2016年10月25日火曜日

正長元(1428)年6月~8月 小倉宮(後亀山天皇の子、後南朝の正嫡)が伊勢へ出奔 鎌倉公方足利持氏、京都進軍の噂 称光天皇(28)没 彦仁親王(後花園天皇)践祚 大規模な土一揆、京都・奈良に波及 伊勢国司北畠満雅挙兵 

東京 上野公園 2016-10-24
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正長元(1428)年
6月4日
・聖地に向かうユダヤ人の乗船をヴェネツィア艦船に禁止
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6月13日
・所領争いで公武の紛議。
近江羽田庄(はたのしよう)は伝奏広橋兼宣の私領であったが、義持在世時、兼宣が勅勘を受け、没収されて称光天皇生母光範門院の所領となっていた。それを義教は兼宣に戻すよう執奏し、女院の損失は別途料所を献ずることで補填しようとした。
朝廷側は、広橋への返付は了解したが、幕府に対し、まず女院料所進献を命じ、然る後、広橋へ返還しようと主張、これに対し義教は広橋への返付が先だと言い、両者対立、時房は「虎の尾を踏むに似る者歟」と恐懼した(『建内記』6月13日条)。
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6月15日
・称光天皇の回復は困難視されたものか、病悩平癒祈願の「御修法」の大阿闇梨(導師)を引き受ける高僧がいないという事態になり、周旋役の時房を困らせている(『建内記』6月15日条)。
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6月28日
・ヴェネツィア、フランチェスコ・ベアチアーノ、書記官長就任
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6月30日
・ソールズベリー伯トマ・ド・モンタギュ、ドーヴァー海峡北部サンドイッチで上船。
町々を占領しオルレアン包囲に向う。ノジャン・ル・ロワ、ランブイエ、ロシュフォール、シャトーヌフ・アン・ティムレー占領し、部隊をシャルトルに終結。
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7月
・イギリスに味方するシャンパーニュ地方の奉行アントワーヌ・ド・ヴェルジー、フランス国王に忠誠を保つヴォークールールの町を包囲。
ドンレミ村の人々はヌーシャトーに避難。
ヴォークールールは、ブルゴーニュ派軍隊には敵対行動を行わないとの妥協案を約束し、包囲解除。
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・ネーデルラント継承戦争終結(デルフトの協定)
フィリップ善良公とヤコバの和解。フィリップ善良公、ホラント伯領・ゼーラント伯領・エノー伯領を獲得。
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7月6日
・この日未明、大覚寺に寓居していた小倉宮(後亀山天皇の子、後南朝の正嫡)が出奔し、行方知れずとなった。

12日、京都に、

所詮、関東(持氏)より申す子細に依て、伊勢国司(北畠満雅)同心せしめ、則ち国司在所へ入御と云々。

との情報が伝わってきた。
持氏と伊勢国司が通謀して、小倉宮を「国司在所」に迎え取ったという。

明徳3年(1392)の南北朝講和の約では、後小松天皇の跡は南朝から皇位を出すはずであったが、応永19年(1412)の称光天皇践祚でそれが破られ、今また幕府に小倉宮を立てようとの動きがまったくないことから、怒って出奔したと噂された。

伊勢国司北畠満雅は、南朝の重臣北畠親房の子孫であるが、義満の政策で幕府から伊勢南半国守護に任ぜられ、とくに”国司”の称号も許されていた。「国司在所」とは、守護所(国府)多気(現、三重県一志郡美杉村)で、大和吉野に近い山間部にあった。
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7月13日
・天皇の容態が危急となり、将軍義教は満済・管領らと謀って皇嗣を伏見宮貞成の子(北朝方崇光天皇のひ孫)、彦仁(ひこひと)王に内定して後小松上皇に執奏し、この日、秘かに彦仁の身柄を洛東の若王子社に移して厳重に警固した(『椿葉記』『満済准后日記』)。
天皇には男子なく、禅僧一休宗純は天皇の兄であったが、すでに僧籍が永くて皇統の資格なく、後小松の一流はここに断絶する。後小松上皇としても、伏見宮家から次の皇位を出すしか、方法がなかった。
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7月18日
・伊勢へ出奔した小倉宮の始末をつけるため、幕府は伊勢奥地への出兵を企てた。
しかし、伊勢守護の畠山満家は管領の重任にあり、義教は満家を遠征に赴かせたくなかった。
この日、満家の分国伊勢を山城に替えようとして、義教は護持僧満済を幕府に招き、満済の同意を得て満家に内意を伝えさせた。

翌日、義教はさらに畠山満則・細川讃岐入道の両近習を上使として、伊勢守護職の更迭を管領に伝達した。すでに伊勢出陣を決意していた満家は、いまさらここで守護交替をすることは、武門の習いとして卑怯に受取られると懸念して、義教の命に難色を示した。しかし、重ねて義教から、

管領の勢に於て、御心安きに付き、御膝下に置かるべきなり。(『満済准后日記』7月19日条)

