2016年9月15日木曜日

天正3年(1575)1月1日~3月31日 信長、諸国に道普請を命じる。大津~山中路・北白川経由~京都への新道が建設 信長、京都の都市貴族に徳政令を発布 この時点での本願寺包囲体制: 荒木村重-長岡藤孝-原田直政 [信長42歳]

日比谷公園 2016-09-09
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天正3年(1575)
この年
信長42歳、光秀48歳、秀吉40歳、家康34歳
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・この年の頃、信長やその軍勢は泣く子も黙るほどに恐れられていた。
「この時分は、みなみな子供まで泣き申しそうろうに、上総殿の衆と申しそうらえば、子供泣きやみ申しそうろうほどに恐がり申しそうろう、」
(この天正三年ころは、子どもが泣いていても、信長の軍勢が来たといえば、泣きやむほどにみな怖がった。)」
上賀茂社の社司、岡本保望の覚え書(『岡本保望上賀茂神社興隆覚』)元和7年(1621)
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・ロシア、ボリス=ゴドウノフ妹イリーナ、イワン4世(雷帝)次男フョードル(後継皇帝)と結婚。
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・スペイン、フェリペ2世、2度目の破産宣言。
フランス内紛に介入する余裕なし。
王室に関する全支払停止(兵士への給与支払も停止)。
広大な帝国維持のために巨額が必要 (全属僚地に軍隊駐在)。とりわけネーデルランド統治には果てしなく金が必要。
フェリペ2世治世中、国庫支払停止措置は4回、公債額は13倍に膨れ上がる。
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・ベーメンの新教徒、「チェコ人の信仰告白」発表。
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・頃、アメリカ銀のフランスへの流入、急増。
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・フランス、アンブロワーズ・パレ、「著作集」発禁。
パリ大学医学部の権威が彼の実証主義を攻撃。外科医仲間の羨望。
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・フランス、新教徒・陶工ベルナール・パリッシー、地質学・鉱物学・博物学一般に関する公開講演会。10年続く。
第1回出席者は34名。後、外科医アンブロワーズ・パレなど一流の医学者・法曹学者・文学者・貴族が参加。
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・ノストラダムス弟ジャン・ド・ノートルダム、「古プロヴァンス詩人列伝」。熱心なカトリック。
1561年エセックスの乱で新教徒迫害のため投獄。1590年没。
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1月
・信長、諸国に道普請を命じる。
この時、大津~山中路・北白川経由~京都への新道が建設。道幅は3間と決められる。
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1月1日
・毛利輝元・小早川隆景、三村元親の将三村正政を備中国吉城に攻め、この日落とす。
2日、小早川隆景、備中成羽に進出。
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1月3日
・京都の宮医師坂光国(62)、歿。
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1月10日
・信長、洛中洛外寺社・本所雑掌中へ、荘園年貢の押妨・不納をやめぬ荘園代官は、補任状で宛行われていても改易し「順路之輩」を代官に任命すると布告(「立入宗継文書」、「実相院文書」)。
荘園にまつわるいくつもの領主権益(代官、高利貸し、土豪)の実態把握とこれを「一職」に統一した知行の対象とする信長の意図。
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1月10日
・仏、ダンヴィル伯アンリ・ド・モンモランシー、ニーム(アヴィニョン西方45km)で「ユニオン協定」作成。
半ば独立的で共和国の形態 の「ラングドック共和国」成立(ダンヴィル伯が支配、ダンヴィル伯はコンデ公の権力下)。
アンリ3世、「ユニオン協定」を承認、アヴィニョンから退去、ラングドック地方の離脱と王権の敗北を確認。
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1月11日
・柴田勝家、高野山金剛峰寺へ、大和宇智郡に進出した根来寺に撤収を説得している、芳知平三郎左衛門尉も旧冬に信長へ礼問してきたことに触れ、金剛峰寺と根来寺が早々に「御無事」を実現することが重要であると指示(「興山寺文書」)。
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1月11日
・上杉謙信(46)、故長尾政景2男喜平次を養子にして加冠、景勝と名乗らせる。
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1月11日
・毛利輝元、但馬の山名韶熙・山名氏政父子と和睦。
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1月13日
・村井貞勝、上洛する。
中御門宣教・正親町季秀・広橋兼勝の訪問を受け、二十疋を贈られる(宣教卿記)。
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1月22日
・筒井順慶属城長井城、大和国人により攻略。
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1月22日
・宇喜多直家、浦上宗景に背き、宗景方三浦貞広と戦い敗れる。
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2月
・北條氏政、下野小山城(小山秀綱)を攻略。北条家の副将格北条氏照を配す。
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2月6日
・村井貞勝、光秀・矢部家定とともに、信長の使者として参内。鶴十羽を献上(御湯殿上日記)。
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2月8日
・足利義昭、紀伊より備後鞆に移る。
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2月13日
・村井貞勝、光秀とともに、嵯峨清涼寺に禁制を掲げる(清涼寺文書)。
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2月14日
・島井宗叱、牛黄円を大友宗麟に調達する。
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2月14日
