2016年8月31日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(106)「マドリード・ホセ一世」(3) ; 『マドリード市の寓意画』1810 今日、この作を見る人は、右上方の大きなメダルに、DOS DE MAYO (五月の二日)という大文字がまことに不粋不風流に描き込まれているのを、厭でも見なければならない。そうしてこのメダル内のものの変遷が、スペインとマドリードの変遷そのものであった。

 サラゴーサからマドリードへ帰って来てゴヤは何をしているか。
 注文仕事が少くなって来た。・・・
 ホセ一世の治世がはじまり、モラティンやリォレンテ師などのフランス派の彼の友人たちが生き生きとして仕事をはじめた。これらのリベラリストたちの思想と活動は、おそらく画家に大きく働きかけたであろう。・・・
 ここで彼は、二つの夢と希望 - フェルナンドに託されたそれと、征服者が具現しようとしている夢と希望との - その二つに挟み撃ちにされていることになる。

 そうして一般民衆はスペイン人には親身なものである宿命論によって、次第に諦めて行く。宿命論は、暗黙の同意と服従を呼び戻す。
 けれども、この暗黙のくらやみのなかには、五月の二日のあの蜂起の記憶が埋み火のようにして埋め込まれているのであり、またゴヤにあっては、近頃彼自身が目撃をして来たサラゴーサの廃墟の景観もが埋め込まれている。

ゴヤ『マドリード市の寓意画』1810

 ここにまた一つの大いなる転機が来ているのである。
 労働者や百姓、街頭の水売りや紡織女工や研ぎ屋などを主題として描くことは、スペイン絵画の伝統に根差したものでもあった。この種の絵画の典型は、ベラスケスの『繊女たち』であり、『セピーリアの水売り』である。ゴヤもまたベラスケスの『織女たち』にそっくりなものを描くのであるが、ベラスケスのそれは冷徹なほどの客観性につらぬかれてい、それは貴族の壁を飾るためのものであった。そうしてゴヤのそれは、前者とは近づき方が異なっている。働く女たちの生ま生ましく温い体温が複製で見るだけでも感じられるほどのものである(・・・)。

 ゴヤはマドリードの巷を歩き、人々の日常生活情景をアトリエへ持ち帰る。それは誰のための仕事でもない、主題そのものが彼に自由を与え、自らを解放するために資してくれるであろう。
 そうして、解放された彼自身と彼の手は、やがて従来とは別種の、大いなる世界を現前させて行くであろう。
 王室と貴族社会の呪縛は、ここにほとんど解き放たれる。異端審問所もなくなった。

ところでこの大きな作品であるが、これはいまでもマドリード市庁舎の大広間に掲げてあるもので、よく言えばサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ小聖堂の天井画の照り返しのようなものであり、まともに眺めれば看板絵である。

 大柄なマドリード娘が中央左に立って玉虫色の薄物を身にまとい、マドリード市の紋章である樫の木に熊(実はこれは紋章の半分だけなのだが)が描き込まれた盾に肱をついている。このマドリード娘はさすがによく描けている。足許に犬が一匹。それからなんとも無器用な具合に羽の生えた、一人は半裸、もう一人は全裸の娘=精霊が大型のメダルを支えていて、その左上にはトランペットを吹いている娘=精霊が横ッ飛びに宙空を飛んでいる。映画の看板絵然たるものである。
 
 今日、この作を見る人は、右上方の大きなメダルに、DOS DE MAYO (五月の二日)という大文字がまことに不粋不風流に描き込まれているのを、厭でも見なければならない。
 そうしてこのメダル内のものの変遷が、スペインとマドリードの変遷そのものであった。

 それは八度も変えられたのである。
 オリジナルは言うまでもなく、石版画を元としたホセ一世像である。"
 一八一二年八月、ウェリントン卿入城、ホセ一世はバレンシアへ逃れる。市参事会は、ホセ一世像は銃剣で脅かされて描いたものだ、として、肖像を消し、代りに、彼らが不磨の大典、世紀の偉業だと信じていたカディス憲法を記念し、CONSTITUCION (憲法)と書き込むことにした。ゴヤは弟子を派過してホセ一世像を塗りつぶし、参事会の意に添う。
 ところで、同年一〇月ウェリントン卿はマドリード退去。一一月、ホセ一世再入城。一二月三一日、市参事会は、CONSTITUCION を削ってもとのホセ一世像復元を決議。ゴヤは弟子を派遣。
一八一三年三月、最終的にホセ一世、マドリードを離れる。またまた聖の聖なる CONSTITUCION ・・・。
 やがてフェルナンド七世復位、マドリード入り。フェルナンドは憲法などということばは聞くだけでもヘドが出ると言う。市参事会はあわてふためいて、誰とも知れぬ無名の画家にフェルナンドの肖像を描き込ませる。ここで、この塗り潰しごっこはゴヤの手を決定的にはなれる。
 一八二三年、この絶対専制の暴君の武断政治に怒ったリベラル派=ナポレオン党の小役人が剣を振るってフェルナンドの両眼を突き刺し、咽喉を切った。
 反フェルナンド暴動が起り、王はカディスに逃げ込むが、フランス派遣軍(!)に助けられてマドリードに戻り、一八二六年、突き刺された眼と咽喉の傷を修復。同時に当時の人気画家ビセンテ・ロペスが描きなおす。
 一八四一年 - ゴヤはもういない - カルリスタ戦争でフェルナンドはまたまた追い出され、今度は高貴なる”憲法の本”が描かれる。
 一八七二年、アマデオ一世治下、ゴヤのオリジナルなホセ一世像を復元することに決定。絵を注意深く削って行くと、”憲法の本”、ロペスのフェルナンド、もう一つの無名の人のフェルナンド、憲法、弟子の手になるホセ一世、また憲法などが続々と、逆の順序であらわれては消えて行く。そうして最終的に - ゴヤのホセ一世は、無かった。

 人々は頭を絞って、最終的に、メダルには、DOD DE MAYO  - と、スペイン近代史上のもっとも記念碑的な目付け、五月の二日と描き入れることにした。

 マドリード市のための寓意画にホセ一世を描き込んだもの以外にも、ゴヤはホセ一世を描いているであろうか。・・・

 それは、おそらくなかったものと思われる。というのは、このジョセフ・ボナパルト(ホセ一世)がナポリ王時代に描かせた肖像画の好みを見れば、到底ゴヤの画風が大人気を博するなどということはありえないと思われる。それにフランスでの時代の好尚は、すでに新古典主義であった。
 けれども、王からの用命があってもなくても、彼が公式の画家であることに変りはない。王の側近からの注文があれば、やはり描かねはならぬ。それに画料の問題もまた重大である。・・・
 王の侍従の一人、二コラ・キー将軍から、自分と幼い甥の肖像画を描いてくれという依頼が来る。将軍の方は、これは肖像というよりも軍服そのものであり、・・・。そうして甥のヴィクトルの方は、・・・幼児を描くときの、この画家の私心のなさがここでも十全に発揮されている。この二枚は、現在はニューヨークとワシントンにある。"
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