と、懇篤に説得され、やむなく上意に随った。

さらに義教は、管領への信任の証として、山城国に加え、幕府御料所(直轄領)から河内国橘島(たちばなじま)を割いて、畠山氏に与えた。後任の伊勢守護は、かつてこの国を分国とした経験のある土岐持頼に命ぜられた。持頼はあわただしく入部の準備にかかった。
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7月19日
・この日、伊勢より安養院僧正なる者が満済に急報して、小倉宮が守護所多気の東方、一志郡の興津に滞留している旨を伝えてきた。
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7月19日
・後花園天皇即位の礼服の要脚(費用)他儀式に必要な用途が武家伝送を通して幕府に要求(「建内記」同日条ほか)。

室町中期、天皇即位儀礼、大嘗会、奉幣米など朝廷の臨時多額の出費は、皇室領荘園よりの調達では不可能、多くは幕府権力の背景のもと、段銭(田地1段別に何文という形で執り立てる)により諸国守護大名より調達。
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7月20日
・101代天皇・称光天皇(28)、没。
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7月28日
・彦仁親王(貞成親王の皇子・後花園天皇)、上皇の猶子として三条公光邸で践祚。

伊勢国司北畠満雅ら旧南朝方は納得せず、京都嵯峨から国司館に移動していた小倉宮良泰親王・義仁親王は、義仁親王の即位を宣言させ、天基天皇と名乗らせる。
幕府は土岐持頼を伊勢守護に任じて追討を命じ、美濃守護の土岐持益・美濃国国人・伊賀守護の仁木氏・伊勢の長野氏らにも出兵の準備をさせる。

北畠氏は1414年にも皇位継承問題で幕府に叛旗を翻して後、隠然たる勢力を伊勢・伊賀・宇陀の山間地帯に保つ。関東の持氏が北畠と連携して謀叛するのではないかとの恐れが京都に満ちる。*
月末
・義教政権の最初の山門訴訟。
延暦寺、山門使節杉生坊ら7人を幕府に派遣、5ヶ条要求申入れ。この時点では政権基盤弱く、衆徒懐柔方策をとり、要求を容れる。
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8月
・この月下旬頃から近江で徳政(債務破棄)を求める大規模な土一揆。
奈良・京都に波及してゆく。
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・北野社の西京神人、北野社に閉籠。
この時、山訴(山門の幕府に対する強訴)も同時に起こっている状況。
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・赤松満祐、侍所頭人に補せられる。
義教の施政前半期、幕閣の宿老は畠山満家、山名時熙(ときひろ)、三宝院満済であったが、満家没後は赤松満祐・細川持之が宿老格として待遇され、重臣会議に出仕して義教の諮問に答える。*
・夏、フス派ターボル軍、ウルリッヒ・フォン・ローゼンベルクと国内のカトリック諸侯等と和平を結んだ上でメーレンへ侵攻、全面制圧。
他方面の軍勢はリヒテンシュタイン、オーベル・ラウジッツ、ロバウを攻撃。
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8月2日
・武衛斯波義淳、下国を試みるが、守護代甲斐氏により止められる。
義淳は「計会」(所領が少なく、経済的に困窮)のあまり京都から没落しようとする(「満済准后日記」同年8月6日条)。
この年将軍より飛騨大野郡小八賀1千貫文の地と尾張丹羽郡松竹の地が与えられる(同、同年10月28日条)。
しかしその後も義淳の困窮は止まず、永享2年(1430)以前より申請の30余ヶ所の宛行いを将軍に願うが、これは実現せず(同、同年10月8・10日条)。
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8月3日
・この日、伊勢守護の土岐持頼から、鎌倉の持氏の京都進軍が確実になったと当地(南伊勢)では噂が流れている、その噂に力を得た国司北畠満雅が、挙兵を準備していること等の情報を京都へ伝えてきた(『満済准后日記』)。

11日、幕府は本格的に満雅を追討する必要ありとなし、新守護持頼が充分に分国(伊勢北半国)を掌握していないことをも配慮し、土岐氏の宗家である美濃守護の土岐持益に出兵を命じた。
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8月20日
・北畠満雅討伐のため、土岐持頼を総大将として7千余・畠山持国軍7千余が出兵。
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8月23日
・伊勢国司北畠満雅、小倉宮を奉じて挙兵。足利幕府討滅を宣言。鎌倉公方足利持氏もこれを支持。各地の武士も挙兵。国司軍1万余・大和の越智維通軍3千で進撃。

北畠満雅の挙兵に従って蜂起した沢・秋山ら宇陀郡の国人は、宇陀郡内一揆という国人一揆を結ぶ。
大和南部で、宇陀郡から乱入した徳政一揆が顕著な動きをみせたのは、沢・秋山らの動きと関係がある。
年末、満雅戦死後も、沢・秋山らは北伊勢の関氏と共に翌年2月まで抵抗。
2月初頭、戦況は土一揆が前面に出ている。
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8月25日
・長野・雲林院氏ら、幕府側つき伊勢へ進軍。
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