・武田勝頼、信濃佐久郡の市川豊後守に木綿や塩などの領内自由通行の過所を与える。
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2月15日
・村井貞勝、山中路(やまなかみち、上京~北白川の間、巾3間)の新道造営を命じられる(「兼見卿記」)
16日、山中路の新道造営開始(「兼見卿記」)。
19日、貞勝、普請奉行を吉田社に遣わし、吉田兼和に、26日の信長入京までに新道を完成させるよう命令(「兼見卿記」)。
貞勝は、京都近郊の村に普請の仕事を割り当てた。吉田社のある吉田郷等十ヵ郷には、山中路600間分が割り当てられた。吉田兼和は、貞勝との縁故を頼ってこうした負担を逃れようとしてきたし、今回も免除を願い出たが、許可されなかった。
25日、貞勝、吉田兼和より、路次普請完了の連絡を受ける(「兼見卿記」)。
白川衆が担当した部分は、工事が遅れがちのため、吉田郷の人足は、その50間分を手伝った。
但し、橋を架けるところで、白川郷と山中郷との紛争があった。兼和は白川郷を手伝ったついでにこの紛争調停も行った。材木は山中郷、人足は白川郷が負担するという形で折り合いがついた。
信長の上洛は、予定より遅れた。
27日、貞勝、新道を乗馬で見回る(兼見卿記)。
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2月15日
・井伊直政(後、徳川四天王の1人)、家康に仕える。
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2月15日
・仏、アンリ3世、ランスで王の神聖式挙行。
ランス大司教ギーズ枢機卿ルイ・ド・ギーズ(ギーズ公アンリ弟、20、1555~1588)が聖別。
16日、ランスでルイーズ・ド・ヴォーデモン(ギーズ一族の分枝)と結婚。
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2月16日
・上杉謙信(46)、「上杉家軍役帳」を作成、諸将の軍役を定める。
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2月21日
・村井貞勝、公家の子3人に親王宣下があり、警固を命じられる。自ら参内して務める(「御湯殿上日記」)
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2月27日
・信長、岐阜発。垂井泊。京都へ。
29日、佐和山城(丹羽長秀守備)着。
3月2日、永原着。
3日、相国寺に寄宿。
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2月28日
・家康(34)、元三河作手城主奥平貞能の子信昌(天正1年8月、徳川方についた時、家康娘を妻に迎える)を長篠城主とし、翌3月信長から送られた兵糧米2千俵のうち300俵を籠城用として与え、勝頼への守備を厳しくする。
加勢として一族の三河御油領主松平景忠・伊忠をつかわす(監視役でもある)。
3月、長篠城改修命ず。
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3月
・信長、家康に兵糧を送る。家康はその一部を長篠城に入れる。
また、信長は佐久間信盛を諸城視察に派遣。後の長篠合戦への下準備を整える。
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・信長、美濃~京都間の中山道改修。
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・信長、摂津住吉郡平野庄へ、従来通り蔵納に相違が無い、陣取・放火・濫妨・狼藉・伐取竹木を停止すると安堵。
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・信長、養女を大納言二条昭実に嫁がせ二条家と縁類となる。
翌年4月、一条川端の報恩寺を接収、二条家に贈与。空家になった二条家旧宅に改造を加え自身の京屋敷とする。
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・信長、春日神社の神鹿を京都に拉致するデモンストレーション。興福寺・春日社の権威を否定し、それを衆人に明らかにする狙い。
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・石山の門徒衆、淀川・神埼川に挟まれる大和田に砦を築き、尼崎に布陣する荒木村重に対峙。
荒木はこの挑発にのり大敗。荒木は十三の渡しに門徒衆を誘き出しこれを破り、大和田と天満の砦を奪う。
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・毛利氏、信長に対抗するため河野氏に援軍を要請。忽那通著・通恭等、丹氏の守る福山城を攻略。
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3月1日
・信長、村井貞勝・丹羽長秀に命じて徳政を発し、人手に渡っている公家衆の本領を持主に還付する措置をとる(「信長公記」では4月朔日)。
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3月1日
・村井貞勝、中御門宣教・甘露寺経元・正親町季秀の訪問を受ける(「宣教脚記」)。
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3月3日
・信長、京都に入る(「兼見卿記」「御湯殿上日記」)。
4日、信長、宿所(相国寺)に集まった公家たちに、今日は対面しないことを伝える(「兼見卿記」)
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3月4日
・伊達実元、陸奥二本松城主畠山義継攻撃をはかるが、蘆名盛隆が調停に乗り出す。
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3月6日
・武田勝頼(30)、高野山成慶院に信玄の位牌を建てる(使者山県昌景)。
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3月6日
・大友義鎮(宗麟)、五条某へ、毛利氏との対峙にあたり浦上宗景・村上元吉と加勢の田原親賢を赤間関に出陣させたので合流するよう指示(「筑後五条頼長所蔵文書」)。
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3月7日
・北条氏政、小田原城下板橋の善左衛門・善七郎に分国石切の統領を安堵。
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3月8日
・信長、河内高屋城の三好康長を攻める。
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3月13日
・宇喜多直家の将大森義臣、浦上宗景の兵と備前辛川に戦う。
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3月14日
・信長、京都の都市貴族に徳政令を発布(門跡・公家衆の借銭・借米を帳消し)、寺社門跡と公家衆の所領回復を命じる。
但し、他への寄進地・沽却(売却)地・不知行(他人の横領)地も全て「棄破」(無効)とされ、旧主の証文を返却するよう指示。

