり、かつ上田の学生であった森田は、馬場の紹介でその雑誌に参加することとなった。森田とともに、その仲間の辻村鑑、生田弘治、五島駿吉、栗原元吉、川下喜一等もまたこの雑誌に参加した。生田は大学では美学を専攻し、大塚保治に師事していた。また江村川下喜一は独文科に籍を置き、古城栗原元吉は英文科に籍を置いていた。いよいよ「芸苑」が出ることになると、五島駿吉は梧桐夏雄というペンネームでアイへンドルフの「大理石像」を訳し、馬場孤蝶はチェーホフの「六号室」を訳し、胆駒古峡という筆名の中村蓊はツルゲーネフの「あがおひたち」を訳し、江村川下喜一は「沖の小島」という作品を書き、森田米松は白楊という号で「病葉」という小説を書いた。

上田敏はこの雑誌を出すに当って、生田弘治に長江という号を、また森田米松に白楊という号をつけてやった。更に上田敏の旧友で、この年4月から上京して、「破戒」の原稿の完成に努めていた島崎藤村は、特にこの雑誌に「朝飯」という短篇小説を寄稿した。また栗原古城は長風郎という匿名で、漱石がこの年11月に、「中央公論」に発表したばかりの「薤露行(かいろこう)」の批評を書いた。

森田が漱石宅を訪ねたのは、この雑誌が出来あがる少し前のことであった。森田は、この雑誌に参加する前に、「捨てられたる女」という美文めいた感想文を書いて「帝国文学」に送り、発表されたが、鴎外の「舞姫」張りの文語体で書いたその作品は何の反響ももたらさなかった。森田は今度の「病葉」という小説について漱石の意見を聞きたかったし、それ以上に彼は人間としての漱石に近づきたかった。

年末、「芸苑」は漱石に送り届けられた。
翌明治39年正月元旦、漱石の手紙が森田に届き、森田は感激した。

「拝啓本日書店より『芸苑』の寄贈をうけて、君の『病薬』を拝見しました。よく出来てゐます。文章などは随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い。而し美しい愉快な感じがないと思ひます。或ひは君は既に細君を持って居る人ではないですか。それでなければ近頃の露国小説などを無暗に読んだんでせう。(略)君の若さであんな事を書くのは、書物の上か、又生活の上で相応の源因を得たのでありませう。ホトトギスに出た伊藤左千夫の『野菊の墓』といふのを読んで御覧なさい。文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします、以上。(略)」

森田は、自分は漱石に存在を認められたことに無上の喜びを感じた。また人に告げずに田舎に置いてあるとは言え妻を持っていることも、ロシアの小説を読みふけっていることも漱石に見破られたのか分った。しかし、それ故に一層彼は自分の存在を夏目にはっきりと認められ、もう自分は孤独ではなくなった、と感じた。
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・東洋汽船、南米西岸線開航。
1903年末では登録船数4,602隻、98万トンに対し、5,089隻、126万トンに激増。
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・日本興業銀行、関西鉄道株式会社外債100万ポンド募集。
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・岡山県会、知事提出の宇野港築港案を否決、知事の再議も退ける。
戦争で疲弊した民力の堪えるところでないとの理由。県下各郡では有志大会を開催して県会を支援。勝田郡民有志大会は、赤十字・愛国婦人会・義勇艦隊の募金中止を決議、代議士には普通選挙・行政改革・塩税廃止・兵役年限短縮を要請。
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・イラン立憲革命開始。
砂糖価格の急騰を理由にテヘランの砂糖商人が処刑され、それを不満としてテヘランで大規模デモ。専制批判に始まり、住民の権利擁護組織(正義の館)の設置と国民議会開設要求に至る。
ロシア周辺の従属的地域では、日露戦争とロシア革命の波動は敏速に伝わる。
翌年8月モザッファルッディーン・シャー、憲法と議会とを認める。
彼に代って即位したモハッマド・アリー・シャーは英露協商に基づく列強の干渉を背景に革命を圧迫するが、これに対する大衆蜂起により退位、皇太子を擁して立憲政治を回復。
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・インド国民会議大会開催。外国商品排斥・国産品愛用運動開始。
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・露、モスクワ・ノボロシースク・チタ・ペルミ・ハリコフその他で武装蜂起。
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・フィリピン、町長・役員選挙。
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