厳密には、この時の信長の徳政令は、
「諸門跡・諸公家衆借物方、同預状、或(あるいは)祠堂銭(しどうせん)幷(ならびに)替銭由緒之族(やから)、或商売之下銭之事、任徳政之新法畢、仍状如件。
          三月 日                      信長(朱印)
          雑掌中                             」
とあり、『中山家記』3月14日条に収められている。
文面を見ると、この段階では、借金帳消しにとどまっており、領地を取り戻すことには触れられていない。

その後、『多聞院日記』4月10日条には、
「京ヨリ連宗下、二条殿へ去廿八日ニ信長ヨリ祝言之、京都公家領ハ百年以来地発(じおこし)也、善政也云々」
とある。
「地発」は、地徳政、つまり土地にも適用される徳政であるという。信長の徳政は、その後、土地関係にまで広がり、多聞院英俊は、この政策を「善政」と評価している。 
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3月16日
・今川氏真、上洛、信長と京都相国寺で対面。
20日、相国寺内で蹴鞠。信長の見物するなか、今川氏真、三条父子、藤宰相父子、飛鳥井父子、広橋、五辻、庭田、烏丸が披露。
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3月19日
・村井貞勝、伏見荘三淵藤英跡のことで参内(「御湯殿上日記」)。
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3月20日
・龍造寺隆信、三池鎮実の拠る三池城を攻め落とす。
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3月22日
・信長、長岡藤孝に宛てた朱印状。この秋の本願寺攻撃のために、丹波2郡(舟井郡・桑田郡)の国衆を藤孝に配属。
(実際には、この秋は本願寺と講和。この年4月に本願寺と懇意な三好慶長が降伏し、彼の仲介で講和成立)

「来たる秋、大坂合戦申し付け候。しからば、丹州舟井・桑田両郡の諸侍、その方へ相付くる上は、人数等別して相催し、粉骨を抽かるべく候」(『細川家文書』)
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3月23日
・信長、松永久秀から大和守護職を取り上げ、代わって原田(塙)直政を任じる(「多聞院日記」)。対本願寺作戦の一環。

「去る二十三日に塙九郎左衛門尉(直政)当国の守護に相定めおわんぬ云々」(「多聞院日記」)
この時点での本願寺包囲体制:
荒木村重(摂津)-長岡藤孝(東丹波・山城西岡)-原田直政(南山城・大和)。
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3月28日
・村井貞勝、信長養女が二条昭実に入輿するにつき、警固役を務める(宣教卿記)。
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3月下旬
・武田勝頼、三河足助口に侵入。
織田信忠、尾張衆を率いて出陣。出陣前に「出羽介」に任官。
勝頼は、作手に経て、家康に奪回された野田城を攻撃、更に吉田方面に出たあと、方向を転じて5月11日長篠城を包囲。
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